藤井義雄
ふじいよしお
大正11年11月13日生
80歳
藤井義雄氏は琴平町において、先代より水車と八丁撚糸機[はっちょうねんしき]を使い、古くから撚糸業を営んでこられました。幼い頃の思い出から、戦後のガチャマン景気、更に八丁撚糸をしまい込むまでの職人としての誇りと、思い出を、書き綴って頂きました。


明治44年父藤井定治は当時の山田郡桐生町大字安楽土、現在の東五丁目で兎掘用水路を利用して、家内工業的に小さいながらも揚撚屋[よりや]を立ち上げたと聞いてます。
その後、縁あって永らく仕事を請けていた桐生町大字新宿(下宿)で縮緬お召しの製造元、岩沢喜助氏より、赤岩用水路を利用した現在の場所に移転をすすめられました。
大正8年、田園を埋め立てた桐生町大字新宿263番地(現琴平町)に引っ越し、横を流れる用水路には「上げ下げ式水車」が豊富な水を動力源として力強く廻り始めました。
川上の両毛整織株式会社(現小梅町地区)までの川辺には家が数軒ありましたが、川下には1軒もなく、草の茂る間を境野村へと流れておりました。道はあぜ道(馬入れ)を利用するしかなく、田んぼ中の一軒家までには電気も通じず、暫くの間はランプ生活だったそうです。清水義男先生の「ふるさとの民話」のなかで語られる「人喰川」はこの地区の赤岩用水路を指すものと思われます。
その後、大正10年に桐生では市制が施行され、翌年の大正11年11月13日、私は藤井定治の三男として生まれましたが、その頃より川沿いには水車を利用する家が建つようになったそうです。
大正13年の市役所発行の地図によれば小梅町地区で7〜8軒、琴平町地区では12〜13軒の家屋があり、大部分が水車と八丁撚糸機[はっちょうねんしき]を使った撚糸業で、連なった水車からこぼれる飛沫は太陽に反射し、実に美しかった光景を今でも思い出されます。
昭和4年、小学校入学頃の新宿通り東側の水路は川幅も広く水量も豊富で、上げ下げ式水車が連なり、反対の南側水路は川幅も狭く、ど箱式の水車が所々見える程度で、その殆どが八丁撚糸屋か糸繰り屋でした。
父は大正15年当時、牛塚虎太郎群馬県知事の許可を得て、水車を電動機モーターに変えましたが、後で聞いた話では夕立等による水量の変化や、数台の機械の一部停止時の負荷力の変化で起こる回転斑を嫌がった為だそうです。
家から見えた雄大な赤城山、広々と広がる田園風景、その先に小さく見える石造りの、のこぎり屋根が十数棟連なり、すげ笠をかぶり白くお化粧をした様な巨大な水槽、右側に二階建ての寄宿舎を塀で囲んだ工場が、明治41年創立の両毛整織株式会社でした。その工場より掃き出すように流れてくる赤岩用水が、数多くの水車を廻して、渡良瀬川に戻っていくあの昭和5〜6年頃の田園風景は私の脳裏にしっかり焼き付いています。
会社は戦中精工舎へ、そして戦後は解体し、後に南幼稚園や住宅が建ち並び、今は中通り線の道路建設工事で又様変わりし、近い将来渡良瀬川に橋をかけ50号線と結ばれるようです。現在は水路の水もわずかで、昔を知る人も少ないのだろうと思います。
昭和初期、渡良瀬河畔より小倉峠から川内村、赤城山を望む



桐生では寛保3年頃から縮緬織を生産していましたが、撚糸の技術はきわめて幼稚で一本掛けでの機械を人力で廻すという不便なものであったそうです。
天明3年(1783)、岩瀬吉兵衛という元来手工に巧みで研究熱心な彼が、苦心の末、水力を利用した完全な撚糸機を発明しました。
この撚糸機は多くの錘を備え、それぞれに糸を付け、水車の動力で回転させる為、従来のものとは比較にならないほど能率が良く、均一で良質な糸を生産することができました。これがいわゆる八丁撚糸機[はっちょうねんしき]で、水車を連動させた画期的な発明でした。吉兵衛は文政5年3月26日77歳で没し、東久方町一丁目の大藏院に墓があります。
その孫にあたる笠原吉郎は祖父の意思をついで撚糸機の付属機械の研究努力を重ね、3年目にして、撚り上がった糸の長さを決める回転時計を考案し八丁撚糸機[はっちょうねんしき]を完全なものとしました。吉郎は明治11年9月25日69歳にて没し、新宿3丁目の定善寺に静かに眠っております。
この水力八丁撚糸機[はっちょうねんしき]が一般に普及するのは明治10年以降といわれ、最盛期の大正中頃は、上げ下げ水車が連なり壮観だったようです。
水車の時代は早い回転を得るために八丁撚糸機[はっちょうねんしき]の錘を廻す大車の直径は普通1m16cm位として効率を稼ぎましたが、電動モーターの時代に入り大車は80cm位に小さくなりました。

注)大正末期、藤井撚糸使用の大車が相生町五丁目県繊維工業試験所内八丁撚糸機[はっちょうねんしき]及び付属機械類の動態展示試験室にあります。ただし心棒は戦時金属供出してしまい、ありません。



▲生工時代に学んだ教科書の中の八丁撚糸機構図(1937年発行)

八丁撚糸機[はっちょうねんしき]は「八丁撚車」或いは略して只の「八丁」と呼ばれていますが、その語源は「口も八丁、手も八丁」という言葉を引用したものと伝えられています。辞書によれば「しゃべることも、することも達者なこと」となります。
そして、八丁撚糸は大別して二種類に分類できます。

(1)下撚り八丁(片撚八丁、片錘八丁)
生糸を織物に適合する太さに合糸し、右又は左に撚りをかけて(200回/m〜300回/m)綛状にする。八丁撚糸機[はっちょうねんしき]は利用範囲が広く、近年までお召し以外の撚糸にも利用されています。
1. 繭一個からとれる生糸の太さは約2デニール位。普通お召しの緯糸の太さは84デニールから150デニール位のものを使用する事が多く、右撚り左撚りのものを同数作る。
2. 下撚り八丁は通常1台に付き24錘で1回で24綛できる。
3. 生糸の撚りはあらかじめ油(ロード油等)に浸し、加撚中も乾かない様に時々湿気を加える。

(2)揚撚り八丁(両錘八丁)

この撚糸機は主としてお召しや縮緬などシボを作るための緯糸を作る撚糸機で、左右の撚りが同時に撚れ、しかも強撚糸(2500回/m〜3000回/m)ができるように作られている撚糸機です。
一本の錘の両頭に管をはめ、引き出すので同時に左右の撚りができ、錘先よりはなれて行く糸には「シズ」の重りにより適当な張力が得られ、巻き取りまでの距離も比較的長く、それは近代化した撚糸機械も遠く及ばない性能と特徴のある機械といわれています。
桐生の織物の代表であるお召しは、下撚り八丁で右撚り左撚りに合糸された絹糸を練り上げ染色し、糊付けと糸張の工程を経て、最後に揚撚り八丁撚糸機[はっちょうねんしき]で強撚を加え、緯糸ができあがります。
最も良いお召しとは、色、シボ、絹味、そして、独特の風合いにあるといわれていて、昔はこの工程を総て自己の工場内に設けていました。釜場、撚場で一貫作業を行い、工場入口には縦覧謝絶の札をかけ、機屋[はたや]さん各々の技法と研究を続け、特色を出していました。
揚撚り八丁の錘にも京式と桐生式とがありまして、時には「皿シボ」といって撚り上がった糸を一定の長さ(10cm位)に少し束ねて、お皿に水を入れ、糸を浸し、その縮み具合を見て研究したようです。父は常々「俺は錘先で飯を食べているんだ」といっていました。撚度は撚出し用のツバ(車)に布又はボール紙を巻き、表面はすべり止めのサメ皮で覆い微調整もできるようになってました。
絹の緯糸は水枠に糸繰りをしてから水に浸し、以後の工程は、総て湿気をおびた状態で管理し、揚撚り八丁にかけ、撚り上がった糸を乾燥させた後、ボビンに上げて次の製織の工程に移ることになります。
緯糸には右撚り左撚りがあり、しかも同色のために間違いやすく、枠、管ガラ、ボビン等には印が付けてあり、織り上がるまでは細心の注意が必要です。
八丁撚糸機[はっちょうねんしき]用の管巻機もそれぞれ下撚り、揚撚りに適合した自動ストップ式が完成されていました。
八丁撚糸機[はっちょうねんしき]の工場は絹糸の場合、湿気の状態が望ましいので、床は土間か或いは少し掘り下げて窓は高目の位置に作られていました。
昭和の時代に入り、緯糸に人絹糸を用いた交織お召しも製織される様になりましたが、人絹糸は普通120〜150デニール又は200デニールをそのまま染色して使う為に、下撚り合糸の必要はなく乾燥の状態で揚撚り八丁で強撚をかける事となり、撚った糸は糊付けをして枠に巻き取り乾燥後、ボビン巻きして織場へと送られました。
織り上ったお召は「シボ取り」「湯のし仕上」の工程を経てできあがるわけです。



▲長さを測定する時計(回転計)の説明をする藤井義雄さん、木製の歯車で作られている。
 

▲ツムと管・ボビンの説明をする藤井氏。
 

▲ボビン

時代は大正から昭和へと、織物関係も順調に発展、水力より電力へ、織機も順次自動化が進み、昭和8年には境野村も合併され、遂に桐生織物の需要が西陣を凌駕したとも報じられ、昭和9年には後継者育成のため、県立の桐生工業学校が色染科、機織科の2科合計50人で開校されました。
昭和10年頃より満韓支(満州・韓国・シナ)向けの人絹縮緬の輸出が盛んになり、我が家でも八丁撚糸機[はっちょうねんしき](揚撚り)の枠取部分をコロ取り式に改良し、計8台を5人で稼動させていた記録があります。
しかし、昭和12年(1937)日中戦争が勃発し、翌13年には国家総動員法も公布されて物資の供給も次第に窮屈となり、遂に3月1日、商工省令により八丁撚糸機[はっちょうねんしき]に必要不可欠な消耗品の釣瓶が、綿糸の統制品で配給制に指定され、割当票交付事務上、組合の創立が必要となり、同年8月21日、桐生撚糸賃業組合創立総会が南小学校講堂に於いて開催された旨が、昭和13年8月23日付両毛織物新聞に報道されています。
注)後述の両毛織物新聞抜粋を参照
昭和14年、遂に国民徴用令も公布して第二次世界大戦が勃発。ノモンハン事変も発生し戦争への足音も感じられるようになりました。
桐工五年生となり、学校には機械工業界からの求人も増し、二学期より希望者は桐生高等工業学校(現群大工学部)機械科実習室を借用し勉強、三学期を迎え内定した大部分の生徒は仮卒業し就職先へと散って行きました。
私も遂に繊維関係を一時離れ、中島飛行機太田製作所に就職し、希望した設計部門に配属され、後に課長のよきアドバイスを受けながら油圧関係の部品3種を考案、昭和18年2月、所長より特別表彰を受けましたが、同9月入営後直ちに満州へ。翌19年5月、仙台陸軍飛行学校に入学し、航空気象学を勉強し9月に卒業、直ちに三重県鈴鹿市の陸軍第一気象聯隊に教官として転属、昭和20年7月第二気象聯隊として兵庫県三木市の国民学校を基地に展開するも間もなく終戦、残務整理も終り8月下旬召集解除となり帰郷しました。



▲織物博物館「紫」にある八丁撚糸機

満二年ぶりに見る赤城山に迎えられ我が家に帰り家族に合った時は、言葉もなく母がそっと目頭に手を当てていた姿は忘れられません。妹の話によれば毎日写真に向かって武運長久を祈っていたそうです。
昭和21年の春、知人の紹介により市内に疎開してきた元自転車会社の設計関係の仕事で入社。父は倉庫に貸していた工場を整理して、各種部品を集めて八丁撚糸機[はっちょうねんしき]を組み立てました。大部分が木製の撚糸機は供出部分の金属が少なかったので、何とか完成したようでした。
農家から娘さんの嫁入りに使う縮緬織の緯糸を頼まれたので、機屋さんを通して農協から繭を仕入れて、我家で緯糸を撚ることになりました。
管巻機は新製しなくてはならないので、父が手動の機械で間に合わせ、会社も半年後、昭和23年春に私の退社が決まり、その間妹が手伝うことになりました。
昭和23年後半よりは仕事に集中しましたが、子供の時から見ているので覚えるのも早いとの事でした。縮緬も下火になりかけた頃に、交織お召し用緯糸の話も始まり、2台目、そして、妻も手伝う様になり3台目と増やして行きました。
昭和30年代に入り縫取お召しも最盛期を迎え、帯のメーカー迄もお召しを織るような状況でしたから、八丁撚糸機[はっちょうねんしき]を初めての人までが動かす有様でした。
その頃に八丁撚糸業者のみ30人位で組合を組織し、桐生撚糸同業組合と称しておりました。

組合長 周東平次郎 揚撚り 芳町
  昭和51年3月30日没59歳
副組合長 桜井徳雄 揚撚り 織姫町
  平成3年4月3日没77歳
昭和53年
初代・八丁撚糸伝統工芸士
副組合長 栗田多キ藏 揚撚り 浜松町
移転後死亡其の他不詳
会計 藤井義雄 揚撚り 琴平町
現在無職80歳
会計 武藤圭介 下撚り 今泉町
現在撚糸業77歳
  高橋昇 揚撚り 東5丁目
平成14年2月13日没93歳
平成3年
二代目八丁撚糸伝統工芸士
(平成14年以後伝統工芸士なし)

組合は相互の親睦、情報交換、技術の向上、釣瓶等の共同購入を行いお、年2回位家族、従業員を交えてのバス旅行は好評でした。それから、年1回の総会及び年4回位幹事会も催しておりました。
しかし、ブームは長く続きません、縫取お召しより桐彩お召し(マジョロカ)、風通お召しへと先細り傾向は変わらず、遂に兵児帯やネクタイ用緯糸まで手掛けてみたが思う程ではなく、一部八丁撚糸機[はっちょうねんしき]を減らし物置に眠っていたバント式撚糸機(昭和3年頃製)を設置し、帯の緯糸用に引揃を始めました。
昭和39年9月3日明治大正昭和と八丁撚糸一筋の父は遂に73歳の生涯を閉じました。時代はまさに近代化へ突入し東海道新幹線の開業、東京オリンピック開催の年でもありました。昭和40年半ばには八丁撚糸機[はっちょうねんしき]と付属機械と部品等一式をまとめ、又必要な時が来るのを信じて物置にしまい込んだ次第です。その後は、引揃一筋に帯、金襴、カーテン他美術織物用各種の緯糸を引揃へ撚っていましたが平成8年7月、築78年の工場家屋も老朽化が進み、後継者難と高齢化で廃業しました。



▲昭和12年、撚糸組合の報告書
 

▲南公民館で作った大正13年の水車地図には、水路に沿って多数の水車が見られた。

平成9年8月の教育行政方針「桐生を好きな子供に育てる」を目標に、南公民館の企画で南地区の子供達と大正13年制作の桐生南地区の地図上に、地元年寄りたちの指導で織物関係19業種と水車の位置を印す教室が開かれ、撚糸と水車関係者が主に参加しました。
子供達は「はたやさんだけでもこんなにたくさんあったんだ」とか水車の多さにびっくりしていました。
注)平成9年8月7日桐生タイムスが写真入りで報道。

平成12年1月、桐生織伝統工芸士会会長新井実氏より、県繊維工業試験場で、長い伝統と歴史のある桐生お召しの生命ともいわれる緯糸のシボを作る揚撚り八丁撚糸機[はっちょうねんしき]、及び付属の機械を一式整備し動態展示し、お召しを始め各種織物の撚糸の研究に供したいとの主旨で、試験場長町田旭様、繊維技術部主任研究員兼機織課長玉村日出隆様よりの依頼をうけ、場内にある八丁撚糸機[はっちょうねんしき]及管巻機を調査し、程度も良いので部品交換や一部修理しました。そして動力として直結モーターを取り付け、糸繰機、ボビン揚機又各種部品一揃え全部を持参し、平成12年4月上旬試験運転し完成いたしました。
思えば八丁撚糸機[はっちょうねんしき]をかたづけて35年、公的機関で自ら使用していた機械が整備され動き始めた時は、嬉しさと感動で涙がこぼれました。水枠、管ガラ、シズなど各種、お召し枠、ボビン等、錘も各種揃っているので研究試験にも末永くお役にたてればと念じております。
最後に執筆に当り特記しなければならないのは、戦後金属の供出で壊滅状態の八丁撚糸機[はっちょうねんしき]および管巻機など製作修理に当たってくださった山添製作所(浜松町二)です。謹んでここに感謝の意を表します。

 

山添源吾 昭和39年8月1日没69歳
山添竹之助 昭和49年1月8日没58歳
尚最初、八丁撚糸機[はっちょうねんしき]をテーマにと執筆の以来があった時、揚撚りの経験者は数人しかおらず、八十路に踏み入れた私ですが、関係者の補筆を期待して筆をとる事にし、今では新・あすへの遺産が立派に完成されることを願う次第です。


【両毛織物新聞より】

営業者163名全部出席、座長より諸般の経過報告があり組合規約、役員選挙等も附議決定して散会したが組合地区は桐生、大間々、梅田、相生、川内、笠懸の1市1町1ヶ村で未だ大間々、笠懸は申込がないがその全員参加をみれば組合員200名突破のはずです。
当日決定の役員は次の如しです。

組合長 武藤恒八(八丁下撚り)今泉町
副組合長 藤井定治(八丁揚撚り)琴平町
副組合長 大沢文作(長谷式撚り)錦町二
会計 毒島正治(八丁揚撚り)今泉町
会計 豊村要吉(八丁下撚り)琴平町
評議員 橋本駒吉泉町外7名

更に組合地区を1班から8班に分ち各班に正副班長を1名ずつ置き、統制配給に万全を期していました。
尚筆者宅に保存されている資料により記載されている13年度14年度16年度の会員名簿で地区別に分類すると次の通りです。
今泉町9名
  高橋昇 武藤恒八 山田隆一 峯山武 毒島正治 森島秀 森島正雄 山沢英之 森島俊篤
天神町12名
  島田春吉 須永勝三郎 須永道太郎 小林興市 加納誠三郎 小林富吉 峯崎武 木島滝太郎 沢井正三 長谷部至 小沢英之 村岡寅雄
東久方町2名
  星野二九三 山口利平
泉町1名
  橋本駒吉
清水町6名
  小平万吉 新井徳松 須田久吉 須田安蔵 中島岩次郎 周東豊三郎
錦町一9名
  川田朝次郎 杉山清 丹羽文三郎 河辺幸太郎 大竹市太郎 田村恒次 高橋友三郎 大沢福次郎 中里銀平
錦町二15名
  岡部正十郎 野本政一郎 栗原寿助 籾山賢二 大沢文作 松山定吉 前原粂吉 津田林太郎 桜井鉄次郎 大沢仙太郎 籾山政助 小林正作 塩原松四郎 阿左見誠一郎 中山千里
稲荷町2名
  川田理一郎 大沢福次郎
織姫町17名
  品川活 春木孝之 秋元清治 徳井政吉 金子慶三 内地貫一 森里重吉 田栄太郎 山口竹三郎 須田米吉 河合鉄三郎 坂田晨一郎 青木紀之助 新井平三郎 青木商会撚糸部 青木良三郎 坂田実
美原町1名
  尾根山福松
安楽土町2名
  高橋幾太郎 東宮勇雄
諏訪町1名
  川島行雄
芳町5名
  深町吉次郎 新井菊三郎 高木久七 小林友三郎 田村保
浜松町6名
  大竹市太郎 川島寅吉 加藤房吉 栗田太郎 本島光次 谷野義助
新宿通一4名
  田中力太郎 横塚利一郎 恩田友三郎 柿沼浪吉
新宿通二3名
  梅沢藤三郎 朝倉誠一郎 山沢米太郎
新宿通三9名
  上田幸太郎 野本己三郎 大須源八 野本福蔵 木村嘉四郎 新井福次郎 吉田倉吉 朝倉春吉 石原貴
三吉町9名
  知村爲藏 田辺寅吉 大沢理一郎 間田丈太 杉山清 大沢良三郎 大沢千代 新井高一郎 大沢国二
小梅町5名
  小島季太郎 中村力松 半田うい 関谷源次郎 周藤惣太郎
琴平町10名
  小林源吉 渡辺辰次郎 豊村要吉 太田邦治 山鹿冨士吉 片岡格一 林駒雄 森下角太郎 藤井定治 長谷川国嗣
境野町19名
  田中七郎 田島伊八 新井タケ 下山錦三 斉藤卯一郎 舟越太郎 内田庄右ェ門 増田忠作 小島万吉 藤尾興吉 羽島キク 新井秋次郎 野村文治郎 前原直次郎 清水信次郎 浅海眞三郎 金丸等一郎 山崎芳次郎 石川千代
東堤町2名
  田村時次 高橋友三郎
広沢町7名
  中山正治 朝倉武男 内田勇 籾山弥吉 一ノ瀬荘三郎 堀込林三郎 土屋綱三郎
山田郡梅田村字上久方7名
  蛭間久七 荒井良一郎 今井元二郎 五味田角太郎 香山治三郎 村岡幸七 青木理一
山田郡川内村字東小倉2名
  田村恒次 中里銀平
山田郡相生村字如来堂14名
  外山金三郎 須永喜太郎 伊藤勘太郎 根岸六郎 周東仲司 堀越芳 逢坂上林松 土屋網五郎 池田邦太郎 池田勝二 神山延次 野村幸四郎 喜多勝太郎 横田喜代志
山田郡相生村字下新田4名
  遠藤岩吉 新井勇次郎 室田常太郎 高草木松三郎
総組合員数183名

昭和13年3月1日商工省令第6号綿糸配給統制規則第2條により群馬県知事(当時土屋正三殿)宛に毎月次の事柄を記入の上提出しました。
1)前月使用した種類別機械台数
2)前月従事した従業員数(男、女総計)
3)前月生産数量價額
4)当月綿糸使用予定数
参考までに昭和13年11月の配給申請書から種々の事柄が推計できると思われます。

総組合員数183人

綿糸配給申請者数118人
撚糸機台数443台
従業員数435人
11月生産価格8927円
八丁撚糸機業者数91人
  〃  台数263台
  〃  下撚り業者数52台
  〃  下撚り台数143台
  〃  揚撚り業者数39人
  〃  揚撚り台数1207

(注1)上記数値は昭和13年11月分として配給申請した1ヶ月分の数値である事に留意して見て下さい。
(注2)組合員を地区別に分類したので業者の多少は昔からの用水路(水車)に関係があるものと思われます。

《使用参考文献及資料提供者》

あすへの遺産・明治、大正、昭和を語る
第1,2,3集桐生市老人クラブ連合会
桐生市80年写真集アカギ出版
桐生市歴史年表2002桐生市教育委員会
桐生市地図大正13年実測桐生市役所
桐生市及附近図昭和12年桐生市役所
各種紡績木村六助著
昭和12年2月発行大阪市淀屋書店本書は昭和12年度桐工機織科3年(旧制)教科書として使用、手動式の八丁撚糸機の解説図(年代不詳)
桐生織物協同組合
群馬県繊維工業試験所
南公民館
上毛新聞「世紀をつなぐ繭の記憶」
桐生タイムス
藤井義雄資料
  1.両毛織物新聞(桐生市宮本町1-264)
  昭和13年8月23日付
  昭和15年8月7日付
2.桐生撚糸賃業組合員名簿
  昭和13年14年16年版
3.昭和13年11月生産数量及綿糸使用量
   12月分予定数量報告書

注)文中の役職名、氏名、地名はその当時のものをそのまま使用




▲水車シンポジウムで発言する藤井氏(平成13年10月)
 

▲藤井撚糸工場跡、八丁撚糸機が残っている。
 

▲水車で駆動していた八丁撚糸機。水車用の大車は1m以上と大きく、モーター用の大車は80cm程度と小さくなった。
 

▲桐生撚糸賃業組合発会式写真
同年8月21日桐生撚糸賃業組合創立当時の写真
旧桐生市役所前にて薩英(藤井義雄氏所蔵)

 

藤井義雄(ふじいよしお)
元藤井撚糸工場社長
【生年月日】大正11年11月13日(80歳)
【住所】桐生市琴平町2-18