山澤一元
やまざわかずもと
昭和3年8月14日生
74歳
知村純雄
ちむらすみお
大正14年11月21日生
77歳

藤井義雄
ふじいよしお
大正11年11月13日生
80歳
桐生市の新宿や三吉町は赤岩用水が網目のように流れ、大正時代の最盛期には上げ下げ水車が列をなして動いていた場所です。山澤一元、知村純雄、藤井義雄氏は子供の頃から撚糸業に携わり、昭和50年頃まで撚糸業を営まれていました。撚糸用水車の思い出をもつ数少ない方々であります。今回は、誇り高き職人の方々に、仕事としての撚糸と水車の思い出について、語って頂きました。

―― 八丁撚糸機[はっちょうねんしき]との長い間の関わりや歴史を教えてください
《藤井》 この計画について、桐生老人クラブ連合会石川部長より水車、八丁撚糸、お召しという議題が提示されたんですけど、その全部に私が関わっているような気がしまして、うちにある資料をもって石川さんのお宅に伺いましたところ、大変有益な資料だといわれ、初めてこの資料が世に出るという感じをうけました。半分以上は父の代からの資料なので、これが父の供養になるかと思いました。また、私が生まれたときはすでに水車が廻って八丁撚糸が動いてた時代で、私の歴史を綴れば目的を達するのではないかという気持ちもありました。八丁撚糸について執筆を担当していまして、今日の取材で八丁のほとんどはまとまると思い、たいへんありがたく思っている次第です。
南公民館での取材風景、右から 山澤、知村、藤井、原澤、金子、石川、長田氏。


―― 今日の取材で山澤さんと知村さんと、特に聞きたい内容が3つ4つあります。最初に、八丁撚糸機[はっちょうねんしき]によって桐生の織物産業が飛躍したわけです。その元になる、下撚りの工場さんの話。それから、桐生お召しへの誇り。絹地のよさ。それと、お二人は色々当時の事情が頭に残っている思います。当時の風景や仕事の内容。これをお話願えればと思っているわけです。
《藤井》 山澤さんが揚撚りのほうで、知村さんのほうが下撚りのほうをやってらしたんですね。だから同じ八丁でも今日は両方のお話を聞けますね。
《山澤》 知村さんのところに先に糸が行って、右左に撚りを作るわけですね。
それから糸張り屋へ行って綾を平らにして、揚撚りしてから機屋[はたや]で織ってシボ取りをした後、湯のし屋ってのも必要になるわけですね。
それから、整理屋へ行って整理されて、初めて反物になるわけです。
糸張り屋さんには、山中さんとか田中さん、それから常見さんとか、8人位しかいなかったんですよ。それが今は皆無の状態ですからね。糸張りというのも大事な仕事です。
《藤井》 この間、森秀さんの所へ行ったときに、糸張りはどうしてるのかと聞いたら、自分のところでやっているといってましたね。昔はお召しを作っている織元は、下撚り屋さんは出してるけれども、それからの工程は全部自分のところで一貫管理していると。そのことがね、第一集の吉田さんの所に載ってるんですよね。
・・・読みますね。
「作業管理上一貫作業が望ましいと、この方法を通して来ました。中でも特に誇りにしていたのは、『お召しの良し悪しは緯糸が生命だ』といって桐生でも唯一京式お召し緯の技法を続けました。此れは糸練り、糊付け、糸張り、揚撚り等特別な腕前の人達によって作り出される『技』が往時の麗しい『しぼ』のお召しができる源であったわけです。」
(あすへの遺産第1集P.124)
こういう順序すべてを大きい機屋[はたや]さんはやってたわけです。森秀さんは管理上すべて自分のところでやってるわけです。その流れが現在まで残って、八丁の撚りまで自分のところでやってるわけです。
―― 知村さんは下撚りをずっとやられているのですか?
《知村》 そうですね、もう三代目ですね。
―― 具体的にはどんなことをされたんですか?
《知村》 まず製糸工場から絹糸の厳選をします。それをお召しで緯糸にするのに、4本位に合糸して、下撚りの八丁で右と左に枠にとります。それで染め屋さんへ行って色を染めてあとは山澤さんがいったように、張り屋さんへ回すわけです。
―― 言うなれば大事な工程ですよね。
《知村》 まず撚屋[よりや]で右左に撚って、揚撚り屋で今度は強撚に撚り上げるわけです。
だいたい下撚りがメートル300回位、いくんですよね。それが揚撚り屋に行くと今度は1メートルに3000回位になるんですよ。
―― それはやはり共通した規格というのはあるんですか?
《知村》 うちによって多少は撚りが違いますけどね。機屋[はたや]さんによってある程度要望もありましてね。糊付けの段階であまり撚りを入れちゃうとうまくないんですよ。
―― 糊の原料は何ですか?
《山澤》 片栗粉を使ったりわらび粉みたいなものを使ったり、しめばりっていって薄っぺらい板みたいなやつがあって、糸目に何匁の糊をつけるとか、細かいことは張り屋に聞かないとわからないですね。
―― この原糸には継ぎ目はないんですか?
《知村》 5つも6つもの繭がこれ位の太さになるから結び目もありますよ。
―― この間、武藤さんのところへ取材へ行きましたら、今はエアーで繋いでいるそうです。
《藤井》 刺繍糸に使うために、結びめがあるときずになっちゃうわけね。それが困るんで糊付けしちゃったみたいですね。
―― これを毎日撚っていたわけですか?
《山澤》 八丁はボビンじゃなく水枠といって枠に巻き取るんですよね。それで八丁ってのは常に水を濡らしながらやるわけです。



▲藤井義雄さんも嬉しそうに話してくれた。
 

▲真剣に話をする知村純雄さん。

―― 撚糸機を廻すのには水力を使っていたわけですか?
《知村》 それはね、戦前は電気にうるさかったわけですね。当時は電気は高くて結局水車の方が安いんです。それで水車をずっと使ってたわけです。
―― 知村さんのところは、水車の動力というのは戦後も使っていたんですか?
《知村》 戦後、私が最後までやってたんじゃないですかね。
軍隊から23年に帰ってきて、そのあと1年ばかり使ったんだけど、時代が時代だけに電気にしちゃったんだね。だけど、八丁の機械そのものは変わらないんですよね。廻す動力が変わっただけですね。
―― やっぱり仕上がりは電気の方が全然いいですか?
《知村》 ああ、そりゃあもう。電気の方がいいですね。
―― まあ、当時とすれば電力料金よりも水車のほうがコストは安いんですね。最盛期はどの位従業員がいたんですか?
《知村》 家内工業だからね。5、6人でやってたかな。戦後ちょっと忙しい時期だったんですがね。



▲知村さんから水車と電力の移行の話を聞く金子清吉委員。

《山澤》 糸張りにも色々あって、甘く糸が引いたとかちょっと強めに引いたとか、うちに来て水に冷やしてそれを絞ってみて、勘でこの糸はこういう張り方してあるなとみるわけです。
勘でやるわけですね。理屈じゃないんです。
《藤井》 濡らした撚り上がりの糸を職人が持ってきて、それを皿シボというんですが、伸ばしたり縮めたりして撚り具合を見ていました。あれが職人芸なんですね。
《山澤》 生機というので、織りあがりの幅を決めて、それの寸法をはかって、10本位糸を取るわけです。それから今度は、糊を落とすのを試験的にやってみるわけです。それでどの位縮むかというのを見るわけです。じゃあこの糸なら、これだけの撚りを入れればできるなと計算するわけですね。
―― その糸張りの現場を見てると力いっぱいやっているように見えますよね。
《山澤》 糸がくっついちゃいますからね。大変な力仕事だったんですよ。
―― 戦後の全盛期は楽しかったでしょうね。
《山澤》 朝起きればすぐ廻してね。飯を食わずに仕事してました。
それで、人絹と違って濡らしてやってるでしょう。水仕事ですね。だから大変ですよ。
湿気とか考えて、下の土間にも水をまいたりしてやるわけですね。
乾いていると撚りの方に響くからね。



▲八丁撚糸の苦労話を誇らし気に話す山澤さん。

―― 機械はあまり傷まなかったんですか?
《山澤》 機械そのものは止めて時間をおいちゃうと、水を使っていて木製だから伸び縮みがあるんだね。1年も仕事をやらないでいると乾いて機械はバラバラになっちゃうんですよ。だから、絹糸を撚るために水を使っていた八丁撚屋[よりや]じゃほとんど機械は残ってないと思う。森秀さんみたいな人絹ものだと残ってるけれどね。
―― 1台1台手作りで作ったんじゃないでしょうかね。
《藤井》 あれも専門の業者がいたんですよ。木工屋でね山添製作所というところですよ。桐生の戦後の八丁は全部といっていい位その人のものだね。
今いった生糸のことがあすへの遺産第3集に書いてある。
「生糸と書いてキイトと読んだ。ところが桐生の織物関係者はこれをナマイトと云う。ナマイトとはキイトの事で同じものである。しかし、ナマイトと云う言葉がそのものズバリである事が理解できた。それは撚りの説明を聞いた時である。製糸工場で生産される生糸は7粒の繭の糸を1本の糸に撚り合わせたものである。これが生糸である。これが21中の生糸と云って標準の太さのものである。然し、この7粒の繭もほぐれ始めの肉厚のものばかりでは太過ぎるし、逆に終わり頃の肉薄のものばかりでは細過ぎてしまうので、肉厚の繭を4粒、肉薄の繭を3粒の計7粒の糸を撚り合わせて1本の糸にしたものが品質の良い21中の生糸だそうで、この検査を厳しくやるそうである。製糸工場の女工さんが神経を使うのはこのところで、上手下手が厳しく評価された様である。」(あすへの遺産第3集、P.147)
桐生の撚糸やってる人の組合名簿があるんですけど、出したほうがいいですかね。住所、その当時の世帯主。そこで設備されている機械と従業員。それと、一月のだいたいの稼ぎですね。それが桐生と境野、広沢、相生、川内と140軒位。あんまり個人名出しちゃうのも問題かと思うんだけどね。
―― 差し支えない程度にね。昔の文献は貴重ですからね。
(錘を指して)これはどの位もつものなんですか?
《山澤》 錘の先端が傷ついて1年はもたないです。絹糸ってのは結構強くてね。同じ方向に使ってると溝が付くので、ひっくり返すんです。もったいないから。そのとき平らに糸を乗せないと傷によって糸が落ちちゃう。そうするとそこで糸にムラができちゃうわけです。
《藤井》 錘先から巻き取りまで距離があるからいい糸ができる。撚りを入れたのを巻き取るでしょう。その間の距離が重要なんです。平均的なよい糸ができるわけですね。



▲熱心に質問する長田さん。

《知村》 お召しの緯糸ってのは、右撚りと左撚りがあるわけですが、右左を間違えると大変なことになる。
―― どうやって区別したんですか?
《山澤》 調べる方法はないんだけどね。例えば右と左をつないじゃってこうすれば、お互いに逆まわしするから撚りがなくなるから。それでわかるわけ。
あとは勘だよね。撚っている糸の巻いた管に軽く指先を触れると管の先か、または元の方に滑るように引きづられる感覚かで右か左かがわかる。
それで、「あ、これは右の糸だ。左の糸だ」とね。あってる糸だとちゃんといくけど、逆の糸をかけると戻っちゃう。それで入ったときにわかるわけ。年中なでてみる。
《知村》 管を巻くときにね、たいがいは、何かこう印がしてある。
《山澤》 これは機屋[はたや]でも右左間違えると大変なことになるんですね。
《藤井》 今でも、お召しの機屋[はたや]はこれで一生泣いてるって言いますよね。えらいことだと。
―― 当時の女工さんは越後の方面が多かったんですか?
《山澤》 だいたいそうですね。越後のほうからくるみたい。
―― やっぱり他の業者に比べて給料もよかったんでしょうねぇ。
《山澤 
知村》
よかないねぇ〜(笑)
《知村》 小学校卒業するとね、住みこみで撚糸奉公に行く。うちには二人位いたことありますよ。
それで、初めてだから何もわからないじゃないですか。教えてやってて、たまに右と左を間違えると親父が、かわいそうなほど叱ってたね。
《山澤》 絹が一反だめになっちゃうからね。
―― その後、間違ったものがずっと流れちゃうんですか?
《山澤》 それが混ざっちゃったら大変なんだよ。右撚りと左撚りが目で見てわかるもんじゃないからね。
《知村》 これを間違えると信用がなくなっちゃうからね。織ってみて初めてわかるから。
―― 当時の一反というと、今のお金にするといくら位ですかね?
《山澤》 それは撚屋[よりや]じゃわからないねぇ。機屋[はたや]さんじゃないとね。



▲3種類の錘とボビン
錘は上から両錘(絹糸用)、両錘(レーヨン用)、片錘(下撚り用)
 

▲錘に管を通して、動作の説明をする山澤氏。
 

▲しまっておいた機構な道具を持参して実演してくれました。

―― 一反に緯糸をだいたいどれ位使うとかは大まかにはあるんですか?
《山澤》 だいたいね。4本で一下げ。右左4本位ずつで二下げですね。下げるというのは、枠に巻き終わった強撚糸を交換することをいいます。
―― さっきの八丁撚糸機[はっちょうねんしき]では、いくつ位できるんですか?
《山澤》 だいたい30本なんですね。30本あるということは右左で60本。
―― 1回全部かければ15反分位ということですか?緯糸の量でいけば。
《山澤》 これどんどん、できたとことから下ろしちゃうからわからないね。1日やって、2回下ろすから4下げ位できるかなぁ。機屋[はたや]がどの位織ってるんだか・・・右左で何反織れるのか。機屋[はたや]に聞かないとわからないねぇ。
昔は枠で納めたんですよ。こういう細長い枠で。でも最近はボビンで取ってね、そのほうが運搬するのに楽だからね。だからボビンにも色付けたりして印を付ける。それで右左がわかるようにしておく。
―― 毎日納めたんですか?
《山澤》 できただけずつ納める。
《藤井》 間に合っていれば、まとめて納める。
―― 経理は月末だったんですか?
《山澤》 まちまちだよ、戦争前は。年2回払いだよ。きちんと請求書だして、きちっとしたのは戦後ですよ。それで、何かで間に合わないときは機屋[はたや]にいくと出してくれる。昔は、お得意さんも同じ家族みたいだった。
《藤井》 だから前払いしてくれといえば前払いしてくれたり。みんな繋がりがあったわけだね。
―― 藤井さん、当時の撚糸奉公の女工さんの休みの楽しみというと、何が一番でしたか?
《藤井》 映画だとか町をぶらぶらとかいうことだけでしょうねぇ。あとは盆暮れに新しく着る物を支給された時とかね。
《山澤》 桐生で撚ったお召しの緯糸をよそに持ってくこともあったんですよね。米沢なんかにね。うちの糸なんか米沢にいってましたよ。野間さんも出していましたね。



▲山澤撚糸工場跡、八丁撚師機は今でも土間の上に置いてある。錘を指差しながら、動かし方を話す山澤さん。(工場跡を見学しながら)

《知村》 経糸は21中、または27中の絹糸を合わせ、撚った糸を2本合わせて逆に撚って諸糸を作り、それが織物の経糸になる。
―― 野間撚糸は経の仕事をしてたわけですか。
《知村》 戦後はね、桐生あたりでもそういう撚屋[よりや]さんが200軒位あったんですよね。だけど結局、中国で撚糸の方が盛んになっちゃって。むこうから作って持ってくるようになっちゃったからね。それで絹の諸屋さんがなくなっちゃったんですよね。ただまあ、緯糸の場合は仕事が細かいものですから、いちいちそのときで要望も違いますからね。それである程度は仕事もあったんだけど。お召しがなくなっちゃってからも私ども下撚りは、ネクタイの緯糸にも使えるし帯の緯糸にも使えるからあったんだけど。最近、少なくなっちゃってないんですよね。



《藤井》 今の話の続きだけど、下撚り屋さんは種類が色々あるからいいけども、揚撚り屋ってのはお召しの緯糸か縮緬緯糸とか、それ位に限られてるからね。それに合うような機械しかないから融通がきかなかった。そういう不便さがあるけれども、この八丁撚糸機[はっちょうねんしき]というのがお召しには必要だった。
―― 今、縮緬の話が出ましたよね。お召しってのは色付けたのを撚りますよね。縮緬てのは色を付けずに撚るわけですか?
《藤井》 付けない。色も何も付けずに織っちゃうわけだ。縮緬の緯糸は右左がわかるように撚りながら色をつけるので、間違って織ることは防げる。ただし、染料は練る時に落ちる染料を使う。それで後から練って、絹にしてから色を付ける。
―― そうすると縮緬とお召しの緯糸ってのは、同じ機械でやるんですか?
《藤井》 同じ機械です。お召しってのはすべて、右左に下撚りした糸を染めたり張ったりしてから強撚をいれるわけです。縮緬のほうは生地のまま。強撚をいれて織り上がった後で練るでしょう。だから布は柔らかいですよ。
お召しはこしがある。ちょっと硬いですよ。
―― お召しは濡れたらパーだといいますけど、本当にだめになっちゃうんですか?
《山澤》 どうしても、濡れると縮む性質がありますから。それだけのもんですね。湿気を嫌うってことですね。結局それが一番の特徴ですね。最近は薬品や何かで取ったり、色々やるようになったんだけど、やっぱり時代の流れでだめだったんだねぇ。
―― 素人考えだと、だめになるものがなんで何十万も反物としてこの世に出たのかというのが不思議なんですけど、だめじゃなくて使えた部分もあったんじゃないかと思うんですが。
《山澤》 昔の人はそれにうまく対応して使ってくれたんじゃないですかね。扱いは難しかったですけどね。
《藤井》 濡れると縮む欠点のことですが、それは経糸の密度と緯糸の撚度、シボ取りの仕方等、昔は問題として取り上げることもなかったです。戦前の織屋さんはもとより、関係する職人さんも皆研究熱心だった。
戦後は余りにも量産にばかり走りすぎたのではないでしょうか。撚糸関係に携わったひとりとして自分自身も反省しているんです。
―― 広幅なんかでも縮緬が多く出ていますよね。
《山澤》 現在は技術もできたからそういうのが出てるけど、当時は絹は縮むということが一番の悩みで、これをなんとか止めようというので、試験場でも色々研究したんだけど、当時はそれだけの技術がなかった。縮みを止められなかったんですね。
最近は技術もできたから、縮緬の洋服とかできるようになったけど。金沢の縮緬でもなんでも洋服生地にして出てるけどね。
《藤井》 Yシャツでもなんでも中国産だしね。
―― この当時お召しは着てたんですかね?
《山澤》 縮緬が最高級品なんです。お召しってのは、普段着の最高級品。お金持ちの人の普段着がお召しですね。冠婚葬祭なんかは縮緬でしたよね。
―― 銘仙はどうでしたか?
《藤井》 銘仙は普段着だものね。お召しとはちょっと違うかなぁ。
―― 山澤さん。さっき米沢に糸を出したといってましたけど、それは米沢織りですか?
《山澤》 そういうことでしょうね。男物が多かったらしいです。



▲話に熱がこもり、時間が矢のように過ぎてゆく。
 

▲知村さんの撚師工場、イタリー式撚糸機の上の屋根裏には、現在も八丁撚師機が、きちんとしまわれている。

《藤井》 昔はみんな機屋[はたや]さんが全部自分のところでやったんですよ。下糸以外は。それ位研究して、よその機屋[はたや]さんにやり方を秘密にして。だから工場の中はほかの人に見せないようにして。うちでも立ち入り禁止の看板がかかってましたよ。信用のおける撚屋[よりや]をお抱えにしてやってたみたいですね。
図面見ると、あそこに川があるんです。その兎堀用水を使って、父が揚撚屋をやっていたんですが、仕事を請けていた岩沢さんが工場兼住宅を作ってくれて、こっちへ来ないかと。それだけお得意関係というのは親密なんですね。
―― それは何年頃ですか?
《藤井》 それがね、こっちへ来たのが大正8年、そのときに、親の話では川上には家が数軒あったが、川下には1軒もなかったと。両毛整織株式会社ってのがあって、会社の中を流れてくるのがちょうどそこの、赤岩用水になっている。それで今いったような、撚り上がり枠に巻かれた糸は左右一組にして、井桁に積んで大きい風呂敷でしょって納めた。それで、こっちにきたときは電灯が付かないんだよね。一軒屋だから電灯なんて付けない。
―― えー、今でちょうど1時間40分です。こういう聞き役というのは大事な仕事でございますので、本当に勉強になりました。来年3月の完成まで期待していてください。それとこういう資料がある、というようなものがありましたら是非お伺いさせていただきます。本日は、本当にありがとうございました。



▲昭和40年頃の八丁撚師機稼動の写真。

 

【取材日時】 平成14年10月17日午後1時〜3時
【取材場所】 桐生市南公民会2階会議室
【取材先】 山澤一元(やまさわかずもと)
知村純雄(ちむらすみお)
藤井義雄(ふじいよしお)
【生年月日】 《山澤》 昭和3年8月14日(74歳)
《知村》 大正14年11月21日(77歳)
《藤井》 大正11年11月13日(80歳)
【住所】 《山澤》 桐生市新宿2-1214
《知村》 桐生市三吉町2-7-22
《藤井》 桐生市琴平町2-18
【取材スタッフ】 原澤礼三、石川佑策、金子清吉、長田克比古、吉田薫人、岡下武史、塩崎泰雄

 

石川佑策
いしかわゆうさく
桐生市老人
クラブ連合会
全盛期の桐生織物業界を支えてこられた、三人の大先輩を囲んでの取材会議は途中休憩もなく、約二時間にわたる談論風の充実した内容に思わず手に汗を握るほどでした。藤井さんとは、以前から市老連を通じての知己を頂いており、あらかじめ桐生お召しや八丁撚糸機[はっちょうねんしき]、水車動力などの基礎知識を得ていましたが、改めて藤井さん、知村さん、山澤さんから当時の社会情勢、仕事場を取り巻く環境、人間関係などが生き生きと語られ、織物産業を支えた誇り高き職人の技の数々などを、眼を輝かし手振りを交えての熱誠溢れたお話しの数々、本当に有り難うございました。