山澤一元
やまさわかずもと
74歳
知村純雄
ちむらすみお
77歳

藤井義雄
ふじいよしお
80歳
10月17日の取材記事(前掲誇り高き八丁撚糸の職人たち)を基に、事務局の若いスタッフ(群馬大学工学部学生)が中心になって取材しました。お孫さんに話し聞かせるように、やさしく・丁寧に・分かり易く語る・・・御三方の暖かな雰囲気をどうぞ。

自己紹介  
《藤井》 今80歳で生まれたときから80年間八丁撚糸と関わりがありました。
《知村》 下撚りをやってきました。工程でいうと最初の部分です。昭和23年までは水車でやっていまし24年からは電気でやっていました。
《山澤》 八丁をやったり、お召しをやったり、帯の緯糸をやったりしました。


――用水路を見たことがないのでわからないですが、当時はどのようにあって、どのように使っていたのですか?
《知村》当時は道路の両端に堀があって、そこを流れていました。今は蓋をしてなくなったが、新宿あたりには今も流れているのがあるね。
《藤井》赤岩用水は桐生大橋か鉄橋あたりから水を取り入れていましたね。
《山澤》めがね橋で交叉するわけですね。
――橋の中を通ってくるんですか?
《藤井》上が水路になっている。下を別の水路が通っているんです。
《知村》厚生病院の近くに発電所があって、そこのところを水路が通っていた。めがね橋の下を流れてた水路です。今も厚生病院の駐車場の脇にタービン残ってるでしょ。
《藤井》赤岩用水路はめがね橋の上を通っていました。
(昔の桐生の地図を見ながら)
それから水路は沢山に分岐して、三吉町や新宿、境野のあたりに流れていました。
今の商工会議所の脇を流れているでしょ、そこから下にいって分かれる。これが文化会館、市役所だね。分かれた水路が、錦町に入っていって、文化会館に行く前に水路がある。今度行ったときに気をつけて見てみるといい。蓋がかかってないから。
――橋を流れる水、用水路と川の水はどこで合わさるのですか?
《知村》目的が違うんですね。下を流した水は大きな会社(富士紡績株式会社)が自分のところで発電に使っていた。最後は渡良瀬川に流れこんでいると思います。
《一同》そう、そう。
《知村》赤岩用水は町の通りの堀を流れて水車を廻したんですね。
《藤井》それから畑の、潅漑用にも。
――町のいたるところに水が流れてたんですか?
《知村》通りのある両側はたいがい水が流れていました。昔は下水や消防用水のかわりも、生活用水だから何にでも使っていたよね。
(別のパネルを見ながら)
――これは亀田さんが作った表ですが、水車がどれ位廻っていたかの数の記録ですね。
《藤井》新宿は昔からある水車が多いわけ。だいたい赤岩用水なんだよ。大きく分けると、まずここで枝分かれしたわけ。まっすぐこう来たのが水車廻したり道の両脇を走ってたり。それからもう二本かな。それが新宿通りだ。両側を分かれてる。一本ね、桐生信用金庫の本店よりを川が流れてる。新宿通りからまっすぐ行くと、ここに瀬戸物屋さんがある。それでここに橋があって店がずーっと並んでるだけど、切れてるところは川になってた。これがここに一本流れているね。
これが昭和通りの下を流れてる。これが流れているところに太田病院がある。太田病院のところのは蓋してない。
《山澤》だから随分水路が分かれてるわけですね。
水路の事を話す知村純雄さん、熱心に聞く大学生達



▲三吉町あたりの赤岩用水、今でも相当流れている。
 

▲南公民館で作った水路と水車の地図

――水路の上に、あの写真みたいに水車が並んでるわけですか?
《藤井》そうだね。
――子供の頃のお話ですけど、お父様は水車を使ったんですか?
《藤井》ええ、親は水車を使っていて、私が生まれたときも水車を使っていました。
――水車というのは、何式ですか?
《知村》上げ下げ式と、ど箱式。上げ下げ式というのは、水量に応じて上げ下げして水車の回転を調節します。ど箱式というのは、水路を狭くしておいて効率をよくする。川幅が狭くて水量が少ないと上げ下げ式が使えないので、そういう場所で使うんです。
《山澤》水車というのは24時間廻しているわけじゃないから、ど箱式は水路に水の逃げる場所を作っておいて、水車を止めるときはそっちに水を逃がす。上げ下げ式は止めるときは上げておけばいいんです。
《知村》新宿通りなんてのは通りが狭くて水を逃がす水路は掘れなかった。だから年中水量が変わるたびに、一日に何度も上げたり下げたりしていました。
大変なんだよ。ごみなんか流れてくればつかえちゃうし、あの当時は子供がよく流れてきて。死体が上がらないから「人喰い川」っていわれていました。
《藤井》子供の頃は絶対川のそばで遊ぶなとよくいわれました。
《知村》あの当時は柵なんかないし、人が落っこちたりしても、落ちた人が悪かった。今じゃ考えられないけれどね。



▲水車資料を持ち込み、学生達に八丁撚師機の構造について話す藤井義雄さん。

《藤井》これが水車が固定されている台。これが水車を支えている枠。それで、これが鳥居っていったかな。鳥居みたいな枠があるわけ。これに針金をよじった綱。電信柱を支えてるようなやつね。これに絡んでるわけ。それで上げるときは金棒を、ここに穴があいてるから差し込んで廻すと、綱が持ち上がるわけです。持ち上がるとこれも上がるでしょう。ここに穴があいているでしょう。ここに差し込んで固定するわけ。そういう方法をとっていた。両側を固定する。
――水車というので大きいものを想像していましたが、意外と小さいんですね。
《藤井》米を搗いたりする水車は力が必要だからかなり大きいね。ただし速さはない。でも速い必要ない。力さえ出ればいいから。
――自分は長野出身なんで、そば粉の水車しか見たことがなかったんです。見たことのあるのはすごく大きかったんです。桐生の水車はあまり大きくなくて・・・けっこうな大きさを想像していたんですけど。
《藤井》小さくても、水の当たる面積が広ければ、幅があればその分力は強くなるからね。場所柄もあるね。通りの端を利用したから、あまり大きいのはできない。だから上げ下げしたりして調節したようですね。



▲赤岩用水で廻る1/5模型(須田信宏作)、上げ下げ水車の機構がよくわかる。

――この写真の小屋の中で、糸を繰っていたんですか?
《藤井》うん。これがモーターの代わりをしてたんだね。私が現在地に引っ越してきたとき、私が住んでたところは町のはずれで電気が引けなかった。
(資料を出して)
《藤井》これは私が住んでいた頃の地図なんだけれどね。この通りに面してずっと軒を連ねてたわけ。ここに当時の用水路が流れていて。今は蓋をしちゃったけど。これを見ると撚糸業というのがざらにあるわけ。印付けておいたけど、撚糸ばかりでしょう。
《山澤》昔は撚糸業はみんな家族でやっていた。お召しっていうのは色々な工程があるからね。ひとつの家じゃできない。
《知村》これが当時の作業をしてる写真。一本一本これが繋がってる。
――糸が切れたらどうするんですか?
《知村》廻しながら繋ぐ。この写真は丁度繋いでるところ。60本も錘があるからいつもどこかしら糸が切れる。だからつきっきりで仕事してる。
絹糸は湿度が欲しいわけ。湿っていた方が撚りやすかった。だから工場の床はみんな土間だった。水をまいたりして常に湿気を保っていた。
《藤井》古い撚屋[よりや]になると穴を掘ってそこで作業してた。壁も土にして土の面積が大きくなるようにした。
《山澤》俺なんかの時代にはそういうのはなくなったけどね。
――長谷式というのがあると聞きました。どういう違いがあるんですか?
《知村》長谷式というのはね全然違って、動力にベルトを使う。錘を互い違いにベルトの上と下において、ベルトで錘を廻す。だからどうしても大きくなっちゃう。
《藤井》八丁式は一本一本廻しているでしょう。だからスリップが少ないわけ。長谷式はね(図を書いて)こうだっけか。ベルトの上を通る。
《知村》八丁じゃ量があまりできないので、洋装なんかの広い面積を織るために必要になったんだね。
《藤井》量はできないけどいい糸はできるわけ。
(写真を出して)
――これが管巻き機ですか?
《山澤》そうですね。これが右撚りと左撚り。これを間違えると大変なことになっちゃう。
――見ただけじゃわからないですか?
《知村》色が同じでしょう、だからわからないですね。枠に巻いた時に糸の端を止める時に、斜めに止めとくとか、バツ印に止めとくとか、そうやって見分けられるようにしていました。
《山澤》あとは枠に色をつけたりとかね。



▲地図を見ながら当時の水路と工場について説明する知村純雄さん。
 

▲八丁撚師機の模式図、木製であるが、非常に精巧な作りである。

――これは洗うとすごく縮んじゃうんですね。これがこんなに・・・
《山澤》だから湯のし屋さんもいました。縮んだのを戻す業者ですね。
《知村》お召しってのはひとつの業者だけじゃできないですからね。どこかひとつ抜けただけでできなくなる。
――生糸はどこから調達しているのですか、今は蚕育ててる人もいないですか?
《知村》いることはいますが・・・今はみんな中国の安いのを輸入している。国産はコストがかかりすぎます。
まず生糸を下撚り屋が右撚りと左撚りする。何本か合わせて太さを調節するわけです。
《藤井》そうしたら今度は揚撚り屋が緯糸を作るので、さらに撚りをかけ、糊を付けるわけです。
《知村》今は下撚り屋さんは2軒しかないけどね、当時は桐生だけで200軒はあったからね。
《山澤》俺なんかが見ても、こんなにあったのか!と驚くからね。



熱っぽく八丁の説明をする知村純雄さ(上)と山澤一元さん(下)。話すほどに、誇り高き職人の顔になっていた。

――朝は何時頃から働いてたんですか?
《知村 
藤井》
朝飯前から働いてたよ。
《知村》稼ぐうちは5時から起きてやってたみたいだけどね。労働基準法なんて無い時代だからねぇ。自分の体力に合わせてやっていましたよ。
《藤井》霜が溶けてるから、屋根を見ればわかるって言うんだよ。
――やればやっただけ儲かった時代もありましたか?
《知村》全盛期はね。
――支払いも年二回しかもらえないというのを聞いたんですけど、そういうのもあったんですか?
《藤井》うん。揚撚り屋とか下撚り屋ってのは家族同然なんだよね。だから自然とそうなっちゃうんだよね。盆暮れの勘定で。足りなくなっても貸してくれといえば貸してくれたからねぇ。



《山澤》今の商売としては、こんないやな商売はないね。製品として形がないからね。だから伝統工芸士だって、自分ひとりで作れば名前入れられるけど、撚糸業ではそういうわけにもいかないからね。
《藤井》でもあるんだよね。戦後は。伝統工芸士を作ったんだよね。
《知村》だけど、あまり意味はないんだよな。だれが伝統工芸士になってもいい。年功順になったりしていましたね。
《藤井》撚屋[よりや]が集まって、お前なれやなんてね。まあ、ある程度、団体の役員じゃないと駄目だけれどね。後に続いていくように伝統工芸士を決めていました。
《山澤》まだまだ工程はあるから、これだけじゃ話はわからないよね。
――一度みんな集まって話をすれば、もっと面白い話も聞けるでしょうか?
《知村》はい、集まったら面白い話が沢山聞けると思いますね。是非やりたいです。他の仕事や職人のことは、秘密にしていたから、意外と知らないことがあるんですよね。
――戦後の一番忙しかった時期はいつ頃ですか?
《知村》昭和30年から40年位かな。昭和40年に入るとなくなっちゃたね。下撚り屋は仕事の幅が広かったから生き残った。お召しが無くなったら、東京の方から仕事を取ってね。帯はわりとあとまであったんだね。東京行くのも大変でね、行くだけでもお金がかかっちゃう。
《山澤》絹の強撚糸は水を掛けながら撚るから、仕事をしないと八丁車は乾いてガタガタになっちゃう。この写真の八丁車は人絹用だから、水を使わないので綺麗に残ったのですね。今では、骨董市でシズや水枠が結構な値段で売れていると聞いていますよ。



▲山澤撚師工場跡の電球と車軸とプーリー、今はもう動いていないが、直ぐにでも動き出しそうな錯角にとらわれる、そんな雰囲気のある、工場跡だった。
 

▲磁器製の丸い輪がシズ、糸の張りを一定に保つ役割がある、八丁撚師機の重要な部分である。

――これは何でできてますか?(丸い輪(シズ)を指して)
《山澤》瀬戸物だね。これが長く使ってると傷が付く。絹ってのは丈夫だから全部傷が付く。錘だって傷が付く。傷が付くとうまく引っかからないでパタンと落ちちゃう。手入れも大変だったですね。
《藤井》釣瓶も一本一本繋いでいたから、切れたときに結んでいくのも大変だった。うちは廻しがけ式なので30本の錘を1本の釣瓶で廻していました。
《知村》結び方も特殊で、普通に結ぶと団子ができてがたがたするので、糸をほぐしてその中に入れてそれで結んでいました。
《山澤》管だって竹で作ってたけど竹が取れなくなっちゃって、一時期ベークライトで管を作っていた。でもベークライトだと重くてよくないですね。
――木の管を見たことがありますが・・・
《山澤》あれは人絹用の管です。人絹は水を使わないから木でよかった。木は水をかけると腐っちゃうからね。竹は腐らないから使い勝手がよかった。
――そろそろ時間ですけど、他になにかありますか?
――水路がたくさんあって・・・すごいですね。
《藤井》赤岩用水はあとで車ででも使って周ってみるといいね。昔の清水町だとか泉町とかにも水路の跡がありますよ。
《知村》当時の地名ってのもそのまま残しといたほうがいいんですよね。由来があってその名前になってるわけだし。年寄りにはやっぱり昔の名前がしっくりしますしね。
――どうもありがとうございました。



 

【取材日時】 平成14年11月23日午後1時〜3時
【取材場所】 ジョイタウン広場2階会議室
【取材先】 山澤一元(やまさわかずもと)
知村純雄(ちむらすみお)
藤井義雄(ふじいよしお)
【生年月日】 《山澤》 昭和3年8月14日(74歳)
《知村》 大正14年11月21日(77歳)
《藤井》 大正11年11月13日(80歳)
【住所】 《山澤》 桐生市新宿2-1214
《知村》 桐生市三吉町2-7-22
《藤井》 桐生市琴平町2-18
【取材スタッフ】 塩崎泰雄、御子柴孝晃、今村康太、吉田薫人、後藤美希

 

後藤美希
ごとうみき
群馬大学
工学部2年生
今回、藤井さん、知村さん、山澤さんのお話を聞きました。内容は桐生の水車や用水路についてでした。用意したパネルを見て、まず驚いたのが、昔桐生で使われていた水車の数です。道に並んでいる家のすべてが持っていたそうです。
今ではほとんど見られなくなってしまった用水路は、水車にとって重要だったそうです。用水路は1本の大きな用水路から、枝分かれして、それぞれの家庭の水車を廻すために流れていきます。用水路にはフェンスなどなくよく子供たちが流されてしまったそうです。
水車には2種類があり、上げ下げ式水車とど箱式水車です。これらの違いは水路の幅によって向き、不向きがあって、水車は一定の速さで回転させるために調節する必要があるそうです。上げ下げ式水車は水量が多くなった場合、水車自体を上げて早く廻らないようにし、ど箱式水車は、一定の水量が流れるように用水路を工夫してあるそうです。
現在では電気やガスがあり、私たちの生活はとても楽になっています。しかし、昔はそうではありません。今回このような話を聞いて、細かいところなど色々と工夫されていることが、私が知らなかった分、よけいに学べたと思います。
そして、電気などができるまで、水車や水路は生活必需品であったことでした。
また、今回の取材で気付いた中に、水車の大きさもあります。私が小さい頃に行ったことのある「かびや」というお店にも水車がありました。そこの水車はとても大きかったことを覚えています。しかし、今回の取材で接した水車は小さいものでした。これは大きいものよりも小さなものの方が小さい力でよく廻るためだからだそうです。いわれてみれば、その通りだと思いました。小さい力でより多くの仕事をした方が効率がいいのは当たり前です。当たり前のことでも改めて説明されると納得してしまいました。
用水路に子供が流されてしまったり、上げ下げ水車では、常に違う水量をそのつど確認して、水車を調節する。大変なことばっかりだと私は思いますが、それらのことを説明してくれている藤井さん、知村さん、山澤さんはとても楽しそうに細かく教えてくれました。また、昔は至るところで見られた用水路も今ではほとんど蓋をされわからなくなっています。いくつかは当時のように残っているそうなので、その近くに行ったら注意深く見てみたいです。当時の面影が見られたらと思います。今回、短い時間しかいられませんでしたが、貴重な体験ができました。