森島純男
もりしますみお
昭和19年10月29日生
58歳
本稿を執筆された森島純男氏は桐生お召しの名門工場・森秀織物の三代目社長として活躍し、20年前に織物参考館・紫(ゆかり)を開設、体験しながら閲覧できる画期的な博物館を運営されておられます。近年、桐生お召しの再現を試み、更には新しい『お召し』の創作にも努力されています。当プロジェクトでは、表紙に添付したお召し布の製作を引き受けて頂きました。


我が街桐生が、かなり古い時代から絹織物の産地であったことは、伝記や伝承によって知られていることであります。絹織物は宮廷および幕府の保護を受けて発達してきたいきさつがあり、特に京都の西陣は代表的な産地です。桐生においても、関ヶ原の合戦のおり、徳川家に御旗絹[はたぎぬ]を献上して以来、幕府に保護されることとなりました。天明の京都の火災(1788年)を機に多くの職人が桐生にはいって以来は、金襴、厚板、緞子等の高級技術織物が織れるようになり、一大発展をしたものです。そして岩瀬吉兵衛によって、高級絹織物のお召しの緯糸を作る八丁撚糸機[はっちょうねんしき]が発明されたのもこの頃でした。
明治に入り、西洋から種々の織物の技術と道具・機械が導入されました。
ドビー機は明治6年、佐倉、井上の両人により京都に輸入され、桐生には明治19年、高力直寛によって伝えられ、高級紋織物の発展に貢献しました。力織機の使用は、明治21年に桐生に設立された日本織物会社が、米国から購入して始めましたが、明治40年頃まではまだ手織機が大いに幅をきかせ、力織機による製造はわずかなものでした。桐生の織物業者がもつ手巧的技術の優秀さが、かえって力織機の発展を妨げていたためでしたが、その後次第に増加しはじめ、ドビー機からジャカード機へと、さらに発展していったのです。
手織機の数は大正10年には50,159台ありましたが、大正10年から大正11年にかけておきた大不況により、手織業者は激減しました。そして、力織機の時代に移り、昭和12年には力織機22,046台を誇る、一大産地へと変貌したのです。しかし昭和18年、力織機を戦争のため献納し、その数5500台まで統制され、多くの力織機が破砕されてしまいました。



▲織物参考館「紫」入り口、織物や藍染めが出来る体験型の資料館です。
その奥で、復活したお召しが織られています。

ここで、伊勢崎銘仙とお召しの違いについて述べてみましょう。お召しは糊がついた強撚糸で幅広く織り、それを縮めた織物で、経糸も3000本以上、8000本位まであったといわれています。銘仙というのは織ったままの巾ででき上がり、経糸の量が1200本位と少ない織物です。つまりそれだけ糸が太いというわけで、「かすり」をつける都合上やりやすいということもあります。それだけ糸に違いがありますから、過去には約3〜4倍も、値段に差がありました。



織物の町になったところは、古くからお米など主食が取れないところ、関東では、山際の八王子ですとか、桐生、足利、伊勢崎、佐野などです。織物を作り、売ってお米など主食を買ったのです。
幸いなことに、大間々や桐生には「市」がありました。自分で作った反物を「市」でお米に代えられました。特に桐生は水車動力を各工程に利用し、多くの反物ができ「市」が賑わい、桐生の織物がたくさん売れ、全国に普及していった結果、天命年間には日本のお金の三分の一が桐生にあったといわれる位、多くの織物屋にお金が集まりました。



森秀織物は、明治10年、半工半農の形式で始まりました。当時は今のような力織機ではなく、手機足踏み等でありました。その後、先代の森島秀により力織機によるお召しの製織を研究、成功をみました。以来、各工程を逐次機械化し、現在のような設備と方法になりました。また、昭和9年の天皇陛下群馬県下行幸の際、当社謹製の紋お召しを、お買上げの栄に浴しております。
戦時中は織物、特にお召しなど高級織物の製造は極度に制限されましたが、当社はお召し製造技術保存工場に指定され、その技術を維持、戦後の復興に寄与致しました。
昭和26年には株式会社に組織改革し、ますます合理化して昭和32年、35年には中小企業合理化モデル工場の指定を受けました。昭和36年には、近代化のため6丁織機と染色機を、昭和44年には、両6丁広幅織機を設置致しまして、お召しの製造にあたりました。



お召しは徳川十一代将軍家斎の頃から作られ、初めは縞縮緬といわれておりましたが、将軍が平常お召しになったのでこの名が起こりました。強撚糸を使用してある緯糸に、糊をつけて固まらせて織りますので、その糊を落とすと表面に凸凹(シボ)ができるようになっております。縮緬も同じことですが、縮緬は後染め、お召は先染[さきぞめ]であります。ゆえに非常に丈夫で、また縮緬よりも色の深さがあります。ですから着尺織物で、最も優雅豪華なる点が大きな特徴といわれています。



▲お召しの最終検品風景(昭和はじめ頃)

糸の段階で精練し、先染したのち織り上げた、先練り織物の代表的なものです。縮緬は生地に織り上げたのち精練しますが、お召しでは、織る前に精練が行われるので、しぼの状態と風合いが異なってきます。製織には、とくに緯糸にお召し緯という特殊な強撚糸を使います。これは緯糸の1m間に約300回位の下撚りをかけて、精練と染色をしたのち糊をかたくつけ、さらに1m間に約1500回位の上撚りをかけたものです。各地で生産されるお召しには撚りに特徴があり、用途、種類ともに多く、またお召し、お召し風の名をつかった織物の範囲も広くあります。代表的なものに、無地お召し、縞絣お召し、風通お召しなどがあります。



八丁撚糸機[はっちょうねんしき]のはじまりは、桐生の岩瀬吉兵衛という方が、天命3年に水車を利用して糸を撚ることを考案したことからです。それまでは一人の人が一本の糸しか撚りを入れられなかったので、能率が悪かったのですが、八丁撚糸機[はっちょうねんしき]によって、右撚り10錘、左撚り10錘あるいは、20錘・30錘など、左右で一度に大量の糸が撚れるようになりました。この発明により強撚糸の織物がこの地に供給され、桐生で織物が質・量ともに満たされて商品として確立しました。八丁撚糸機[はっちょうねんしき]の発明は「桐生式産業革命」の基を築いたといっても過言ではないでしょう。イギリスの産業革命においても、ジョン・ケイが大量に早く織物を作るものを考案したことが始まりです。産業革命の起こりは、糸を大量に供給することができるようになるということが発端になっております。織物が早く織れるようになって糸を供給するシステムができ、織物を高速・大量に生産する流れが確立してきたわけです。機織機だけが改良されても、糸が供給できなければ、大量生産にはつながりません。この八丁撚糸機[はっちょうねんしき]は水車動力を使うことで、一定の回転が生まれ、非常に撚りの安定したものが供給されるようになったわけです。
織物を織るのもそうですが、撚糸も同様に、最初から最後まで同じ力を与えることが重要になっていたわけです。明治時代の織物屋さんは、夫婦喧嘩をしなかったといわれています。夫婦喧嘩をすると、次の日は均等な織物ができないからだそうです。その位同じ力を供給することが大切なので、やがて電力が供給され、他の道具も動力化されてきました。電力によりさらに一定な動力を得ることで、桐生の町もより活性化されてきた、というわけです。「ガチャマン」という言葉がありまして、「ガチャ」といえば「1万円儲かる」という時代がありました。昭和の初期頃から「ガチャマン」と言われるようになったそうです。画期的な道具ができても、それでできた織物が売れなくては、良いものとは言わないわけで、この桐生において、お召しが良い織物と言われるようになったのは、八丁撚糸機[はっちょうねんしき]があったお陰というわけです。



▲稼働中の八丁撚師機、凄いスピードで動くが、驚くほど静かに撚糸している。
 

▲八丁撚糸機で作られた糸で、新しいお召しを織っている。思い通りのお召しの製作はなかなか難しいと話された。

当工場で、新たなお召しを作るにあたり、「世紀21」と呼ばれる絹糸を使用することにいたしました。「世紀21」は群馬県が誇るブランド生糸で、14デニールに引いた糸です。戦後は、糸のデニールというものが段々太くなっていく傾向がありまして、21、28デニールが主流でした。14デニールというのは無かったので、28デニールが流通するようになっていたわけです。この度、松井田町の「碓氷製糸」さんで、特別に14デニールの糸を作っていただきました。日本で製糸屋さんは二軒か三軒しかないのですが、そちらに頼みましたら、今は、撚る糸が少ないので、「どんな糸でも撚りますよ」といっていただき、お願いすることができたのです。糸も復元する、織物も復元する、ということで頑張らせていただいております。
更に、復元したお召しは八丁撚糸機[はっちょうねんしき]を電力で動かしているわけですが、作ったお召しが売れたならば、水車動力で動かすようにしてみようと思っております。しかし、水車で動かすにはお金がたくさんかかるようです。各地の先生方からは、日々毎日動くものですから、相当なメンテナンスが必要になり、作った以上はそれなりの覚悟でやらないとだめだと聞いております。「当工場の八丁撚糸機[はっちょうねんしき]で作った糸で織ったお召しを買っていただいて、水車を設置できればよいのにな〜」と思っています。
こんな風に森秀織物では、新しいお召しを作ろうと考えていますが、ご存知の通り着物の需要が非常にすくなくなってきております。ここ数年、お茶お花など日本古来の習い事以外に着る機会がなく、特に普段着の需要が減りました。今は着物ですと、着る人があまりいないわけですから、インテリアとか小物にお召しの良さがでるような物を考え、お召しの新たな需要を増やしていきたいと思っています。



▲復活したお召しの生地を手に、説明する森島さん。湯のし後と整理後のお召し巾の変化を話している。

 

森島純男(もりしますみお)
織物参考館「紫」(ゆかり)館長
森秀織物株式会社社長
【生年月日】昭和19年10月29日生(58歳)
【住所】桐生市東4-2-24
【URL】http://www.kiryu.co.jp/yukari/