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我が街桐生が、かなり古い時代から絹織物の産地であったことは、伝記や伝承によって知られていることであります。絹織物は宮廷および幕府の保護を受けて発達してきたいきさつがあり、特に京都の西陣は代表的な産地です。桐生においても、関ヶ原の合戦のおり、徳川家に御旗絹[はたぎぬ]を献上して以来、幕府に保護されることとなりました。天明の京都の火災(1788年)を機に多くの職人が桐生にはいって以来は、金襴、厚板、緞子等の高級技術織物が織れるようになり、一大発展をしたものです。そして岩瀬吉兵衛によって、高級絹織物のお召しの緯糸を作る八丁撚糸機[はっちょうねんしき]が発明されたのもこの頃でした。
明治に入り、西洋から種々の織物の技術と道具・機械が導入されました。
ドビー機は明治6年、佐倉、井上の両人により京都に輸入され、桐生には明治19年、高力直寛によって伝えられ、高級紋織物の発展に貢献しました。力織機の使用は、明治21年に桐生に設立された日本織物会社が、米国から購入して始めましたが、明治40年頃まではまだ手織機が大いに幅をきかせ、力織機による製造はわずかなものでした。桐生の織物業者がもつ手巧的技術の優秀さが、かえって力織機の発展を妨げていたためでしたが、その後次第に増加しはじめ、ドビー機からジャカード機へと、さらに発展していったのです。
手織機の数は大正10年には50,159台ありましたが、大正10年から大正11年にかけておきた大不況により、手織業者は激減しました。そして、力織機の時代に移り、昭和12年には力織機22,046台を誇る、一大産地へと変貌したのです。しかし昭和18年、力織機を戦争のため献納し、その数5500台まで統制され、多くの力織機が破砕されてしまいました。 |
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▲織物参考館「紫」入り口、織物や藍染めが出来る体験型の資料館です。
その奥で、復活したお召しが織られています。 |
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