吉田邦雄
よしだくにお
大正9年4月15日生
82歳
吉田邦雄氏は桐生お召しの森秀織物に長く勤務され、生糸から、八丁撚糸機[はっちょうねんしき]、機織から完成まで、お召し全工程について熟知するマイスターと呼べる方で、82歳の現在も矍鑠としてご活躍ですが、今回の執筆要請に快諾され、本文を寄稿して頂きました。昭和14年当時の『お召し・丸秘手帳』を公開し、お召しづくりの各工程について書いて頂きました。大正青年の心意気には、圧倒されどうしです。


1.生糸
  蚕の繭から規格にそったデニールに引揃え製糸した原糸。
2.撚糸
  織物に適した糸を得るために、生糸とを何本か引揃え、双然をいれる。
3.精練
  生糸にはセリシン、膠、フィブロイン等の物質が含まれているので、アルカリ性の薬品でこれを除去すると初めて純白で光沢のある絹糸(シルク)となる。
精練された糸は原糸より約20%軽くなり軟らかさが出る。
4.染色
  お召しは先染[さきぞめ]織物のため、糸のうちにそれぞれ必要な糸に染める。先ず見本と同色に染めること、染めむらのない、色落ちしないことが必須条件、当社では主として高級酸性染料を使い、お召し独特の色を染め上げていました。以前はこれらの仕事もすべて手作業であったが、近年は他社に先がけ機械化して能率を向上させてきた。
5.糊付け
  以後の操作がやり易いように経糸用の糊付けをし、糸張り乾燥作業を行う。
6.糸繰り
  お召しの糸は前記工程を「スガ」の状態で行うためここでボビン、枠等に捲き返し次の作業に移る。
7.整経
  ボビン台に掛けられた糸を一束にそろえて織物の経糸本数(当社の主力商品は4000本)および総整経長(1反分の長さ×仕込数量)を手順にしたがって整経機のドラムに捲きつける。そして、整経された経糸を巻き箱に捲きとる。姿をかえた経糸は「玉」といった。



▲群馬産絹糸・太糸
 

▲糊付け作業・男でも辛い仕事だった。(昭和30年頃の森秀織物)

1.下撚り
  原糸を織物に適した本数を引揃え右方向と左方向に片撚りをかける。その後、大枠に捲きとり「スガ」状にする。
昔は水車の力を利用して糸繰り、管捲き、そして八丁撚糸機[はっちょうねんしき]等の動力源としていたが、近代では電力と交代した。
2.精練
  以前は昔からの仕来りで藁を燃して灰汁をとり、これを主原料に他の薬品を配合してこの液で緯糸の精練をした。この方法は練り上がった糸に張りがあり、糊の含み、揚撚りの際の糊の切れなど最良の方法でしたが、大量の藁を燃すので家混みの中では火災の心配があり、近年はこれに代る精練剤を開発し、代替に成功した。
3.染色、糊付
  精練、染色した糸に糊付けをおこなう。緯糸糊の製法は当時どこでも企業秘密として守っていた。
先ず布糊、これは太縄機料に特注した黄色い繊維の揃ったものを使った。加えて植物性油脂、蕨粉字の通りわらびの根から取り出した澱粉、産地はあの有名な飛騨山中の粉、そして奥利根産の水上粉、地元びいきではないが水上産のものが上質であった。(因みにこの蕨粉1俵、当時米の1俵の値段と同じ位の品であった。)
さらに米を原料とした姫糊、これは京都某社のものを専用とした。緯糸糊の材料の配合は糸の太さ、重量、特に冬の空風の季節などによって、それぞれ分量をかえて配合する。
そして糊付け、一定量の糸に決められた分量の糊を手作業で糊むらができないように丹念に揉み込む。糊付けされた糸を一夜漬けして糊を馴染ませ、翌日専用の万力を使って適量の糊を残して余分な糊を絞り出し、さらに糊むらを直して、糸張り、乾燥と作業を進める。
竹竿に通して乾燥される糸は、右、左撚りの現象が現れてくる。
とにかく企業秘密にするほど複雑な、いわゆる「手に職」のある人達が伝統を守り続けていた。



▲清廉の作業風景(昭和30年頃)

一度に多量の糸を均等に撚れるのが本機の特徴。直径1m余りの元車から約3cmの錘へ専用の糸で回転を伝える。元車と錘の径差により何十本もの錘が均等な高速回転をする。この瞬間に錘先から引き出された糸に撚りが入る。この糸を両翼の小枠に巻き取る。この間糸は高速回転で撚られながら両端へ移行してゆく。まるで生き物のように動いている。管かえ、糸つなぎ等、微妙な手先仕事にはそれなりの熟練が必要である。
糸は撚りを加えられると縮む力が生まれる。ここで糸に含まれている糊が自然に絞り出され、糸の表面を覆って縮む力を一旦おさえている。この右撚り、左撚りの縮む力が、織りあがった絹のシボ(縮み)を起こす。
しかしこの揚撚りのできが、絹の地風の良否に影響する。これほど大事な仕事を黙々として働く職人達は、正に裏方である。
以上お召し緯糸作りについては、先々代が明治か大正の頃か、京都から技術を導入し当社独自の技術として継承してきました。したがって桐生の業者の技法とは基本的に異なっていた点が多々あった。
注)当時機屋[はたや]では織り上がった反物のことを「絹」といっていた。



▲森秀織物で稼働中の八丁撚糸機(昭和30年頃)
 

▲お召し復活で活躍する現役の八丁撚糸機(織物参考館・紫)

地緯糸21中×5左右、21中×6左右、21中×7左右等太さの違う糸、絵緯(サシ緯)、多種多色の縫取糸、ラメ等、機台により使用する糸は千差万別、それを間違いなく、順調にシャトル用の管に捲く作業、これらに対し機織さん達は大勢なので仕事の順序、段取りなど大変な仕事であった。



1.力織機
  鉄製、当時最新鋭両側4丁、または6丁の杼箱(シャトルボックス)をもった紋織物専用の力織機である。杼箱の自由交換で高級多色、多重紋織物製造が可能です。また主軸から連動して上のジャカードを操作する。
2.ジャカード
  織物の紋様を織り出すための機械である。紋紙にあけられた孔により横針の運動が立針に伝わり、架物の綜絖を通じて紋様を織る部分の経糸を引き上げる。
3.架物(機拵)
  経糸を交互、自由に開口し文様を織り出すためにジャカードから吊り下げた装置、通糸綜絖によって4000本の経糸を正確に動かすために、1本の狂いも許されない。約束ごとによって正しく経糸を動かし地緯、縫取糸等を織り込む口をつくる。またクラッチ、杼替え、伏機交換等もこの架物経由で行われる。
4.図案、意匠
  この柄の良否が、商品価値に大きく影響する。紋様の色数が多くなるほど意匠図(星紙)も複雑になる。当時ラメを使った影縫お召しといって新製品を開発(新案特許)したものが市場受けし、2〜3台でこの柄を織っていたのでは間に合わず、同柄を10台位作ってフル運転したことなどもあった。こんなにヒットした柄は以後みてもなかった。こんなうまいことばかりではなく、予定反数を消却できずに没にした柄もあった。特に絵羽の大柄ともなると、星紙が畳何枚分もの大きさになった柄もあった。このような大柄になると、紋紙も膨大な量になる。当時、機屋[はたや]の売上げを伸ばすために、柄数作りは避けて通れない道であった。
5.紋紙
  短冊形のボール紙に意匠図(星紙)から模様を記憶した孔が一定の約束ごとによってあけられている。鎧の袖状に綴られた紋紙が織機の1回転毎に1枚ずつ送られジャカード、架物を経由して経糸を部分的に操作して紋様を織り込む口をつくる。この紋紙1枚が地緯紋糸等の糸1本を動かす役目をする。



▲お召し織機稼働中の写真、上に紋紙を通したジャガード機、下が力織機である。(昭和30年頃)

この仕事は全く別に経糸、緯糸を完全な形のひとつのものにするという特殊な技術を要する。経糸4000本の糸を1本の糸切れもなく、且つ、緯糸1本分の密度の違いもなく完全に織り上げる巧妙、精密な仕事である。
1本のベルトから織機の主軸に伝わった回転運動が水平、前後、縦横斜めに働く複雑な機械の構造を覚え、完全にこれを動かす能力が必要とされる。その上、経糸、緯糸など極細の糸が相手である。この糸捌きは女性の柔軟な指先がものをいう。織機を動かしながら後方で経糸のツナギ節、糸切を直したり、綾下げといって経糸の開口を助けたり、手元の作業は枚挙にいとまがない。
お召しの地緯糸は右右、左左と二越に織り込む。シャトルの管替えの時はこの撚り方向を必ず確認する。もしこれが間違って織り込まれると、片シボといって一部立ジワのある欠格品となってしまうからである。この厳重な作業も裏街道のようなもの、簡単な見分け方があり、ほとんどの機織さんはこれを応用していた。
以上述べたように、仕事を覚えるのは、若い養成工にとっては大変な苦労であったと思われる。一般には見よう見まねで覚えさせていたようだが、当社では超熟練の専門の指導者をおき、新しく機織りを習う時はこの人を個人的に張り付けて指導し、徹底した技術を習得させた。その甲斐あってか当社で覚えた人たちは、抜群な技術を体得していた。
このような難しい仕事が毎日の機織りさん達の頼りになる「機械直し」。この人達は織機の構造を熟知しており、機械の保全調整、故障の修復等々、機織部の重要な役割を負っておりました。
以上、機織の業につき色々述べましたが、これ等はお召し機織りの技術の一端にすぎません。



▲ジャガード機で織り上げられるお召し、織手は相当な技術が必要である。

織場で最大の努力をして織り上げた絹を検査する。緯糸密度、織キズ、糸切れ、汚れ等を調べ、また、糸の切り残し等を整理する。


▲出荷前の製品を真剣に検品する吉田さん(昭和40年頃の写真)

織り上がった絹を先ずぬるま湯に浸す。緯糸に含まれて撚り止めの役をしていた糊が溶け、先に八丁撚糸機[はっちょうねんしき]で加えられた左右撚りの縮む力が働き、布面にシボが表れてくる。さらに温度を上げて手作業で約90%の糊を除去し、その後、水洗、乾燥して次の湯のしをおこなう。


シボ取り後の絹を一旦乾燥させたものに湿気をもたせる。次に蒸気をふかせながら絹の巾、長さ、シワ、耳そろえ、感触を持たせる味取りなどの作業を施す。これで巻仕上げ、商標付け等を経て、はじめてお客様の目にうつる絹(商品)となるのである。

秀友会集合写真 昭和40年頃 森秀織物事務所前にて

 

森秀織物・当時の主な取引先(五十音順)
会社名 社長 社長 町名 取引内容 社長 町名 取引内容
アイバ商店(株) 饗庭正男 美原町 染料、糊料、工業薬品
荒居鉄工所 (荒居純) 東一 織機等の修理、保全
石尾シャトル ―― 仲町一 各種シャトル
太縄機料(株) 太縄昌宏 仲町二 各種機料品、紋織用資材
上岡湯のし所 上岡健城 東四 お召しの仕上げ、湯のし
栗本商店 (栗本博恭) 東四 お召し用各種撚糸
小堀紋切所 小堀隆 東四 紋織物用紋紙
光洋撚糸(株) ―― 伊勢崎市 お召し用経糸撚糸
山東電気 島崎弘 東一 当社電気関係一般
鈴木金糸(株) 鈴木雅也 錦町一 各種金・銀糸、ラメ
津久井金筬店 津久井禄治 本町二 各種金筬
保倉図案所 保倉一郎 西久方二 図案意匠作家
武藤撚糸工場 武藤圭介 東四 お召し緯糸下撚り
矢島機拵所 (矢島粂雄) 東六 紋織り用架物、引込
山一生糸 (山田一雄) 仲町二 生糸商
村田鉄工 ―― 小曽根町 力織機


 

吉田邦雄(よしだくにお)
【生年月日】大正9年4月15日(82歳)
【住所】桐生市東4-4-12/www.kiryu.co.jp/yukari/

吉田さん宅を原稿の校正にお伺いしたとき、1冊の古い手帳を開きながら説明をされる姿があった。どうやら、これが『お召し・秘伝書』であるらしい。
手帳の裏には昭和14年とあるので、入社間もない頃からの記録である。お召しの工程や薬品の調合、作業時間やコツなどを綿密に書き留めている。これはすごいものを発見したと早速写真を取らせていただいた。森秀織物でのお召し再現にはこの手帳がものをいったらしい。それほど、貴重な資料なのである。