高橋和夫氏
たかはしかずお

62歳
今回は、群馬大学の学生が中心の取材を企画しました。八丁撚糸機[はっちょうねんしき]・水車からはじまった絹織物の隆盛を引き継ぎながら、氏は『絹へのこだわり』を説明し、桐生の再生は『絹』にあり、日本で、世界で輝く『絹の町・桐生』について熱く語っていただきました。


――今までの活動について教えて下さい。
 1300年前から桐生は絹を織っていたわけで、この歴史は絶対的な桐生の強みですね。人の濃さや、多彩なキャラクターには魅力を感じていました。
若い経営者を中心に繊維開発のグループを10個ほど立ち上げて、そのお手伝いをしてきましたが、どれも5、6人の小さなグループで、明確な意思をもった集団を作りました。キーワードは『小さい』『オープン』『緩やかな連携』でしょうか。
大きな組織は、これからの時代には向いていませんね。私達の仕事は情報公開が原則で、全てをオープンにしています。元来伝統とは、情報を囲い込んで見せないことでしたが、21世紀は情報公開して、信頼関係・連携を作ってゆく必要があると考えています。
ものづくりの基本は信頼関係作りですからここ10数年、この信頼関係とゆるい約束の中で、仕事をして来ました。
そんなグループには明確な目標と数名のメンバー、そして何より良いリーダーが必要です。これがそろっていないと、逆にグループが足手まといになります。
昔では考えられませんが、個人にも、任意のグループにも補助金を出す体制が整いつつあります。極端な話、個企業でも行政の補助金で開発を行える時代になっています。それだけ、追い詰められてきたのだと思いますが・・・・
これからは地域が、専門職としてのコーディネーターやプロデユーサーを育てる必要がありますね。



▲取材風景・熱心に聴く学生たち、高橋さんは饒舌に桐生織物と絹のこだわりを語りはじめた。

――繊維中心のグループの立ち上げで、特にこだわっていることはありますか。
 桐生はやはり『絹』であろうと確信して、最近は素材を絹に限定した活動をしています。
単品目の大量生産や品質では、中国やアジア諸国に絶対かないません。地域にこだわった『ものづくり』が必要ですが、世界で戦えるのは絹だけじゃないかと思います。永遠の素材・絹というところでしょうか。
とはいっても、桐生でも絹の技術集積はどんどん無くなっています。分業体制の工程が1つでも消えると機能しなくなります。基本的に工程は復元しないです。そう考えると桐生の産地も危機ですね。


――ネットローシルクと「座繰り」の話を聞かせて下さい。
 現在群馬の絹の撚糸は100種類ほど作っていますが、200種ぐらいは必要だと考えています。それに、生糸に関してはいかなる要望にも、直ぐに応える体制を提案して、そういう方向で動いています。
当然、群馬県もそういう対応をしてますが、もしも日本から絹が消えちゃうと、繊維産業そのものが非常に大きなダメージを受けるんですね。
例えば、生糸の副産物で絹紡糸ができるんですが、絹紡糸の生産やめちゃったんですね。途端に生糸の半分の値段だったのが倍くらいの値段になったんです。
食料だって同じですけど、生産やめちゃったら必ずやられちゃいますからね。特に生糸をおさえてるのは中国ですから、価格と量では中国にまったくかなわない。これはもうどうしようもないから、これを戦おうったって無理ですよね。更に、品質ではブラジルにまったく太刀打ちできない。格段に品質がいいんですよ。
そうすると何で戦うかということになると多品種少量対応でやるしかないんですよ。それで、織物業者もニット業者も趣味の方も作家の方も、すべてに対応す。そういう方向で絹を作るべきだと提案してまして、三つのことを考えてます。


   ひとつは群馬県が力をいれる新しい種の開発です。皇后陛下は蚕を飼っているんですね。その蚕が「小石丸」というんです。それを改良した「新小石丸」というのが、なかなかいい糸を作っています。それから群馬が改良開発した新しい種の繭が、かなりあるんだけども、そういう目的用途別に応じたいい繭を、ブランドシルクにしています。それが一点。



▲新しい群馬の絹・新小石丸、期待のシルクである。

   それからもうひとつは、あらたな機能を持った生糸、新たな特性を持った生糸が必要があるということで、ネットローシルクに目をつけました。
ネットローシルクというのは、生糸を繭から取るときに網状、筒状にしていくんです。ふくらみのある毛糸みたいな生糸ができるんです。これを作ることと、あとはこれで製品を作るということを始めています。
世界でもここしかできないという糸を作るつもりです。


▲ネットローシルクの原糸を見る取材者たち、風合いも良く、キラキラと不思議に光る絹です。

  もうひとつは、日本の生糸産業を支えていた座繰りなんですね。皆さんもご存知だと思いますけども、手で回して農家のばあちゃんがクルクルクルとやった糸紡ぎです。
群馬県内で、今でも座繰りは2〜30人の方がやってるんです。
去年から県が座繰り糸の講習会をやったんですよ。道具が10台ぐらいしかないんで、1回10人で10回くらいやったんです。
なぜ座繰りかというとひとつは絹の原点で、もうひとつは風合いなんです。糸が全然違うということですね、同じ生糸でも肌触りがまるで違ううんです。



▲座繰り機械、下の湯舟に繭が4,5個入り、糸繰りをする。講習会の開催で技術の伝承にも目処が立ち始めている。

――座繰りを残す意味合いはなんですか
 いわゆる文化的な見地から、伝統技術を残すだけでなくて、いいものを残すべきだと思いまして。
また今年も講習会を何回かやりますけどね。そうしましたら、地元から一人、京都から一人。これを生業にしたいという人が出てきたんですね。これが大変なんですよ。一日にどう頑張っても、3000円しか稼げないんですよ。
ですから、腕を上げていくこととあわせて、どう売っていくかということですよね。
そうはいっても、これはひとつの柱にしたいということで、先ほど申し上げましたようにブランドの物と新しい機能を持った物と座繰りを三つ合わせて柱にして、今後展開する必要があるんじゃないかと。で、同時に色んな種類のものをね。
かつては大量生産で同じものを作ってたんですけど、やりようによっては、例えば15対あると15種類の色も可能なんですね。
ですから、少量生産、少量対応というのも可能なんです。



▲ネットロ−シルクを使ったスカーフ、風合いは抜群、新商品への期待も大きい。

――分業体制の危機を乗り切る手立てはありますか?
 桐生では絹の撚糸工場がなくなり、個人が糸屋に注文すると2ヶ月以上かかり、値段も2倍以上で、勝負になりません。
そこで、松井田の製糸工場で、群馬の生糸で撚糸を始めることにしました。桐生だけでは無理ですので、外と連携して絹織物のシステムを再構築しています。これで200種類以上の糸が作れるので、桐生の繊維との連携ができると信じています。こんな風に、ネットワークで産地の修復を始めています。


   碓氷製糸(碓氷製糸農業協同組合)というところでひいてる糸は、世界中で唯一、製糸工程でホルマリンを使わないんです。お湯の中にいれたままになってますから、セリシンとかサナギが腐っちゃうんですね。それを防ぐためにホルマリンを入れる。そうすると糸にホルマリンが付いて、ベビー用品に使えなくなっちゃうんですね。
最近碓氷製糸がホルマリンを使ってないというのを、テレビか何かでやったんですよ。それを見た高島屋が今、ベビー用品の開発をしてやっています。
こだわって碓氷製糸じゃないと駄目だという人が出てきているんです。これはこれでひとつの新しい動きですから大事にしたいと思っています。


――それが桐生の再生につながると考えてらっしゃるのですね。
 先日、北陸の方へ旅して実感したのですが、いわゆる観光旅館と個人経営の宿では、明らかな優劣がついています。個人旅館は実にいいですね。
つまり、人が集まり賑わうだけでよいのではなくて、旅館に心があり、お客さんがそれに触れて、満足してくれるかどうかなんだと思います。
次世代の人材育成にもつながっているんですがね。大きな方向性、つまり哲学を持つことがいよいよ必要な時代なんでしょうね。例えば、絶対に人の真似をしないとか、独自のスタイルを貫くとか。自社への誇りなんでしょうね。
今産地に必要なのは、地域が人を育て、人が地域をつくって行くような。そんな仕組みだと思います。
――これまでにされた仕事について、教えてください。
 平成元年から桐生織物検査機構(協同組合)を作りました。布の鼓動・染め工場・衣舞・座-リビング・刺繍連・シルクα・ネットローシルク製品開発研究会・綺羅クラブ・絹のみち・絹糸結びなど、11のプロジェクトのお手伝いをしてきました。



▲ネットローシルクで作ったレース地、柔らかい風合いがあり、肌に優しい感触がある。

名称 設立年 代表者
(協)桐生織物検査機構 平成2年 三田一郎
布の鼓動(婦人服地) 平成3年 下山智弘
染工場(染色加工) 平成5年 塚本幸司
衣舞(縫製) 平成6年 木島保広
座・リビング(インテリア) 平成7年 中野隆雄
刺繍連(刺繍) 平成8年 栗原清吉
シルクα(スカーフ) 平成11年 小松偕介
ネットロウシルク製品開発研究会 平成12年 高橋和夫
綺羅倶楽部(絹織物) 平成13年 堀竜彰
絹のみち(絹織物) 平成13年 阿部高久
絹糸結び(絹織物) 平成14年 矢部功

――ご自身の仕事と桐生の未来についてなにか、一言いただけますか?
 毎日ファッション大賞を新井淳一、高橋盾、荒川眞一郎と桐生出身者が3人受賞していますが、これは偶然ではありませんね。桐生という場所の歴史や産業や文化が土壌になっているのですね。これが桐生産地の強さでもあるわけですね。
製品を作るにしても、ただ美味しい、綺麗、安いでは駄目な時代ですね。なんにしてもストーリーがないといけません。そう考えると桐生「絹」であろうと思います。


――桐生産地の潜在能力について教えてください。
 日本が負けないためには、市場・需要・商売で絞込みが必要になります。世界で唯一というこだわりが必要なわけです。
1300年以上続いている織物の町桐生は、長年の繊維不況で叩かれ、他の産業より強いですし、「衣」は生活に絶対に必要なもので、「美しい」、「健康」など現代のキーワードにつながっているので、そちらでも強いはずです。生活の一部で、切り捨てられない部門だからですね。
21世紀では、単価や品質の良し悪しでは日本は生き残れない訳ですが、これを乗り切る新しいリーダーが必要で、少しずつではありますが、育って来ていると思います。


 繊維産地というのは特定のものを集中的に生産するというのが普通なのですが、桐生は色んな業種がある。もとをただせば絹織物だったんですけど、それから分化をしていって、縫製とか刺繍とかレースとか、色んなものが生まれてきたわけですね。
ですから織物以外は戦後のものだと思うんですけど、桐生織物の原点は絹であったと思っています。その意味では総合的な繊維産地と言えるかと思います。
やはり歴史がありますから、かなり高い技術力をもっているといえます。
状況は国際化と言いますか、グローバル化あるいは最近の傾向では、全国どこを見ても、いわゆる価格破壊が起きているわけで、繊維に限らず大変な状況ですね。
では、桐生はどうなのかというと、底力はあると思います。それはつまり、多様な繊維産地だということ、それらを支えている工程とか職人とか、それらに携わっている人たちの層の厚さというところですかね。
桐生には職人とか内職でやっている方が非常に多いんですね。実は行政サイドで書いている数字、従業員数とか工業生産高とかには、たぶん捕まえられないんだろうと思うんですが。
ですから、おもてに出ている数字では工業生産力とか繊維に従事している人たちは少ないといわれていますが、私はそんなことはないと思います。相当自力を持っているはずですよ。
で、歴史があって技術力があって、今日の少量多品種みたいなことが求められているわけですけど、そういうニーズにこたえるには桐生がもっとも適している。
したがって今日の色々な難しさがありますけど、色んな状況の中で置かれている条件としては、非常に桐生向きの時代になってきたと思っています。優位な条件を生かすことで、いくらでも頑張れると思っていまして、あまりその点では悲観してないですね。
――どうも、有難うございました。



▲群馬シルクの活用事例を説明する高橋さん。
 

▲新絹合繊を使用した加藤登紀子さんのステージ衣裳・新井淳一作(日本絹のパンフレットより)

 

【取材日時】 平成14年10月17日、11月24日(日) 午後1時〜3時
【取材場所】 ジョイタウン広場・2F会議室
【取材先】 高橋和夫(たかはしかずお)
【生年月日】 昭和11年5月26日(66歳)
【住所】 太田市西長岡14-3
【取材スタッフ】 石川佑策、原澤礼三、今村康太、後藤美希、吉田薫人、塩崎泰雄

 

後藤美希
ごとうみき
群馬大学
工学部2年生
今回の取材では高橋さんのお話を聞いた。
まず、染色について。今回は生糸、絹、絣織り。同じ生糸でも、染め方で見た目も材質も変わってしまう。絹糸を使った織物を絹織物といい、生糸で織ったものを「後練り」、糸を染めたものを「先練り」と呼ばれ、これも工程で名前が違うことを知った。絣織りも変わった織り方、染め方で独特な柄、美しさが表現される。
現在、色々な色や模様の布が売られている。ひとつひとつ特色はあるが和風のものは落ち着いていて和む感じを受ける。
昔から行われている伝統技術はかなりの技術があると思うが、中国やブラジルなどにはかなわないと知り、驚いた。しかし、それらと戦うために日本は多品種少量で対応するという。ネットロールシルクに「新小石丸」、「絹の道」など。生糸といっても色々な種類のものが開発できるのだと感心した。絹と聞くと高価なもので、何種類もあるものではないと思っていたからだ。しかし、こんなにも改良可能で染色することでまた色々な顔になる生糸や絹の染色技術がなくなりつつあることに衝撃を受けた。
日本の染物は他国のものとは違い、独特なものが多い気がする。色がすごくはっきりしているのに、全体の模様はきつくなく、ひとつひとつが美しく浮かび上がった布ができていると思う。これは昔、祖母と布を買いに行ったときに受けた感想である。普段着る服の洋の布を見るのとはまた違った楽しみを得た。
また、生糸産業を復興させるために個人ではなく、グループを作ることで補完している。昔は、日本経済のほとんどが生糸で稼ぎ、高崎などで鉄道のシルクロードなるものがあったということに驚いた。私のイメージでだが、やはり桐生は織物の町である。
しかし、現在桐生のみでの生糸産業だけでは駄目だという。日本中が連結して新しいことができていく。
今回の取材の内容はとても複雑で難しいことが多かった。しかし、少しでも布のことに触れることができたと思う。前回の取材同様、とてもいい体験ができた。しかし、聞きながら自分の意見をまとめ、質問をするというのはとても難しいことで、もっとたくさんのことを聞きたかったはずなのに、少ししか聞けなく残念に思う部分もあるが、貴重な一時だった。