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| 桐生の織物とそれに付随する水車、水車の許可証があるとか、そういう点で後世に伝えるような内容の文献的な資料をまとめたいと考えています。そういうわけでNPOと桐生市老人クラブ連合会がタイアップして来年三月を目標として色々作業をしてるわけです。市老連のほうでは、原澤さんと石川が窓口で色々と今まで取材をしてきたわけですが、これにはやはり河原井さんから幅広い内容の桐生市のこと、文化のこと、そういう点を踏まえて、ひとつおおいにお話を承りたいと、こういうわけでございます。話の骨組みがあるので、それに色々と肉付けをして話していただいてそれを編集する予定です。 |
| 今日の対談、これは本になるの。本ということは、これは桐生の人、何人位取材してます? |
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| だいたい取材予定は19人いるわけです。
当初取材先一覧としてのメモでは明治時代の栃木県水車許可証と、子供時代の新宿の風景。それから、河原井コレクション。を始めた動機、河原井さんの少年時代の思い出やその頃特に印象に残ってる桐生の特色があるはずです。
それから、その頃の市内の赤岩用水路を含めて水車の記憶等があればお話下さい。
その次に、戦争で出征7年半の後、自転車、バイク、自動車など、そういうことを踏まえて河原井ホンダの会社設立の思い出。それから現在地へいつ頃移動されたのか。
それから、我々が一番興味をもってるのはコレクション活動ですね。始めたとき、内容、織物衣装図案集を寄贈されたお話。
それから、桐生市の活性化運動の実績。
・・・ロマンあふれる街づくり。数々の情熱を顕彰いたします。こういう体験をもとにしてお話をしてください。 |
| 実はどこの家でもそうでしょうが、もらったものがあちこちの棚の上に幾つもありますよね。わが家でもみんな棚の上に置いたんですね。そのうちに整理しようと思っていますが。この部屋には比較的大切なものが展示してあります。額が3つありますが、古賀政男、美空ひばり、船村徹のすべて自筆の色紙です。私にとっては宝物です。
(奥の部屋から部厚で立派な本を持ってくる)
この本は沢田さんという人が絵を描いた松下幸之助さんの一代記です。松下さんをはじめ色々な人の一代記がありますが、これは日本一、いや世界一ですね。これね、一冊しかもらえないのを資料館用に、別にすぐ送ってくれたんですけどね。私は松下幸之助と本田宗一郎とテープレコーダーの井深大の三人を昭和の三傑として心から尊敬していますよ。
80歳を超えると体調の好、不調がありますね。今日のような場面になると痛いとか痒いとかが不思議に治っちゃうんですね。今日はいくらか体調が良くてほっとしていますね。この頃時々思うんですが、来年2月で85歳になるんだけど、90歳や百歳までは元気でいたいと考えていますよ。しかし80歳を過ぎるとがくっと落ちてきます。目も白内障とかいわれて手術したけど、前のようによく見えて喜んでいますがね。歯もおかげさまで自分の歯ですよ。丈夫な歯をあたえてくれた両親に感謝していますね。 |
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| 河原井さんは、末広町で生まれましたよね。あのへんの特色はなにかありますか。 |
| あそこはね、私は色んな当たり障りもあるし言う必要もなかったから言わなかったけど、今年で80周年なんですよ。自転車屋を親父がはじめて。はじめは相生で生まれて相生の天王宿、焼肉屋があるがね「どん」とか、あの前で自転車屋をしてて、6年生の三学期に桐生にきてね、西校(西小)に行ったんですよ。で、組の主役みたいになってね、だから子供の頃から暴れて、元気がよかったですね。 |
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| あの頃は子供がいっぱいいたでしょう。にぎやかで。 |
| 西校だってもちろん、相生で自転車屋をやってて、なから人がいてね。当時は桐生市の発展の段階で年々人口が増えて、たいしたもんだったんですよ。
しばらく前に、皆さんの前で講演したりするといってたんだけど、現在84歳で2月で85歳になるんだけど、88歳までは、車椅子にのっても今程度の文化活動はしていくつもりです。でね、今日時間をとって全部話しておけば俺が死んでも、死んだあとに残ると思いましてね。
私が死んでから何かの機会に名が出ることもありうると思うんですよ。それには最後まで、もちろん昔から個人の悪口をいったことはないですけど。たまたま明治館なんかで何かをやったときにちょっと政治のことでアンケートを取ったら、そういう講演会のなかである程度悪口もいったから、そういうことは避けたほうがいいと思っています。
伊勢崎にいた橋上さんが心をこめて、「河原井源次一代記」の絵巻物を描いてくれたんです。この表題はあとから書いたんだけどね、「激動編人生至福河原井源次」にしました。平成10年10月10日のときでした。橋上さんには大変に感謝しております。 |