河原井源次
かわらいげんじ
大正7年2月28日生
85歳
河原井源次さんのインタビューはあちこちと話が飛んで、大変な騒ぎですが、60歳から始めた文化活動の原点が見えてきます。水車や八丁撚糸の話は聞けませんでしたが、桐生の町が生んだ偉大なる古老河原井源次さんの話は、実に楽しい時間でした。

―― 桐生の織物とそれに付随する水車、水車の許可証があるとか、そういう点で後世に伝えるような内容の文献的な資料をまとめたいと考えています。そういうわけでNPOと桐生市老人クラブ連合会がタイアップして来年三月を目標として色々作業をしてるわけです。市老連のほうでは、原澤さんと石川が窓口で色々と今まで取材をしてきたわけですが、これにはやはり河原井さんから幅広い内容の桐生市のこと、文化のこと、そういう点を踏まえて、ひとつおおいにお話を承りたいと、こういうわけでございます。話の骨組みがあるので、それに色々と肉付けをして話していただいてそれを編集する予定です。
   今日の対談、これは本になるの。本ということは、これは桐生の人、何人位取材してます?
―― だいたい取材予定は19人いるわけです。
当初取材先一覧としてのメモでは明治時代の栃木県水車許可証と、子供時代の新宿の風景。それから、河原井コレクション。を始めた動機、河原井さんの少年時代の思い出やその頃特に印象に残ってる桐生の特色があるはずです。
それから、その頃の市内の赤岩用水路を含めて水車の記憶等があればお話下さい。
その次に、戦争で出征7年半の後、自転車、バイク、自動車など、そういうことを踏まえて河原井ホンダの会社設立の思い出。それから現在地へいつ頃移動されたのか。
それから、我々が一番興味をもってるのはコレクション活動ですね。始めたとき、内容、織物衣装図案集を寄贈されたお話。
それから、桐生市の活性化運動の実績。
・・・ロマンあふれる街づくり。数々の情熱を顕彰いたします。こういう体験をもとにしてお話をしてください。
   実はどこの家でもそうでしょうが、もらったものがあちこちの棚の上に幾つもありますよね。わが家でもみんな棚の上に置いたんですね。そのうちに整理しようと思っていますが。この部屋には比較的大切なものが展示してあります。額が3つありますが、古賀政男、美空ひばり、船村徹のすべて自筆の色紙です。私にとっては宝物です。
(奥の部屋から部厚で立派な本を持ってくる)
この本は沢田さんという人が絵を描いた松下幸之助さんの一代記です。松下さんをはじめ色々な人の一代記がありますが、これは日本一、いや世界一ですね。これね、一冊しかもらえないのを資料館用に、別にすぐ送ってくれたんですけどね。私は松下幸之助と本田宗一郎とテープレコーダーの井深大の三人を昭和の三傑として心から尊敬していますよ。
80歳を超えると体調の好、不調がありますね。今日のような場面になると痛いとか痒いとかが不思議に治っちゃうんですね。今日はいくらか体調が良くてほっとしていますね。この頃時々思うんですが、来年2月で85歳になるんだけど、90歳や百歳までは元気でいたいと考えていますよ。しかし80歳を過ぎるとがくっと落ちてきます。目も白内障とかいわれて手術したけど、前のようによく見えて喜んでいますがね。歯もおかげさまで自分の歯ですよ。丈夫な歯をあたえてくれた両親に感謝していますね。
―― 河原井さんは、末広町で生まれましたよね。あのへんの特色はなにかありますか。
   あそこはね、私は色んな当たり障りもあるし言う必要もなかったから言わなかったけど、今年で80周年なんですよ。自転車屋を親父がはじめて。はじめは相生で生まれて相生の天王宿、焼肉屋があるがね「どん」とか、あの前で自転車屋をしてて、6年生の三学期に桐生にきてね、西校(西小)に行ったんですよ。で、組の主役みたいになってね、だから子供の頃から暴れて、元気がよかったですね。
―― あの頃は子供がいっぱいいたでしょう。にぎやかで。
   西校だってもちろん、相生で自転車屋をやってて、なから人がいてね。当時は桐生市の発展の段階で年々人口が増えて、たいしたもんだったんですよ。
しばらく前に、皆さんの前で講演したりするといってたんだけど、現在84歳で2月で85歳になるんだけど、88歳までは、車椅子にのっても今程度の文化活動はしていくつもりです。でね、今日時間をとって全部話しておけば俺が死んでも、死んだあとに残ると思いましてね。
私が死んでから何かの機会に名が出ることもありうると思うんですよ。それには最後まで、もちろん昔から個人の悪口をいったことはないですけど。たまたま明治館なんかで何かをやったときにちょっと政治のことでアンケートを取ったら、そういう講演会のなかである程度悪口もいったから、そういうことは避けたほうがいいと思っています。
伊勢崎にいた橋上さんが心をこめて、「河原井源次一代記」の絵巻物を描いてくれたんです。この表題はあとから書いたんだけどね、「激動編人生至福河原井源次」にしました。平成10年10月10日のときでした。橋上さんには大変に感謝しております。


▲取材を受ける河原井さん
 

▲松下幸之助自伝を見せる河原井さん
 

▲鴨居の上にある沢山の賞状。河原井さんの文化活動の足跡である。

   (絵巻物を見ながら)
この絵巻物は想像図が入っていますが、子供時代に育った相生のことは鮮明に覚えているんですけど、(描かれている家の付近の図を指しながら)こっちから見ると右側に何もふたをしていない水路があったんですよ。時おり蛇を振り回して遊んだことなど記憶にありますね。
青年時代に入って徴兵検査を受けて合格して、まもなく召集を受けて昭和14年1月10日に召集された4人の仲間と西小で壮行会をやってもらいましたね。冬の寒い日で真っ暗で人の顔も薄暗くぼんやりしていたようでした。小雪が降りしきる寒い日でした。私が代表であいさつして桐生駅に向かいました。この時の写真は今も保管していますが。出発がこんなにも早かったのは、群馬県の兵隊は高崎に入隊するのが常識でしたが、私たちは防諜とかでなぜか新潟県の新発田の第16連隊に入隊したからでした。
―― 入隊後はどうされましたか?
   入隊後、わずかの期間の訓練を受けたあと、中支、北支、南方と転戦してから問題のインパール作戦の激戦に回されて、九死に一生の苦しみを体験しましたね。昭和20年8月の終戦の直前に桐生の水道山によく似た低い山の麓で、機関銃で前の鉄条網のあいているところを狙って撃っていた時、後ろから来る兵隊は遠くからの砲弾で戦死しましたね。私は前に行き過ぎちゃって進めず、夜が明けないうちに下へさがって生き延びてやっと帰ってくることができたんですが、今、こうして元気でいられることを本当に幸運と思って感謝していますよ。
昭和21年の6月に復員して、浦賀へ上陸したんですよ。みんなが電報だの電話を入れたんだけど、俺は何も言わないで帰ろうと思って、桐生駅におりたら何にもない。ちょうど12時頃で床屋へよってそれで家へ行ったんですよ。そしたら丁度お昼にさつまいも食ってたんですよ。
復員後、落ち着いてから親父といっしょに棒を持って、リュックサック背負って、東京の御徒町の野口商会に部品を買いに毎日行っていましたね。
その後、少しずつ体力も回復し商売も順調に発展してきたので結婚して、弘と和子の二人の子供に恵まれました。弘は河原井ホンダの社長をしています。商売をしているうちに小売り中心では利益も少なく発展性がないと考えて、親父と相談して卸に転向したら、驚くほどの利益があがりましたね。大勢の小売りの人やお客さんが朝5時か6時にくるんですよ。こっちも真剣になって働きましたね。さっきも話したように東京へはよく出張して部品の買出しに汗を流しました。働くのが楽しい時代でしたね。
その後、伊勢崎市の板垣清平という人が、自転車の後ろのタイヤを擦って走るサンライトというバイクをつくって売り出しましたね。そこで私も自分の名前をつけたGKC号というバイクを発売したら、物珍しさと便利さがあって続々と売れましたね。このバイクのおかげで利益がたくさん出て、親父や従業員で喜んだことを覚えています。
この時に社長の板垣清平さんが色紙を書いて贈ってくれましたね。絵も字もすごく上手な人だったなぁ。
昭和33年にご存知のスーパーカブが発売されたが、これでせがれを乗っけて赤城に行きました。その頃、500ccでメグロがあって斉藤モーターが特約店みたいでした。はじめはメグロの500ccかな。またせがれを乗っけて赤城山に連れてって、落っことしちゃったんですよ。でも怪我はなかった。
新宿に河原井ホンダ株式会社を建てた。2階で建ったんです。将来2階でも間に合わないときに3階が建てられる設計にしたんだけど、20年も30年もたつと基準が違って3階が建てられなくなっちゃって。と同時に2階にするような時期に、高崎に代理店があって2社だったんです。それを全部会社の直系みたいに作ったんだけど、俺んちはそういう下になるのはやめますとはっきり言っといたから、支店長がきて、高崎のホンダ二輪と合併してやってくれと言うんで、これが現在の会社。この看板はなくなっちゃたかもしれない。



▲河原井源次一代記を見る原澤さん

―― こちらのほうに移り住んだときは、水車はもうなかったですか?
   新宿に会社を建てて、生活は末広町でやってたんですよ。しかし今の家に入る話があって向こうはせまいからこっちに引っ越してきたんですよ。で、あとでみんなに、よくあそこが買えたねと言われました。その頃は水車や水路は向こうの通りからくるところに流れていました。それが、ある時期に鉄骨やセメントの蓋で隠しちゃったんですよ。ここは木芳っていう有名な機屋[はたや]で。そこの工場があって、ここは離れだったんですよ。だから私がここに来たときは、水車は無かったと思いますね。
―― 会社のすぐ前のところに、野間さんの家がありますよね。あそこに昔、森寅雄さんという、剣道をやってられた方がいたと聞いたんですけども。
   アメリカで活躍した森寅雄さんでしょうかね。
―― 野間清治さんの生男でしょう。
   タイガー・モリですか、んん、、剣道・居合・フェンシングの達人で天才剣士といわれていましたね。
―― フェンシングと剣道で有名だったんですが、その森寅雄さんとは会ったことあるんですか?
   私は会ったことはないと思うんですよ。
―― 森寅雄さんはアメリカに移ったんですよ。桐生でも人物誌に書く用意をしているようですね。資料も集まってきていると聞いています。



▲「森 寅雄」
昭和9年に渡米した剣士・森寅雄は、2年後の昭和11年にはベルリン・オリンピックのアメリカ・フェンシングチームの非公式コーチを頼まれる程になり、タイガー・モリと呼ばれた。昭和30年のローマ・オリンピックでは、アメリカ・元寝具チームの正式コーチを任された。昭和44年1月8日、ロスアンジェルスの道場で稽古中に倒れた。享年54歳。
「余談として・・・アメリカの剣客森寅雄の事暦」司馬遼太郎 文芸春秋(1979年)
「タイガー・モリと呼ばれた男 森寅雄の生涯」早瀬利之 スキージャーナル(1991年)

―― 町おこしのお話をお聞きしたいのですが、はじめに日限地蔵奉賛会についてお願いします。
   日限地蔵をPRすることが先決だとして西桐生駅からのぼりを立てたり、西桐生駅から日限地蔵までを地蔵通りという名称をつけ日限地蔵をさらに宣伝しました。私も60歳ちょっとすぎに文化活動をやったときには、桐生の文化拠点を拡充強化して流入人口の動員を図るというので、文化活動を始めたわけです。それで西桐生駅であれを始めたのは、堤だったかに会社があるんですよ。たしか、(株)みさちの中野光太郎という若い社長から西桐生駅にのぼりを置こうという話があったんで。機を織るにも機械が必要で、ピンときて広沢の観光センターに行って機械はないかと聞いたら、1台あったんだ。その日にいったら次の日に入ったんですよね。それで機織ったりなんだりしました。
コレクションの活動については、みんなに言われたんですね。よくこんなに集めましたねと言うんですよ。始めた理由を、よく質問されるんですが、子供がおもちゃを欲しがるのと同じで、見るもの聞くもの、珍しいものを集めたんだといっていました。



   カメラを収集したことがあって、今でも買ったときの領収書がみんなありますよ。その頃全国ホンダ会の会長をやってたんです。東京に支店があってそこで会議とかに行くとね。日帰りなんだけど、東武で行って、帰りも東武で。一番遅いのだと8時45分の電車でも帰れたんですね。カメラは、こういう田舎の町では揃わないから東京に行くたびに、銀座と品川と、新橋だかに行って買いました。
―― 河原井さん、何か集めないものがあると言いましたよね。
   俺が集めないものは、刀、絵、あとは陶器。今でも当時でも東京へ行くときは5〜10万もっていって、それでカメラを買ったんだけど。金に不自由なく会社がまわって、うちの家内が経理をしてたから。家内にいうと、俺のいったことに反対したことはないんだよね。短気だから何をされるかわからない、だから金はもらったんですよ。それでなんでも集めて。カメラを1300台位集めて。それをある時に、資料展示ホールに寄付して今も5階に展示してあります。
今そこにもあるんですけど、奥に色々カメラがあるんです。夜寝る前に毎日、40分か1時間繰り返し見て、なんで見たかというと、あるカメラとないカメラを頭に収めるってんで。好きだから、急には100だの200だの買わないんです。そういう買い方をしたらよたもんが含まれてて駄目なんだ。当時は、東京にもないんですね。ニューヨークだのアメリカだの、ヨーロッパにも行って駐在員が、向こうで見つけて東京に送って、それで銀座だの新橋だのカメラ専門店で買ったわけです。桐生へ陣取ってこの辺で集めようっても集まらない。金も自由に、際限なく使ったね。使ってもとにかく俺もよく動いたし。60いくつのとき、文化活動を始めたときは、みんな会社に幹部がいるのでほっといても業績は下がらないんですよ。高度成長時代で、その後バブルがはじけてがっくりきたわけですけど。



▲河原井さん宅、元は織物会社を取得した。この中には、こだわりのコレクションがぎっしりと詰まっている。

―― 色々と活動された中でなにか思い出がありますか?
   日限地蔵はね、24日に沢山の人が来る。上電沿線からも来るんですよ。それで日限地蔵へ行って、日限地蔵奉賛会を発足させて、坊さんと色々話をした。そして自然に入ってくる人だけだと発展がないから日限地蔵奉賛会も拡大しようということでお寺に協力してきました。
それで奉賛会を作ったとき、当時俺の友達の堤の兵頭保吉と藤井竜人さんと竹内研一さんと俺の4人いたんですよ。上電沿線やるときはね、前橋桐生の中間点までみんなで行って、粕川から桐生まで、粕川から新前橋までふたりずつ組んで旗立てをやった。日限地蔵にも少し立てて。それで、初めて来る人があのへんに来てもわからないと言うので、矢印の看板をつけたんですね。そしたら桐生市の公園緑地課というところから、あそこは無断で何かを立てないでくれと電話がかかってきた。それですぐ行って、実はこれこれこういうわけで立てたんで、もし撤去しろと言うなら市長に友人でも連れて抗議にいこうと思った。それでわけを話したら、それならいいですと。桐生の地域発展をするために一生懸命やって交通の邪魔をするわけじゃないですからね。でも条例ではあるらしいですよ。ひとつほっておくと連鎖的に真似するやつがいるからね。
―― のぼりがたくさんありましたでしょう。あれはどなたが費用をもったんですか?
   あれはね、周東旗屋で買ったんですよ。日限地蔵はね相当収益があるんですよ。だからね坊さんに話すんだけど。買ったとしてものぼりがだいたい2000円位したんですかね。で100本位作ったんですよ。最初は赤を。そしたらこれにも因縁があるんですけど、赤は周囲の環境を悪くするというのでグリーンになったんです。そういう費用はお寺がもってましたね。



▲桐生市資料展示ホール5階に常設中の河原井カメラコレクション。1300台のカメラ全てを寄贈して作られた。

―― では天満宮の骨董市の事も教えて下さい。
   これは有鄰館で看板展やってるときに伊勢崎の業者と草津の業者と3、4人来て骨董市をここでやったらどうかと。でもここでは骨董市はできなくて業者代表とその足で天神様に行ったんです。俺が地域活性化で動いてるのは天神様のほうも見てたから、うちの会社で需用したのも買ってくれたし、行って話をしたらけっこうですと。毎年1回ずつうちの夫婦と業者代表のふたりと、天満宮は上の奥さんとせがれで、糸屋通りのうまい店で毎年1回ずつ会議をしてるんです。俺が色々してきた中で一番ラクして一番ほめられて一番うまくいったのが天満宮骨董市なんです。この翌月にやったんですね。ただ契約書にハンコを押しただけで、朝は清掃をすることなんていうのをやったんだけどね。私ははじめから関東の三大骨董市といって川越と東京と桐生のとほらをふいて、それで第1回から60店位店が出て。最初から60ですよ。それが100になって、100からいくらか少なくなっちゃってるけど今は80店位は出てると思うんです。それとうまくいってることは、骨董市だけで食い物関係の異業種の店は一軒も出てないんですよ。やはり骨董市というのは商売の原点に立ってると思うんですよ。店がないわけですから。それで成績は上がってるわけですよ。一番いいことは業者会長の栗原君がみんなやってくれて、俺は広告した金を払う位で、口出しはしたことないし。普段調子が悪いのに天神様に行くときは元気が出るんですよ。100回になるので記念碑を建てようかと思ってます。なぜ100回の記念碑を私が固執したかというと、今の天神様骨董市は天地に異変がない限り何百年でも続くんじゃないかと思ってます。記念碑は平成14年2月に建てました。
天神様もこの日は市外からも相当電話が入るらしいですよ。それと天神様のいいところは、市内に入ってまっすぐいけば突き当たりにあるということですよね。駐車場がなくて困ってたんですよ。そしたらね、きのこ会館の森さんが、あそこの裏にある駐車場を使ってもいいよって。それで駐車場問題も解決ですね。だから天神様がなんだかんだいって一番骨を折らずに解決しましたね。



▲毎週第一土曜に開かれる、天満宮古民具骨董市、これも河原井さんが始めた事業のひとつだ。

  相沢忠洋さんの関係についてお話しますと、相沢さんの後援会の会長を受けた頃、笠懸町との交流もスムーズになってきたので、相沢さんの業績を顕彰するのに一番目立つのは記念碑がよいと判断して、記念碑を建てたんです。そして記念館の前に相沢さんが石器を発掘した時の姿と同じ格好のレプリカも建てることができて、大きな事業が達成できたと喜んでいます。相沢さんの後援会員は全国的にいて、協力的なので嬉しいですね。


  彦部駒雄さんの徳望を敬慕し、彦部屋敷の保存に協力を目的にした鳳純会の活動にも尽力してきましたね。私は大川美術館と重要文化財の彦部屋敷はたいした施設と思って両方に力を注いできました。鳳純会の会長も去年に森山亨さんにお願いしましたが、受けてもらって安心しましたね。
野間清治顕彰会も会長をやめて、今は森寿作さんにお願いしました。副会長にうんといい人を5人(竹田・大西・野間・須田・原沢)も入ってもらったので、森会長を中心にして野間会もますます発展していくでしょうね。


―― 市立図書館にレコードとか・・・
   レコードもそうなんだけどね、その前にね、岡田さんが明治館の館長をしてるときに丁度岡田さんに会いに行ったんですよ。そしたら古い本がいっぱいあるから、これはなんだいと聞いたら、伊勢崎の業者が買ってくれといってると。いくらだと聞いたら300万だと。200万位にしたら俺が出すからということで。
話の途中ですが、私が今日まで文化活動をしてこられたのは、大川栄二さんと岡田一男さんのおかげだと感謝しています。本かなにかに書いてあると思うんですがね。
教育資料室は、色々集めて2800点位寄贈しました。ほとんど毎日やってたね。やりだすと根をつめてやる。
桐生一高も書いてあるけど、一高が甲子園に行ったときは、足が悪かったけど決勝に見に行ったんですよ。バックネットの裏のあたりで。帰りは電車だったんですけど、人がいっぱい乗ってたので電車と電車の継ぎ目に新聞を敷いてそこに座って帰ってきた。桐生一高はそのときに野球の本だの、ふた箱ほどあったのを一高に持ち込んで、ちょっともったいなかった気もするけど、野球資料館を作りませんかと、やっちゃったんだけどね。古い本も東京の神保町に年中行ってたから。他の本もそこで見つけてきた。
各小学校や中学校は、南だの西に色々寄付しました。
明治館は、毎日毎日行って、あそこへ持っていたのは、タバコの吸殻入れから人力車まで、何でもかんでも持ち込んだ。
黒保根の歴史民俗資料館は、本を持っていったりレコードも持っていったりね。黒保根は少しよくしなけりゃと思って、随分やって講演も2回ばかりやったんですよ。それで女子の職員に桜井さんという人がいて、この人はうんとああいうことが好きで、館長は定年で去年あたりにやめたげだよね。
それで今でも、色んなものが適材適所に、寄付すればそこで利用するだろうとは考えてます。今日もね、みんなが来るんで整理したら、随分映画関係の資料が昔からあるなと。1回ね、文化会館の地下で展示したいね。



▲ご自身の文化活動について語る、河原井さん

   私が出した本をごらんになったことはないですか?
―― ええ、存じております。
   『桐葉楽団の歩み』と『活動写真(映画)と小型映画の歩み』の2冊です。1冊作るのに半年はかかりましたね。午前中は会社の仕事をして、午後から夜おそくまで本つくりに熱中しましたよ。印刷は日刊きりゅうの社長が世話してくれたんだけどね。この本の表紙が黒と白になっているでしょう。この頃ある本を買ったら、表紙がこういうのがあって、なぜか感動してこういう表紙にしましたが、今でもこの本の表紙には、愛着をもっています。
幾冊だったかなぁ。作ったのは、各1000冊だったかな。2冊だけ残して完売したんですよ。で、高いんですよ。3000円位。紙もいい紙だし。
現在この本を手にして、時代の流れの説明や写真の解説、編集後記などを読むとね、今の河原井源次にはもうできない、絶頂期の作品なんですね。
このあと『桐生野球物語』をつくろうと計画したが、現役やOBの選手に話したけど、関心が得られず出版しなかったのは心残りでしたね。
有鄰館も一生懸命やったわけですね。看板展も盛大にやりました。
―― ここに乗ってる清水栄三さん、こういう人にも渡ってるわけですか?
   そういう人にはすべて渡ってる。
この間ね、生方さんと話をしたら、生方時計屋の奥さんも足尾から来たんだって。清水さんちの奥さんも足尾から来て、清水さんはまだ奥さんも元気で。年中俺んちに来てた。清水さんは楽団の警察音楽隊かなにかを設立して、器用でね。それから、ミニSL作ったのは清水さんだった。今は荻原モーターがやっています・・・


(このあともインタビューは続くのですが、河原井さんのご都合もあって、記録のほうはここでとりやめました。河原井さんの精力的な文化活動の推進、そして町おこしへの積極的な行動には、取材者一同深く敬服致しました。)



▲取材した部屋は蒐集物であふれる河原井さんの宝箱でした。

 

【取材日時】 平成14年11月7日午後1時〜3時
【取材場所】 河原井源次氏宅
【取材先】 河原井源次(かわらいげんじ)
【生年月日】 大正7年2月28日(85歳)
【住所】 桐生市新宿3-13-8
【取材スタッフ】 原澤礼三、石川佑策、長田克比古、吉田薫人

 

原澤礼三
はらさわれいぞう
桐生市老人
クラブ連合会
私が河原井さんと親しくご厚誼を願ったのは、平成元年3月に教職を退いて桐生市教育資料室に勤務した時からでした。河原井さんは、この頃はもう文化活動に精力的にご活躍されていました。
河原井さんは膨大なコレクションの中から、教育関係の資料(江戸時代の和綴じ本、明治・大正・昭和の教科書、写真、アルバム、レコード、教材、教具など約2800点)を次から次へと惜しみなく寄贈されました。おかげさまで教育資料室は小さな施設でしたが、内容的には県内でも誇りうる資料室となり、来館者もその充実ぶりに感嘆していました。
私は河原井さんの資料寄贈活動を縁に公私にわたるご指導を頂きました。併せて河原井さんの文化活動推進への情熱や実績をうかがい知ることができました。
今日のインタビューをまとめてみましたが、私たちの準備、資料、時間などの不足から河原井さんの活動の一端しかまとめられなかったと反省し、活動の実績を次のように一覧にしてみました。まだまだ落ちてる点があると思いますが、ご容赦下さるようお願い申し上げます。


河原井源次さんが関係した文化活動の記録(順不同)
1. 野間清治顕彰会の発足
2. 日限地蔵奉公賛会の結成
3. 天神様境内の骨董市開催
4. 相沢忠洋後援会の活動支援
5. 鳳純会の復興(彦部駒雄の顕彰会)
6. 桐生市教育資料室の充実
7. クラシックカメラの寄贈(郷土資料展示ホールへ)
8. 島隆・霞谷の顕彰
9. コレクションの寄贈先(レコード・蓄音機・雑誌・ポスター・写真・民俗資料)
  1.前橋市立図書館 2.東村童謡館 3.黒保根村民俗資料館 4.桐生市内の小・中学校 5.明治館 6.桐生第一高等学校(野球関係) 7.桐生市立図書館 8.有鄰館 9.竹久夢二伊香保記念館 10.群馬県立図書館
10. ドリーム館での展示会開催
11. 町おこし研究会などでの意見発表(各種会議での発言)
12. 『桐葉楽団の歩み』と『活動写真(映画)と小型映画の歩み』の発行
13. 映画ポスターの展示やレコードコンサートの開催
河原井さんのモットーは「有言実行」と聞いております。今、この一覧表を作成して河原井さんの多彩な活動を知り、改めて敬服させられました。これからも「歴遊」(郷土資料展示ホール・桐生明治館の広報誌)河原井さんが書かれた「桐生を文化と夢のあるまち」の実現のために益々ご健勝で、日々好日で過ごされ、そしてご活躍されるようご期待申し上げております。