本イベントは、地域の文化・歴史・産業等の貴重な技術や記憶を継承する仕組み作りの一環として開かれました。
会場となった織物参考館・紫(ゆかり)では、桐生の原風景である撚糸水車と八丁撚糸機[はっちょうねんしき]をテーマとしてシンポジウムが行われました。
江戸後期から昭和にいたる『お召し織物』の記録や思い出を、パネリストの方々の白熱した議論から、浮き彫りにして、後半の自由討論へと展開してゆきました。そして、このシンポジウムが発端でこの冊子の編纂が始まりました。
日時: 平成13年10月13日(土) 午後1:00〜2:45
場所: 織物参考館「紫」(ゆかり)
参加者: 【パネリスト】
     桐生市老人クラブ連合会会長 峯岸康治
共立織物会長 小池久雄
桐生文化史談会副会長 亀田光三
  【コーディネーター】
    桐生インターネット協議会副会長 長田克比古
  【ワーキンググループ】
    群馬大学社会情報学部社会情報学科教授 富山慶典
東京工業大学大学院社会理工学研究科助教授 坂野達郎
国際大学・主幹研究員 西山裕
(有)ライズ代表取締役 野口健二
ファッションタウン桐生推進協議会副委員長 川村智史
NPO法人桐生地域情報ネットワーク理事長 塩崎泰雄
富士総合研究所 曽山利恵子
  【アートディレクター】
    NPO法人桐生地域情報ネットワーク事務局 大里政由
  【事務スタッフ】
    NPO法人桐生地域情報ネットワーク理事 木村光一
NPO法人桐生地域情報ネットワーク理事 森島愛一郎
NPO法人桐生地域情報ネットワーク事務局 小林隆子
NPO法人桐生地域情報ネットワーク事務局 吉田薫
NPO法人桐生地域情報ネットワーク事務局 高沢朋子
NPO法人桐生地域情報ネットワーク事務局 増田久香
NPO法人桐生地域情報ネットワーク事務局 荻原由加
NPO法人桐生地域情報ネットワーク事務局 林幸雄
群馬大学工学部情報工学科 林康平
白鴎大学法学部法律学科 小島可奈子
群馬大学教育学部 辻繭子
群馬大学大学院社会情報学研究科 森美有紀


 
 

《川村》 みなさん今日は、お忙しいなかお集まりいただきまして、有難うございます。本日のイベントは、国が進める「ミレニアムプロジェクト」の一環として位置づけられ、厚生労働省の委託事業として行われます。主催は桐生市老人クラブ連合会、ファッションタウン桐生推進協議会、NPO法人桐生地域情報ネットワーク、の4つの団体で共同しておこなっております。
本日は、水車というひとつのキーワードを使って、みなさんよりたくさんのご意見、昔なつかしいお話をお聞きしながら、地域の文化遺産(コミュニティ・アーカイブズ)、ある意味では桐生の歴史とか文化とかというものを残したいという思いがございまして、今回のイベントを実施させていただきました。
主催者を代表いたしまして、桐生プロジェクト委員会から、坂野東工大助教授、よろしくお願い致します。
《坂野》 本日はお集まりいただきましてありがとうございます。私は東京工業大学の社会工学専攻の坂野と申します。厚生労働省の事業とこのプロジェクトとの結びつきというのは、分かりにくいところがございます。簡単に経緯をお話させていただきます。実は、故小淵首相が亡くなる直前に、21世紀の日本を考えるということでミレニアム・プロジェクトというものを立ち上げました。それは、21世紀の日本をどうしたら良いかということを考えるためのプロジェクトで、全部で十数本、調査委託事業としてあります。そのうち、私が参加させていただいておりますプロジェクトは、高齢者の生きがいや雇用を考えるプロジェクトになります。特に、そこで問題となりましたのは、雇用ということよりは、地域貢献的な活動を中心とした生きがいの場をどういった形で作っていくことができるかということであります。一昨年度から実はプロジェクト自体は動いておりまして、全国で調査をさせていただきました。その過程で、今回の主催のひとつに入っておりますNPO法人桐生地域情報ネットワークさん、その当時はまだNPOになっていなかったと思いますが、インタビューをさせていただいた経緯の中で、実はおもしろい活動をされていることがわかってきました。
今年やろうとしていることのひとつは、地域の活動の拠点となるような新しい場を作りだそうということです。地域プラットホームという言葉になります。その事業のひとつを桐生地域情報ネットワークさんにお願いして仕事をさせたということになるかと思います。



▲坂野先生より本シンポジウムの説明がなされた。


《坂野》そこで話題となりましたのは、実は生きがいの問題です。ここだけは私の個人の見解になりますが、労働と仕事っていう2つのものがあって、労働というのは生きていくために必要なものを仕方なくやっています。仕事っていうのはその人の一生を超えて、この世の中や世界に何かやっていくことです。その人が亡くなっても世の中に何か残るものを作りだすことが仕事だと定義している人がいる。一番イメージしやすいのは、たとえばスペインのアントニオ・ガウディという人の代表作であるサグラダファミリア聖堂は100年以上たっても完成していない。百何十年経っても完成させようということが個人の生命を超えて、脈絡と続いている。近代都市の問題は何かというと、世代間の継承がおこなわれなくなったということに非常に問題があります。それをもう1度作り出すことがまちづくりであって、そのことを思って携わること自体が生きがいになる。地域の中の昔ながらの記憶だとかをどうやって次の世代に引き継ぐか。そのこと自体は、非常に重要だという話になり、コミュニティ・プラットホームという地域活動の拠点の一番の核に、地域の記憶をどうやって残すか、それを見つけようということになりました。
その過程で、水車というものを桐生の中で作っていたということで、水車に関わる記憶を作ってやろうか、上手くこの中で記憶を集めていくことができたらということで今回のテーマとなりました。それは、単に記憶を強めることは懐古主義的なマイナスの側面だけを持っているのではなくて、新しい産業や文化は、過去の遺産の上に成っている。それが直接どうすべきかはわからないですが、おそらくこういう活動によって残された文化や遺産といった記憶は、次の世代のあたらしい産業であるとか新しい文化になるだろうと期待しています。私自身は、東京の郊外の全く歴史のないところで、文化自身は30年位しかないところで育ちました。桐生市に何度かお伺いして、この施設を見学させていただいて、桐生の織物の歴史は千年以上あるとお聞きしました。こういう意味のある活動に参加させていただいて、私自身、非常に光栄であると思っております。簡単ですが、厚生労働省のプロジェクトの関係でご挨拶させていただきました。よろしくお願いいたします。
《川村》ありがとうございました。続きまして、主催者のひとつでありますファッションタウン推進協議会から桐生学を主催されております丸山さんの方からご挨拶をお願い致します。
《丸山》おはようございます。
大変良いお天気となりまして、秋を感じます。桐生学というのは、桐生ファッションタウン推進協議会の中で別途委員会がございまして、今やっているのは一番最先端をいく分野の方でございます。私の方は、古きを訪ねて新しきを知るという方の分野でございまして、いままでに幅広いジャンルから桐生の歴史をひとつひとつ紐解いています。今回は第8回目となります。8回目にして、ジョイント桐生学。非常に形の変わったユニークな桐生学で私も非常に感激いたしております。
最初のうちは雑学でございまして、今日お見えでございます大里仁一先生の桐生の歴史を3回ほど勉強いたしました。それから相沢千恵子さんの「岩宿の発見」ということでお話をいただきました。それから山鹿英助さんの「渡辺崋山と桐生」。奈良彰一さんの「桐生祇園と鉾と屋台と」。今日お見えの小池久雄さんの「戦後の桐生の文化活動について」。色々そういう分野から勉強してまいりまして、幅広いジャンルをひとつひとつ勉強していこうという企画でございます。今日は、ジョイントの素晴らしい企画でございまして、私も大いに期待して勉強させていただきたいと思います。今後もまた桐生学についてご意見、ご要望、参考になるアドバイスを是非お聞かせいただきたいと思います。事務局は商工会議所の2階で担当もおりますから、どうぞよろしくお願い致します。
私と水車との関わり合いですが、実は、私の母は多野郡の吉井の池というところでして、鏑川のほとりで水車をやっておりました。これは米と麦を搗いていたんですね。水車のことを「車」というので「車んち」「車んち」。今だに私が行きますと、「車んちの孫が来たよ」と66歳になっても言われるんですよね。水車というのは車というということで代表されるような性格を持っていたと感じます。
それから、私のお寺が新宿の呑龍様でございますが、子どもの頃お墓参りに行く時にずいぶん水車がありまして。遠坂さんのおじいさんに「昔は呑龍様に行く時に水車が廻っていましてね。」と言いましたら、遠坂仲司さんのおじいさんが「おまえ、いくつだ」と。「昭和10年生まれです、4つか5つの頃連れられていったんですよ」と言いましたら、「その頃、水車はあったけど、廻ってはいなかったはずだよ」とおっしゃったんです。歴史というものは正しく言いなさい。水車があったから廻っていただろうということではダメだよということを語られまして。私は今だにそれが頭から離れない。ものをきちっと見ることが大事かなと肝に命じております。
もうひとつはロマンチックな美しい水上の風景ということで、非常に期待しております。どうぞひとつ今後とも桐生学をよろしくお願いします。ありがとうございました。それと、今日非常にお世話になっております皆様に私共の方から厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。



▲第8回の桐生学について説明する丸山氏
 


《川村》 ありがとうございました。
ここで本日のタイムスケジュールを簡単にお知らせいたします。これから約90分間「水車」というキーワードでシンポジウムがおこなわれます。そのあと2時45分から30分間、紫の館内の工場見学をしていただき、3時15分から1時間ちょっとフリートークということで、水車をキーワードとしてみなさんとお話をしたいと思います。よろしくお願いします。
それでは、シンポジウムに入りたいと思います。本日のコーディネーターを勤めます長田さんです。NPO法人桐生地域情報ネットワーク副会長、くまさんの動物診療所所長でございます。
続きまして、本日のパネリストでございますが、峯岸康治様。桐生市老人クラブ連合会会長でございまして、長く市議会議員をお勤めになられました。平成2年に発行されました「あすへの遺産」では老人クラブ連合会としての編集を担当されました。
続きまして、小池久雄様。共立織物会長、桐生倶楽部の現副理事長でございます。元織物協同組合会長、元花と緑の会会長、ほか歴任されております。
3人目のパネリストでございますが、亀田光三様。桐生文化史談会副会長、産業考古学会評議員、両毛産業遺産研究会代表、元桐生工業高校教諭でありまして、現在、桐生の文化歴史の研究家でもあります。本日の水車の資料は、亀田様からのご提供となります。
時間がなかったので、すべての資料などを見られなかった方がいらっしゃるかと思いますが、本日、写真にして40点、プリントにして15点ほど水車にまつわるものを展示してございます。あとでみなさん見ていただけたらと思います。
それでは、シンポジウムを始めさせていただきます。よろしくお願いします。



▲司会の川村智史氏


《長田》 こんにちは。
「水車の廻る風景を求めて」ということで始めさせていただきます。資料にもあったと思いますが、「21世紀の桐生とは、高齢者の知恵や経験を世代間で共有して地域固有の文化遺伝子を後世に引き継ぎながら生き続けるまちではないでしょうか」という問題提起をいたしました。今回こういうイベントを企画しまして、地域住民が、伝統・文化・歴史といった地域の記憶を作り続ける地道な活動を今から始めていこうではないか。今まで色々なものがありましたが、新たにもう1度やっていこうということで、今回のシンポジウムを始めたいと思います。
特に今回のシンポジウムを始めるにあたりまして、平成2年に老人クラブ連合会が出版しました「あすへの遺産」の1集から3集の中に色々な桐生の文化や生活がかかれておりました。その中で、「生活の知恵や心意気を、そして生活感あふれる素朴な営みの中に『確かに生きる力』を感じとっていただきたい」と当時の連合会長の田所さんはあとがきに書いております。そういうわけで、今回最初に、老人クラブ連合会の峯岸さんに一言、「あすへの遺産」を出版したこと、シンポジウムに関してのこと、そういうものをお話していただきたいと思います。
《峯岸》 老人クラブの峯岸でございます。
本日のイベントに関しましては、事務局からお話を聞いたわけですが、本日拝見いたしましたところ非常に優れた先生方もおいでのようにお見受けしました。私どもは、何を語るべきか迷うような状態でもあるわけでございます。
桐生市は、繊維のまちですが、当時多くの水車を利用して、撚糸ばかりでなく、精米から始まってあらゆる生活の上で水車を利用していたようでございます。



▲コーディネーター役の長田克比古氏
 

▲老人クラブ連合会・会長 峰岸康治氏


《峯岸》私がひとつ、印象に残っておりますのは、子どもの頃に天神様の御開帳で水車を使って「曽我兄弟」など、人形が生きているように動いていたことです。水車でどのように動いているのか、私はよく分かりませんが、当時の大工さんも技術を要したことであろうと思います。私も、80歳をちょっと過ぎました。ですから、桐生市の水車の状況は目をつむっていてもわかります。梅田から始まって、新宿の果てまで、目をつむると「あそこにあった、ここにもあった」と映ります。
今日は、織物の名手の方もいらっしゃいます。ここで、こういうようなことに触れるのは非常に恐縮なのですが。昔、ある歌詠みが、八高線で来て、「機の音赤城榛名妙義吾妻」というふうに表現されたそうです。私ども子どもの頃は、どこの農家の家でも手機を持っていました。それから時代が変わってきて、水車を利用して撚糸が開発されたそうでございます。桐生川用水、当時は関係する人が行政の力を借りずに綺麗にしていました。今は行政が至れり尽くせりで、非常に良い時代だと思いますが。
今の若い人は知らないと思います。今の天神様に太鼓橋がありますが、私どもが子どもの頃は、太鼓橋に水が流れてきてメダカがたくさん泳いでいた。本町には水が流れていて。そういう時代があったわけでございます。
今、桐生の繊維産業は、非常に衰弱しておりますけど、先達のおこなってきたことを考えますと、若いものはこれに負けない何かを考える必要があるのではないかと考えるわけでございます。色々発刊をしました、当時会長でありました田所さんは非常に先輩として尊敬できる方でもございます。私は、ここに来て何をお話したら良いかわかりませんで、長田先生から「水車のことで挨拶をしてくれたらいい。専門的な方が細かい話しをするから」と聞いておりまして軽い気持ちで来ました。これで私の挨拶に変えさせていただきます。
《長田》「あすへの遺産」の中を見てみますと、水車、水路、撚糸関係のお話が相当入っております。水車のところだけでもいくつかあげますと、「大原街道―今は昔―最勝寺門前従来」という周東さんがお書きになった文章では新宿の地域にあった水車の話が載っておりまして、撚糸のことも載っておりました。それから「撚糸と水車」ということで横山さんが水車と水路のことを詳しく書いておられます。まずそこから水車と水路、撚糸と取りかかってきたのですが、その中で、これを見ればいいよということで「桐生史苑」というのがありました。そこで「桐生史苑」を図書館で調べて見ました。そうしたら、水車のことで一番古いのは、「桐生史苑」の第11号、昭和47年で、「桐生地方における水車、八丁撚糸機[はっちょうねんしき]」と亀田さんが書いておられました。それを始めとして水車、水路と色々な広がりが出てきております。「桐生史苑」の中だけでも7編かかれております。
桐生の水車がよその地方の水車とどう違うのかについて亀田さんにお話していただきたいのですが、よろしくお願いします。
《亀田》亀田です。よろしくお願いします。
(配布資料を指して)この裏にあります「赤岩用水と水車について」、小学校の先生に頼まれて作りました。赤岩用水がひとつ中心的なものとなりましたが、その他の所在というのがあるわけであります。先ほど、「桐生史苑」11号の紹介がありましたが、12号の方に私は八丁撚糸機[はっちょうねんしき]および水車について勉強させていただきました。それから第27号に田中幸太郎さんが「桐生天神町から梅田町の水車」ということで詳細な地図がございまして、所在が書かれております。それから、境野町内の水車の詳細な調査があります。最近おどろいたのは、この境野町の調査がいかに正確かということであります。実は、明治40年10月25日に群馬県庁に提出した赤岩用水水利組合の資料の中に、境野に104基とあるんです。これをみると104基なんです。全くピタリ一致しているわけです。それと比べまして、同じ赤岩用水の新宿分については、現地の方からお話を聞いて、お二人に新宿分を書いてもらいました。これを数えてみると、140位しかない。しかし、先ほどの明治40年のデータによりますと、新宿分は217とある。ですから若干足らないわけです。新宿分については、境野のような正確な調査をする必要があると私は思っております。他の地域についても、やはり調査して地図の上に置いていく、所在を明かにすることが桐生にとって必要なことなのではないか。私は怠慢でやっておりません。一応、桐生のデータは、「赤岩用水と水車」の次のページをみていただきますが、ここにあります。これは、私がつくったものではありません、大正中期頃だろうと思います。足利とかほかの例を見ましても、水車が栄えたのは大正中期のようです。ですから大正中期頃で良いと思います。
これをもとにして地図をつくっていく必要があると思います。これを機会に、水車研究会などができて、調査をすることができたら良いなと思っております。


 

▲昭和18年当時の桐生市地図、大きく拡大して参加者に自由に記入していただいた。


《亀田》 それから、下に写真がございまして、概略図がありますが。これも上げ下げ水車の模型というのが現在、所在がわからないのです。左のは、桐生工業高校に寄贈させていただきましたが、みなさんあまり関心がないようで、現在は私のところで所有しております。ですから、このど箱車[どばこぐるま]というのはあります。上げ下げ水車は、正確なミニチュアでありまして、実物の七分の一です。そして、この上げ下げ水車の寸法を測ったものをもっておりますので、ミニチュアと同じ物が復元できます。これを正確に7倍してやれば、上げ下げ水車にしてもど箱水車にしても作れます。私は、実物大のものを復元してやる必要があると堅く信じております。なぜならば、特に上げ下げ水車については、こういうタイプの水車は他の場所では私の知る限りございません。どうして上げ下げ水車という形にしたのかというと、特に新宿辺りの水路は、幅が狭い。しかも水車の数が非常に密集している。そういう中で、水車を廻すことは、普通、水車を止めた時に水を逃す場所がないわけです。では、どうするか。水車を止める時には、水車を上げるしかない。上げるためにはどういう工夫があるかというと、水車とその上にシャフトがあるのですが、上げるとチェーンが弛むわけです。弛まないように抑えるための工夫もされております。明治の頃はベルト式だったようですが、明治の終わりから大正にかけて、自転車のチェーンみたいなもの、「はしごチェーン」と言いますが、それを使っております。あとで絵が放映されますが、はしごチェーンで動いている上げ下げ車を見ることができます。
そんなわけで、たいへん特徴のある水車なんだと思います。ただし、水車は非常に小さくて、10尺以下です。なぜならば、撚糸とか糸繰りには、あまりパワーは必要ないんです。非常に小さい水車ですけど、撚糸は282棟、糸繰りを合わせると400近くあるわけです。足利も撚糸水車がたくさんあったのですが、330とあります。撚糸に糸繰りも含まれているとすれば、桐生の方が多かったわけです。
それから、前橋が意外と撚糸業がさかんだった。八丁撚糸がさかんだった。前橋も最初は水車を使ったようですが、動力に転換するのが早かったようです。大正時代には、ほとんど動力になっております。



▲亀田光三氏
 

▲仲谷さんの質問に答える事務局の森さん
 

▲1/5上げ下げ水車模型(須田信宏氏)


《亀田》 ご存じのように、桐生は1775年に、すでに水車で糸繰りをやっているというのが出ております。天明3年の1783年に岩瀬吉兵衛が水力を使って八丁撚糸機[はっちょうねんしき]を完成した。八丁と水車の利用は、八王子など色々なところに江戸時代に伝えられております。
ちょっと注意しておきたいのは、ここにある八丁は、「両錘」といって両側に撚りますから縮緬用のお召しの八丁撚糸機[はっちょうねんしき]です。最近の資料によると、水車で廻した八丁は、両錘のはあまりない。「片八丁」「片錘」と言いまして、片側だけにある普通の撚りの八丁をだいぶ水車で廻していたようであります。その証拠に、長浜であるとか名護であるとか、私も長浜には調査に行ったのですが、「お宅では水車で八丁を廻したのですか」と聞くと、「そんなの使った覚えはない」ということでした。文献も一切なにもない。ですから、縮緬用は、人力によることが多かったんです。その理由は、工賃の関係であります。そのようなことが最近分かってきました。
それと、足利の八丁は、これが両側にあります。真中の大きな輪っかはもっと幅が広くて、これが両側にあります。最近、これを復元しました。こんな近い所でも違うんです。
足利には、上げ下げ水車はございません。足利にあるのではないかと思ったのですが、ありません。ですから、かなり桐生独特のものです。江戸時代にさかのぼりますと、前橋の利根川に「つるだし車」というのがありました。これは、利根川に水車を紐で下していって、廻して上にあげるというものです。これを発明した永井長蔵さん。「つるだし車」は似ているのですが、桐生の上げ下げ車とは関係ないようです。
桐生は、非常に創造的な、ほかにないものを生み出しました。ですから、実物大に拡大したものを作りまして、実際に動かしてみて、博物館などで動態展示をするというのが、私の夢であります。
《長田》 どうもありがとうございました。
桐生の八丁撚糸機[はっちょうねんしき]は水力を使った八丁撚糸機[はっちょうねんしき]で、強い撚りをかけた糸をつくるために使ったとのことです。この糸を使って作ったお召しというものが出てきて、桐生の織物はお召しであるという形になりました。水車があって、糸があって、そして新しい撚りのかかった糸で新しい織物を作ってきた。ほとんどの水車は、昭和20年の台風の時に流されてなくなったと聞いております。戦後の織物について、非常に詳しい小池さんに水車のお話と織物のお話をしていただけたらと思います。



▲会場の織物参考館で話すパネリストと参加者


《小池》小池でございます。
司会者から注文をつけられましたが、実は私は学校を出てすぐに織物関係の会社に勤めまして、50年以上、織物会社をしています。残念ながら私がやってきた仕事は、桐生を代表するお召しではないので知識は全くございませんので大変申しわけありません。私が桐生に住むようになったのは、昭和13年、家が街の真ん中にありまして水車に関する記憶もございません。
先ほどの紹介にありましたが、私は桐生倶楽部副理事長でございます。桐生倶楽部というのは、その前身の桐生懇和会というのが明治33年の1900年にできたもので、森宗作さんをリーダーとして桐生の財界の方々が桐生のまちをもっと良い町にしたいということで活動をしてまいりました。たとえば、第一勧銀のもとの銀行の本店を館林から桐生に移したこと、あるいは、織物の検査所や販売所を作ったり、電話が前橋しかなかったが桐生へ2番目に引いたとか、水力発電のもとをつくったりとか、色々な仕事をしました。その懇話会が3年経った時に、「桐生商工案内」というのをつくりました。これに一部載っておりますので、読ませていただきます。桐生商工案内は以下の通りです。
「岩下龍太郎氏が編纂した桐生織物史の項に、岩瀬吉兵衛により水力利用の完全なる撚糸機械が案出されたとある。岩瀬吉兵衛は下総の国、結城郡の生まれなり、安永7年、郷里を辞して桐生町2丁目に転入し……当時、撚糸用機械としては、1に人力によるところの紡車のみなりしが、水力を原動力とする撚糸機械、すなわち八丁を創製し、使用者および企業家に一大変化を与えた。文政5年、吉兵衛、77歳にして死す。今や桐生は、泰西の工業組織輸入の時代なれども、洋式撚糸機械の設備、今だ普及せざるがため、天明創製時代の八丁を撚糸用に供し、水車に原動力を仰ぐもの多し。撚糸業者は、新宿および境野に多し。すなわち明治30年の統計によれば、撚糸用水車237、内訳、新宿150、境野87。撚糸用八丁機450、内訳、新宿300、境野150。」
渡辺崋山の毛武遊記をはじめ水車の廻る風景を書いたものがあります。一番新しいのは、幸田露伴が信憑記の中で風景を書いたんですね。
そんなことで桐生で水車が廻っていた景色は、本当に見事なものだったんですね。
桐生の織物というと紗綾市[さやいち]というのをやっておりまして。元文4年に西陣から弥兵衛と吉兵衛の2人が桐生に入ってきて、高機[たかはた]のやり方を教えた。それがもとで、紗綾ができるようになって、桐生の産地は大変な発展をするわけです。紗綾と撚糸織物・縮緬は、江戸時代から西陣を脅かす位大発展をしたわけです。それの大きな原動力となったのですから、水車というものは、桐生の織物にとっては忘れてはならない大事なものです。水車の話しから離れてしまい、大変申しわけありません。お許しいただきたいと思います。
《長田》ありがとうございます。
目の前に八丁撚糸機[はっちょうねんしき]があるのですけど、水車から伝わって糸になって布になっていく、その辺の話を伺いました。
水車の水路を地図の上に点を置いていくということで、峯岸さんは水車の場所は結構あったんだよというお話がありましたが、今、抜けているようなところの場所を地図の上にプロットしていって、データを調べて行くようなかたちになったら、若い人達が色々な形で出て行けるのではないかと思うのですが。その辺どうでしょう。
《亀田》まったくその通りでございます。
20年間、私が怠慢をしていたために、新宿地区は、あまりはっきりしないところがあります。是非、やって欲しいなと思います。
《長田》峯岸さん、まだ脳裏の中に残っているところで、天神町にある、もうちょっと先のところが、その辺の記憶にある水車の話しをしていただけますか。
《峯岸》わかりました。
梅田あたりでも、沢や寺院がございました。そこから下に下ってきて、西方寺側も2つ水車あった。金沢にもひとつ水車があった。今日、金沢のお嬢さんがいらっしゃっておりますが、大きな水車がそこでも廻っていた。
天神町にもずっとあった。天神様のあたりにあったのをよく覚えています。
《長田》亀田さん、補足していただけますか。
《亀田》それは、「桐生史苑」の27号に田中幸太郎さんが、「桐生天神町梅田一丁目の水車」というので、正確に調査されておりまして、図面もできております。今おっしゃったように、西方寺側には2つあって、金沢にはかなりの数がある。
《峯岸》だから、私の記憶よりよくできていると思います。ただ、桐生川上流ということでは、比べて若干少ないように思います。
《亀田》桐生川の沿線には、どの位あったんですか。
《峯岸》そうですね、30箇所位あった。一番大きなのは、水力発電として使っていた。昔は、車があるので堰を止めていた。そうすると、水がたまるので魚がたくさんいたんです。今は、堰がなくなってしまったので、魚が住めない。
そういうことで、桐生川沿線には残っているものがあると思うんですが。
《長田》天神町から梅田にかけてのお話でしたが、「桐生史苑」の中には、水車についてお書きになったところがあると思うのですが。
我々、水車について考えた時には、お米にするのに使う水車というのが一番多かったと思います。桐生では、米搗きにも使ったと思うのですが、撚糸や糸繰りに使う水車の他に、時には織物にも使ったと聞いたのですが。



▲小池久雄氏
 

▲沢山の水車資料に囲まれて熱心に聴く聴衆。
 
 

▲資料を前に話す武藤氏、河原井氏


《亀田》織物の仕上げです。たとえば、米搗きをしますよね、搗き棒を小さくして力を弱くしてそれで搗くことによって、絹の艶出しに使ったんです。それはちゃんとデータがございます。明治45年、赤岩用水水利組合に、決算表がございます。
これをみますと、赤岩用水を使用した八丁は、片撚り用の水車が10745本あるんですよね。両錘のものは、たった1200しかないんです。こういうもの(参考館にある撚糸機)が水車で廻っていたと思ったら、大間違いなんです。片側の普通の撚りのものに使っていた。昭和とか大正の終わりになると、八丁撚糸機[はっちょうねんしき]にも使ったんだと思うのですが。データで、証明されています。ここにあるような撚糸機が、明治時代に廻っていたのではないんです。
《長田》片撚りの糸は、お召しに使った糸ではないですよね。
《亀田》お召しには使わない。普通の織物です。ですから、明治36年の資料をみればわかりますが、両錘の縮緬のものは、多くは人力でやったと書いてあります。データでも証明されています。なんでもないようなことですが、意外と重要なんです。これ(展示されている八丁撚糸機[はっちょうねんしき])を水車につけたのではない。
これ(展示されている八丁撚糸機[はっちょうねんしき])は手直しというか、工賃が高くつくんですよね。糸が高いですから。ところが、片錘は、工賃が安いんだそうです。ですから、水車を使わないと合わないだそうです。それは、聞いております。
《長田》塩崎さんに今、出していただいているそれは?
《塩崎》これは、森秀さんの八丁撚糸の写真です。昭和20年代だと思います、武藤圭介さんがお撮りになったものです。実際に、八丁撚糸機[はっちょうねんしき]が動いております。
《亀田》それは、ここにあるのと同じですから強撚糸ができるわけです。桐生に現存しているのは、ほとんど縮緬用の八丁撚糸機[はっちょうねんしき]です。片錘のは、残っていないと思います。
《長田》亀田さん、片錘のを復元する場合は、片錘のを動かすには、水車を使って動かせるようなものですか。
《亀田》復元するとなったら、上げ下げ水車は片側だけの八丁になる。それが正しいことです。
《長田》いきなり作るわけではありませんが、今でも水路は残っていますよね。赤岩用水の水路は確かにまだ残っております。商工会議所のところに水路が残っていまして。水路を使って、水車を廻してみるという形は考えられるでしょうか。
《亀田》それは、写真にありますように、両側にずらっと水車が並べてあるようなところを見せれば、きっと驚くと思います。素晴らしい、生きた博物館だと思います。それは、到底できませんから、水路でやっても良いし、博物館でやっても良いし。でも、私は実物を復元する値打ちはある。今だったらそれはできるということです。
《長田》今、お話がありましたように、同じでもちょっと違うんだよというお話でした。
で、森秀さんのところは、お召しを作っているところです。桐生に住んでいるのですが、意外と織物が入ってこない。たしかに織物はあるんですが、よく分からないというのが正直なところです。今お話にありましたように、お召しに使う糸と普通の縮緬に使う糸について。
《亀田》ちょっと違うんです。お召しというのは、縮緬の一種です。正確に言えば、お召し縮緬ということです。普通の縮緬では、普通の片撚りの織物の糸を利用します。
《長田》もう少し詳しくお願いします。
《亀田》ですから、穂高町にいきますと、実際に水車で片撚り車でやっております。(資料をとりだして)これが片撚り車。これを水車につけたと私は言いたいわけです。
《長田》この真ん中のは何ですか?
《亀田》この真ん中は、明治10年に、第1回の内国産業博覧会が東京の上野であったのですが、そのときに出品した神奈川県の佐藤七右衛門という人の実物の模型なのです。



▲シンポジウムは織物参考館の中で開催された。


《長田》ありがとうございました。小池さん、お召しについて、先ほど少しお話がありましたが、縮緬という織物は、一般に「後染め」だと聞きます。お召しは「先染[さきぞめ]」だといいます。そこで、撚りのかかった糸なのに、縮緬とお召し、「後染」と「先染」の違いは簡単にいうとどういうことなのでしょうか。縮緬とお召しの違いについてです。
《小池》桐生の場合、ジャカードがあります。それには、先に糸を染めて撚るということがあります。先に染めて、後で撚糸をつくる「先染」。先に撚糸をつくって織り上げてから染める「後染」というのがあるわけです。それは、撚糸のありなしに関わらず、「先染」「後染」というのがあります。
《長田》撚糸の「先染」と「後染」というのは、一般的には?
《小池》一般的には、先に染めて。縮緬であろうと撚りなしであろうと・・・
《長田》そうすると、お召しというのは、最終的にシボが出てくる。他の地方にもシボが出てくるものがあると思いますが、桐生の特色は、どんなところでしょうか。
お召しを作った時の流れが、今でも当てはめられて、残っていてという考え方はちがいますか。「流れ」という面ではどうですか。
《小池》「先染め」とか「後染め」とかは全国的にあるわけです。ただ、一般的に、「桐生の織物の特色は?」と聞かれると、先染めのジャカード織物。ジャカードというのは、紋織物。それが、桐生産の代表的な、特徴のある織物だと思います。先染めの織物は、たくさんの種類があります。例えば、結城なら結城紬とか決まったひとつのものにできますが、桐生はそうしたものがありません。お召しは、代表的な織物だが、お召しの産地というわけでもない。そういうところで、ジャカード織物が特色なんです。
《長田》そうすると、シボの話しは全然関係ない。



▲森秀織物で廻る八丁撚糸機・揚撚り工程の写真(撮影・武藤圭介氏)


《小池》そうです。それから、特色と少し話がずれますが、桐生は輸出の織物を非常に早く作ったことがいえます。代表的なのは、羽二重。これも輸出羽二重を作った。日常の幅広の羽二重を作ったと思います。
《亀田》最近、この織物が明治何年にできたか、はっきりいたしました。明治の終わりの方ですか。
《小池》はい。輸出羽二重というのは、小野里吉佐衛門という人が、川内の桑佐さんの家でおやりになった。それで始まったといいます。他にも説があります。そういうわけで、輸出用羽二重が、明治14年にアメリカから注文があって、それから羽二重の生産がはじまった。明治24年には、生産高がその当時の金額で100万円以上になった。それで、北陸の産地が、桐生で羽二重をやって大変売れ行きがよい、なんとか北陸でも羽二重を織りたいという依頼が森山芳平さんのところにありました。森山さんは、桐生だけではなく他の地域の子弟も集めて技術指導をしていらっしゃった方です。
《小池》そんなわけで、羽二重の輸出が広まった。桐生で一番盛んだった頃は、明治29年の頃で、輸出羽二重の全国生産高の41%を占めていた。北陸でたくさんつくるようになったのですが、それでも明治29年頃には全国生産の41%。明治37年のピークには、全国で3754万円の輸出があった。桐生が生んだ羽二重が貢献したといえます。残念ながら、桐生はだんだん羽二重の生産が落ちてきているのですが。この羽二重は、湿度に大変関係がある。緯糸を濡らしておく。桐生は、冬場は乾燥するので、条件的には不利なんです。それと、北陸の場合は大規模経営で、桐生の場合は比較的小さい。同じようなものをやっていたら勝てない。そういうわけで、残念ながら羽二重が死に絶えてしまった。
しかし、その後も輸出の織物は、桐生の産地を支えてきました。昭和4年に桐生織物協同組合の組長が「外国課」というのを作ったのです。そして、ジャワ島とインドに駐在員をおいた。昭和4年にこれだけのことをやられてたんです。世界中を相手にしていたのです。
そんなことで、産地の大きな柱であったということです。
《長田》絹の糸をつかっているわけですよね。大正時代からレーヨンが入ってくるようになって、それからちょっと変わっていったという話を聞いたことがあるのですが。
《小池》桐生がレーヨンを取りいれるのが一番早かったんじゃないですかね。桐生産地は大変うまくレーヨンを使っています。
《長田》駅の南口に日本絹撚のすごく大きな工場がありましたが、あそこはレーヨンと関係あるのですか。
《小池》あそこは、絹です。
《亀田》この両錘の縮緬用の八丁が残ったということは、水車で廻したのは片側のものだとお話しましたが、これはやがて衰退してしまいます。なぜかというと、外国製の撚糸機が入ってくるわけです。ところが、撚糸用のこの八丁だけは、外国の撚糸機では置きかえられない。独特の強い撚りができるからです。ですから、現在までずっと残ったわけです。
それから、余分なことですが、2〜3日前に私のところに来たのですが。東京の方が、ラオスのある村で織物を生産している所をみて、ラオスに日本の古い八丁を持っていって、織物をやればすばらしいものができるのではないかと、私のところに古い撚糸機はないかと聞いてきたんです。この方は、八王子で古い片錘の八丁を探したようです。それをラオスに持っていくのだそうです。古い片錘の八丁を現在のラオスで活かそうとした、こんなことをやっている人もいるんです。私は、大変おもしろい発想だと思っています。
《長田》ありがとうございました。峯岸さん、「水車の廻る風景を求めて」ということで、平成2年度に発刊された「あすへの遺産」が最初に鍵になっております。横山さんが、「この文集を読んだ人達が、この中から語り草の種をひとつひとつ蒔いてくださるならば、この伝承は、より広くより深く、そしてより永く伝えられていくことを信じて疑いはない。」と書いておられます。今回のイベントは、語り草の本当にひとつの種ですが、水車の話から織物までどんどん広がっていて、桐生の歴史のひとつの舞台を振り返られるような種をまいていただいた。当時の老人クラブ連合会の皆様には感謝します。発刊から10年経って新しい時代に入っています。また新しく老人クラブの会員になられた方にも、また文集を出していただければ、また新しいものが出てくると思います。その辺はどうでしょう?
《峯岸》先輩は、このような貴重なものを発刊し、色々な反応がございます。これからも老人会としては、役員とも相談をして、後世に残して未来を担う方々の糧になるような活動を、役員を通じてやっていけたらと思います。先輩の文献も見直して検討していきたいと思います。今日はありがとうございました。
《長田》長い時間、ありがとうございました。会場に、いくつかの写真、その他、水車の廻る風景がございます。ちょっと早いのですが、休憩に入らせていただきまして、会場にある資料をみなさんに見ていただきたいと思います。よろしくお願いします。
《川村》パネルディスカッションを終わりにします。パネラーの方、大変ありがとうございます。大きな拍手をお願いします。



▲会場には撚糸機をはじめ、あらゆる織物の機械が展示されている。
 

▲展示を見ながらワイワイと話す参加者。会話の中から新たな発見が生まれる。
 

▲特種技術で転写されたカラー写真。
技術提供:(株)コスモ