《小池》 | そうです。それから、特色と少し話がずれますが、桐生は輸出の織物を非常に早く作ったことがいえます。代表的なのは、羽二重。これも輸出羽二重を作った。日常の幅広の羽二重を作ったと思います。 |
《亀田》 | 最近、この織物が明治何年にできたか、はっきりいたしました。明治の終わりの方ですか。 |
《小池》 | はい。輸出羽二重というのは、小野里吉佐衛門という人が、川内の桑佐さんの家でおやりになった。それで始まったといいます。他にも説があります。そういうわけで、輸出用羽二重が、明治14年にアメリカから注文があって、それから羽二重の生産がはじまった。明治24年には、生産高がその当時の金額で100万円以上になった。それで、北陸の産地が、桐生で羽二重をやって大変売れ行きがよい、なんとか北陸でも羽二重を織りたいという依頼が森山芳平さんのところにありました。森山さんは、桐生だけではなく他の地域の子弟も集めて技術指導をしていらっしゃった方です。 |
《小池》 | そんなわけで、羽二重の輸出が広まった。桐生で一番盛んだった頃は、明治29年の頃で、輸出羽二重の全国生産高の41%を占めていた。北陸でたくさんつくるようになったのですが、それでも明治29年頃には全国生産の41%。明治37年のピークには、全国で3754万円の輸出があった。桐生が生んだ羽二重が貢献したといえます。残念ながら、桐生はだんだん羽二重の生産が落ちてきているのですが。この羽二重は、湿度に大変関係がある。緯糸を濡らしておく。桐生は、冬場は乾燥するので、条件的には不利なんです。それと、北陸の場合は大規模経営で、桐生の場合は比較的小さい。同じようなものをやっていたら勝てない。そういうわけで、残念ながら羽二重が死に絶えてしまった。 しかし、その後も輸出の織物は、桐生の産地を支えてきました。昭和4年に桐生織物協同組合の組長が「外国課」というのを作ったのです。そして、ジャワ島とインドに駐在員をおいた。昭和4年にこれだけのことをやられてたんです。世界中を相手にしていたのです。 そんなことで、産地の大きな柱であったということです。 |
《長田》 | 絹の糸をつかっているわけですよね。大正時代からレーヨンが入ってくるようになって、それからちょっと変わっていったという話を聞いたことがあるのですが。 |
《小池》 | 桐生がレーヨンを取りいれるのが一番早かったんじゃないですかね。桐生産地は大変うまくレーヨンを使っています。 |
《長田》 | 駅の南口に日本絹撚のすごく大きな工場がありましたが、あそこはレーヨンと関係あるのですか。 |
《小池》 | あそこは、絹です。 |
《亀田》 | この両錘の縮緬用の八丁が残ったということは、水車で廻したのは片側のものだとお話しましたが、これはやがて衰退してしまいます。なぜかというと、外国製の撚糸機が入ってくるわけです。ところが、撚糸用のこの八丁だけは、外国の撚糸機では置きかえられない。独特の強い撚りができるからです。ですから、現在までずっと残ったわけです。 それから、余分なことですが、2〜3日前に私のところに来たのですが。東京の方が、ラオスのある村で織物を生産している所をみて、ラオスに日本の古い八丁を持っていって、織物をやればすばらしいものができるのではないかと、私のところに古い撚糸機はないかと聞いてきたんです。この方は、八王子で古い片錘の八丁を探したようです。それをラオスに持っていくのだそうです。古い片錘の八丁を現在のラオスで活かそうとした、こんなことをやっている人もいるんです。私は、大変おもしろい発想だと思っています。 |
《長田》 | ありがとうございました。峯岸さん、「水車の廻る風景を求めて」ということで、平成2年度に発刊された「あすへの遺産」が最初に鍵になっております。横山さんが、「この文集を読んだ人達が、この中から語り草の種をひとつひとつ蒔いてくださるならば、この伝承は、より広くより深く、そしてより永く伝えられていくことを信じて疑いはない。」と書いておられます。今回のイベントは、語り草の本当にひとつの種ですが、水車の話から織物までどんどん広がっていて、桐生の歴史のひとつの舞台を振り返られるような種をまいていただいた。当時の老人クラブ連合会の皆様には感謝します。発刊から10年経って新しい時代に入っています。また新しく老人クラブの会員になられた方にも、また文集を出していただければ、また新しいものが出てくると思います。その辺はどうでしょう? |
《峯岸》 | 先輩は、このような貴重なものを発刊し、色々な反応がございます。これからも老人会としては、役員とも相談をして、後世に残して未来を担う方々の糧になるような活動を、役員を通じてやっていけたらと思います。先輩の文献も見直して検討していきたいと思います。今日はありがとうございました。 |
《長田》 | 長い時間、ありがとうございました。会場に、いくつかの写真、その他、水車の廻る風景がございます。ちょっと早いのですが、休憩に入らせていただきまして、会場にある資料をみなさんに見ていただきたいと思います。よろしくお願いします。 |
《川村》 | パネルディスカッションを終わりにします。パネラーの方、大変ありがとうございます。大きな拍手をお願いします。 |