日時: 平成13年10月13日(土)午後1:00〜4:00
場所: 織物参考館「紫」
参加者: 【パネリスト】
     桐生市老人クラブ連合会会長 峯岸康治
共立織物会長 小池久雄
桐生文化史談会副会長 亀田光三
  【コーディネーター】
    桐生インターネット協議会副会長 長田克比古
  【水車フリートーク発言者】
    桐生織塾主宰 武藤和夫
主婦 仲矢トク子
元藤井撚糸工場社長 藤井義雄
元山澤撚糸工場社長 山澤一元
知村撚糸工場社長 知村純雄
金井自動車部品社長 森村秀生
桐生タイムス記者 高橋洋成
産業考古学会員 小坂克信
  【アートディレクター】
    NPO法人桐生地域情報ネットワーク事務局 大里政由
  【事務スタッフ】
    NPO法人桐生地域情報ネットワーク理事 木村光一
NPO法人桐生地域情報ネットワーク理事 森島愛一郎
NPO法人桐生地域情報ネットワーク事務局 小林隆子
NPO法人桐生地域情報ネットワーク事務局 吉田薫
NPO法人桐生地域情報ネットワーク事務局 高沢朋子
NPO法人桐生地域情報ネットワーク事務局 増田久香
NPO法人桐生地域情報ネットワーク事務局 荻原由加
NPO法人桐生地域情報ネットワーク事務局 林幸雄
群馬大学工学部情報工学科 林康平
白鴎大学法学部法律学科 小島可奈子
群馬大学大学院社会情報学研究科 森美有紀
群馬大学教育学部 辻繭子



《長田》 (来場の方に伺ったアンケートの)資料を見ながら、お話を聞いていきたいと思います。最初ですが、仲矢トク子さんは水車に関する詩を昭和56年に作られたそうですね。
《仲矢》 (仲矢さん、自作の詩の朗読。)
 
春の水車
(一) はるかに遠い遠いの幼き頃の想い出は
母さんのやさしい子守唄耳をすませば今もなお
聞こえてきますお母さん
(二) コトコト水車の廻る音母さん米搗き鞍に乗せ
父さん配達いそがしい三峯号の働きも
忘れてならない手柄です
(三) トンコトンコとかろやかに絹の篩いは行ったり来たり
右に左手にかえながら一番粉のできあがり
私もほんのり粉化粧
(四) うの花咲く頃春蚕に寝間も追われて縁に寝た
ふくろう淋しく鳴く頃はやさしい小柄なお父さん
遠くかすかに浮かびます
(五) さらさら小川のせせらぎよ可愛い小さなハヤメッコ
浅瀬にすいすい泳いでるささ舟浮かべたあの頃の
きれいな流れゆれてます
(六) 竹の子でる頃はや起きの八百とめさんに起こされて
たびたび伊予かん夏みかんもらった頃がなつかしい
今は亡き人幾人(タリ)か
  昭和56年作:仲矢トク子
《長田》当時の光景が目に浮かびますね、貴重な資料、有難うございます。えっと、続いて「撚糸業者組合規約並賃金表」の資料提供者、知村純雄さん、お願いします。これは何年頃の資料でしょうか?それから、現在も撚糸工場をやられていますか?
《知村》おじいさんの代のものなので分からりません。現在は開店休業ですね、廃業はしていません。
《長田》えっと、三吉町にお住まいですね。新宿から境野にかけては、かつて赤岩用水があったところですが、新宿通りというのは幾つかあって、本当の新宿通りは最勝寺からまっすぐ行った通りと聞いているが、ご存知ですか?
《知村》旧新宿通りは、おっしゃるとおり、最勝寺から東に延びる通りです。あの頃、両毛整織には水車があったと思います。
《長田》両毛整織は、南小学校よりもうちょっと南ですか?幼稚園か何かありましたか?それから、当時は撚糸屋さんがたくさん並んでいたと思うんですが、、
《知村》ありました、あの辺には、沢山あったと思います。特に撚屋[よりや]さんが多くありましてね。両毛整織は南小学校よりちょっと南だと思います。



▲自作の水車の歌を披露する中矢トクさん。
 

▲貸金表について話す知村純雄さん。

《長田》貴重な資料をありがとうございました。さて、撚糸に関連しますが、藤井さんが先ほど資料をお持ちになり、実際に八丁撚糸機[はっちょうねんしき]を使って、お召し用の生糸の撚りをされていたお話を伺いたい。
それから、「下撚り」と「揚撚り」というのがあるようですが、その辺のお話をお願いします。
《藤井》桐生のお召しは「下撚り」と「揚撚り」があります。「下撚り」というのは一番はじめに、お蚕からとれる生糸を織物に合うように太さを21中4本とか、24中3本とか、生糸を3,4本を束ねて、撚ります。そのときに「右撚り」と「左撚り」を作っておく。知村さんがやっているのが「下撚り」ですね、一番はじめに撚るもので、撚りは甘いんです。
《知村》そうですね、うちでやっていた下撚りは大体1mに250回位でしたね。
《藤井》そして撚りあがった糸を、「右撚り」と「左撚り」を作って今度はそれを、お召しの場合は練って生糸の膠質、セリシンともいいますが、これを取り除きます。それから、染色と、張り屋さんといって、そこで糊付けます。緯糸には更に撚りを加えます。できた糸に「揚撚り」といって、1mに2500回位の撚りをかける。その位の強撚糸にすると、糸が縮もうとするが、糸はすでにのりがついて縮みません。それを濡らしながら撚るわけで、撚りあがったのを乾かし、クダに巻いて揉みます。
それから、機屋[はたや]さんに納めたりするのに、ボビンに巻いて持ってきます。昔は、私の父あたりは、右と左を組ませて枠ごと納めていました。その撚糸の長さですが、八丁撚糸機[はっちょうねんしき]には「時計」という回転計があってそれで計測します。八丁の「時計」は江戸時代に桐生の笠原と言いう方が発明したものだそうです。
亀田先生が両錘の強撚は水車では撚らない云々といっていたが、私は大正11年の生まれですが、子供の頃は両錘の八丁撚糸機[はっちょうねんしき]が私の家では水車で動いていました。この目で見ていますので、確かです。
先ほど知村純雄さんが話していた用水のことですが、郷土歴史家の清水先生のお話によると、今の赤岩用水は「人喰い川」といわれていまして、現在はちょろちょろですが、昔は相当の勢いで流れていました。私の父も、写真のような上げ下げ式の水車で、八丁を何台か廻していました。撚り上がった機械を止めて、負荷が減りますと、回転数が上がってしまって調節が難しかったですね。そういうときは、水車を上げて水のかかり具合を調節するんですよね。
もうひとつは、川幅が広ければ、ど箱式といって、川の半分に箱型の小さい枠で流れを集めて、そこに水車を固定して廻します。水門の開閉は板でやっていましたね。
《長田》水車のあった水路を見ていると、石垣があったような形になっていますが、場所によっては水路に手を加えたりしましたか?
《藤井》水車を設置するには、川の横の地主さん、水車の上の地主さん、そういった人の許可をもらわないと水車が立てられないんですね。
赤岩用水は、農業用水ですから、組合が管理していました。私が知っているのは水田さんという人が組合長でしたね。水面使用権といって、毎年税金がかかっていました。
《長田》藤井さんは、群馬県繊維工業試験場にある八丁撚糸機[はっちょうねんしき]を使える状態に復元されたそうですが・・・
《藤井》一昨年の2月に、桐生織物の伝統工芸士会長の新井実さんから、桐生お召しは八丁撚糸で撚らないと認められない、というお話をいただきました。相生にある繊維工業試験場から連絡があり、保存してあった八丁撚糸機[はっちょうねんしき]の部品と、不足分を私のところからもっていって、2階の展示室に設置しました。



▲八丁撚市機を前に、撚糸の事をはなす藤井さん
 

▲織物参考館の八丁撚市機、桐生で稼動する唯一の機械である。

《長田》もう一つ、藤井さんは新宿地域の水車の地図をお作りになったと聞きましたが・・・
《藤井》桐生タイムスにも載っていますが、平成9年の8月7日号、南公民館で南地区の小学生5〜6年生を対象にした夏休みの学習で水車の地図を作りました。新宿には織物関係の業者が随分いたので、高齢者が教える形で地図を作りました。これが、桐生の昭和12年の地図のコピーです。一軒ずつ資料や記憶をもとに、書き込んでゆきました。住民や会社の名前は別の資料から拾い出しました。
《亀田》何軒位あったのですか?
《藤井》200軒位ですかね。抜けている人もありますが、かなり正確だと思います。
昭和13年に桐生撚糸賃業組合という会ができまして。八丁撚糸で使う釣瓶が綿糸統制配給品になり、釣瓶が傷んでしまうと機械が動かない、そのために組合を作って、県から特別に切符を頂いて購入しました。切符は簡単に発行されないので、県で実数を把握するために、組合を作ったようです。これは昭和14年の会員名簿。これは16年。これは昭和13年に組合で各個人が毎月申請書を出すが、その控えが昭和13年度11月分として綴じてあります。これは桐生全部の撚糸組合の資料です。
群馬県知事、土屋正三さん、今泉町高橋さんなどなど、全部判が押してあります。八丁撚糸機[はっちょうねんしき]-二台。月の生産が人絹で17カク、金額で36円。目方が1匁60、こつるべ・細い方、90匁云々とですね、これが全部綴じてあります。
《亀田》知村さんのお宅へは昔ちょっとお伺いしたような記憶がありますが、私が先ほど説明したものとは、年月が違いますね。私のは、大正の中期ころのデータ、水車が片側で廻したというのは、明治41年のデータと大正8年頃のデータです。わたしは、明治とか大正の中頃の話で、藤井さんのは昭和13年の話で食い違うのは当然ですね。
《亀田》境野でやった調査は、どこが中心でやられましたか?それから、結果として何軒ありましたか?
《藤井》南公民館で小学校の生徒学習のため、南区(4区、5区)で盛んだった織物に焦点をあて、大正時代以後の織物関係19業種と水車の位置と水車位置を、大正13年地図上に示す資料調査の仕事です。昭和13年当時の桐生撚糸賃業組合の名簿を元に全部遡って当たってみました。私が調べたのは、撚糸賃業組合ができた当時の組合員ですね、もちろん大正以後のことで資料など、無い工場もありましたので、住所の番地を元にして調査しました。「何番地のだいたいこの付近で、水車が掛かっていたのを覚えていますか?」と古くからいる人に聞いて、確認してこの地図を作ったのです。
《長田》境野で調べたのは、昭和54年から55年にかけてですか?
《亀田》そうです。今できないとすれば、もう調べようがないですね。境野では老人会の人たちが手分けして調べました。数字的には明治40年で104機でしたが、新宿村は200何台ありました。ところが、私が入れてもらったのはそんなにはない。知村さんが調べたものは昭和13年以降の撚糸賃業組合ができてからなので、そんなにはないと思います。
《長田》境野でやったような調査は、現在はなかなか難しいですが、ある程度のことはできると思います。藤井さんのご意見はどうですか?
《藤井》それは、いちいち一軒一軒あたるとか、この付近にいたという見当がついたら付近の人に聞くとか、やり方としては難しいが正確だと思います。まあ、落ちは随分あると思うんですが・・・
《亀田》昭和13年あたりでは、28軒位しか出ていないですね。
さかのぼっても調べられませんからね。明治・大正の頃は240軒位あったのかなぁ。



▲新宿の水車地図の苦労話をする藤井さん。
 

▲天井に渡してある動力用シャフト、ひとつの水車で3,4台の八丁撚市機や、糸繰り機を動かしていた。(写真はモーターで駆動)

《長田》繊維試験場の話で、八丁の復元作業が動き始めたということですが・・・
《藤井》群馬県繊維工業試験場から一昨年12月に話があり、群馬県繊維工業試験場の町田場長さんと、繊維技術部研究課長の玉村さんに会いまして八丁撚糸機[はっちょうねんしき]修復のことを聞きました。倉庫にある八丁撚糸機[はっちょうねんしき]を出してみましたが、だいぶ傷んでいました。それから、管巻き機というのがありなすが、これも日曜大工式に直し、動くようにしました。
元来絹糸を撚る場合必ず水を使うので、染めあがって糊付けされた糸を管巻きなどは、びしょびしょに濡らして巻くために、枷は全部竹製でした。現在では無いので、桐生の竹屋さんにお願いして作ってもらいました。糸繰り機の機械が、枠に繰る糸繰りの機械など現在はプラスチック製なので、うちにあった糸繰り機を繊維試験場に持っていって、直して据え付けてあります。
昔はこのお召し枠のまま機屋[はたや]さん納めたのですが、現在はほとんど「運搬ボビン」を使っています。私のうちにあって持っていった糸繰り機は、30年も使っていないから、いたんでいたところは、全部取り替えました。昔でしたらひとつのモーターから天井に取り付けたシャフトからベルトでもって八丁撚糸機[はっちょうねんしき]を動かしていました。その昔はモーターが水車だったわけですね。
《藤井》繊維工業試験場にはこういうものは一切なかったので、直接モーターをつけて運転しました。実際、糸をかける段階では、繊維試験場の玉村さんが承知しているので、展示も可能だと思います。私は一応それでひとまず終わりました。
次に、糸をかけるために私が知っている限りの話をして来ましたが、私も年を取っているので、実際に糸をかけるとき、忘れている所もあると思うので、協力者として揚撚りの仲間で山澤一元さんを紹介しました。
撚りのほうはなんとか行くと自信はありますが、今は糊を付ける「張り屋さん」というが無いのですね。山中さんという人が芳町にいらしたのですが、廃業しています。田中糸張り工場も2年前に廃業してしまった。知る限りでは、張り屋が桐生には無いのですね。
《藤井》平成12年3月、本町2丁目の大風呂敷で「幻の織物」という桐生お召しの展覧会がありました。それに出品したのは東5丁目の霜善織物さんですので、張り屋さんのことも聞けばわかると思います。私は面識がないので、繊維工業試験場の方にお願いしたのですが、その後、連絡がないです。それから先のことは分からない。それが去年の4月あたりですね。
《長田》その張り屋さんの所が分かれば先に進むそうですね。しかし、糸を一つ作るのは難しいんですね。それから、藤井さんが他になにか資料をお持ちとお聞きしましたが・・・
《藤井》撚糸に関連する新聞ですが、とってあるので参考になればと思って持ってきました。昭和15年の新聞です。撚糸賃業組合を作るために色々苦労話があって、それが載っているもんですから、保存してありました。
《長田》昭和15年というのは非常におもしろい年ですね。私が見つけた地図は昭和13年のものだったのですが、その頃は水路が入っているし、色々話を聞いた時に、昔ここに郵便局があった、桐生機械はこっちにあったよと、地図を見ながら当時を追っていくことができる、面白い時代だと思います。亀田さんのように、明治・大正のところまで追うという仕事もありますが、明治までいくのは少し難しそうですね。ええと、では次に、資料の「水車営業免許鑑札」ですが、高橋さんお願いします。



▲左から塩崎委員、大川美術館館長、小池久雄氏
 

▲昭和13年の地図に水車の情報を書き込むスタッフと訪問者。
 

《高橋》桐生タイムスの高橋です。今日の水車のシンポジウムのために、色々取材を行ったが、新宿3丁目の河原井源次さんから資料提供がありました。「水車営業免許鑑札」というのがそれです。明治9年7月1日、栃木県庁と書いてあります。当時新里も栃木県だったのですね。表書きには、「上野国山田郡新里村字中宿水車営業免許鑑札第二千九百八十八号同村暮田三千造」という名前があります。
暮田三千造さんのひ孫にあたりますが、暮田貞一郎さんは、現在71歳、今年1月まで桐生ガスの運転手をなさっていた方です。電話で話しを聞きましたが、曽祖父にあたる三千造さんは、幕末から明治にかけて新宿一丁目の今の新宿医院や桑原モータースのあたりの大きな敷地で織物をされていたそうです。三千造さんの子供は、町会議員で地元の名士だったそうです。
貞一郎さんのご記憶では、当時は新宿医院のあたりの工場では敷地の中に水路があったようで、その中で糸繰り用に水車が動いていた。第二次世界大戦当時、燃料にするため壊して燃やしてしまったと聞きました。
戦前の記憶だと思うのですが、新宿通りには20台位、水車が列になって隙間が無い位並んでいた記憶があったそうです。戦争が始まって、だんだん水車が無くなっていった。暮田貞一郎さんのお話だと、織機を動かすために水車は使わなかった、そんなに大きな動力は出ず、糸繰りが主だったそうです。河原井さんは、この水車の免許を昭和30年代に、今の新宿の崎田医院のあたりにあった、斉藤という骨董屋さんで何かと一緒に買ったということ。免許は非常に保存状態は良いですね。
《長田》有難うございました。
《亀田》笠原吉郎といいまして、明治10年の内国博覧会の時に水車の出展をしてます。岩瀬吉兵衛が八丁を発明して、その孫の笠原吉郎が回転時計を発明するのですが、撚糸を巻き取る枠の回転数を測定して糸の長さを判断しています。これを発明したのは明治の少し前の江戸時代後期ですね。
《長田》有難うございました。
《藤井》私のうちを建て替えるので色々な書物を調べていったら、大正15年の2月22日付で、群馬県知事・牛塚虎太郎さんから動力設置の許可証が出てきました。動力を入れるにも知事の許可が必要だった。これは記録ですね。それまでは完全に水車でやっていたのですが、台数を増やしていくために水車では間に合わなくなってしまった。
《亀田》桐生の機屋[はたや]さんが動力になっているものは、明治の終わり位からですが、盛んになってくるのは大正7〜8年位からです。藤井さんのところは、大正の終わりに動力になったそうですが、桐生で動力織機が手機の半数を占めるのは、昭和2年頃ですね。



▲水車営業免許鑑札の説明をする高橋さん(河原井源次氏資料提供)

《長田》イーゼルに掛かっている資料で興味があるのは、桐生出身の田村梶子さんの資料。ええっと、確か森村さんの資料だと思います、お話をしてください。
《森村》資料を持ってこなかったので、詳しいことは良くわかりませんが、みなさんが話している時代よりずっと昔の、文化・文政の頃のことなので貴重な資料だと思います。今回の渡辺崋山展を手伝い、その中で幾つかを発見しました。(資料を渡しながら)お車というのが水車のことだと思います。渡辺崋山が桐生に来たとき水車が珍しいといっていますね。桐生の女性が非常に働き者であるということで、その女性達に会うことも楽しみや目的のひとつだった。桐生の女性のすばらしさを証明してます。きちっとそういった文献が残っているんですね。
《長田》大里先生のところで訳したものがあるのでは?
《大里》女文字は読みにくいので、勉強されている方に読んで頂いて確実な読みを進めています。
田村梶子は書で優れた人として有名であり、それも解読を進めています。今、渡辺崋山との関わりの話が出ましたが。田村梶子は田村久兵衛の娘で、「久兵衛の姉なるもの」と書かれています。その当時、岩本家に渡辺崋山の妹が嫁にきていましたので、そういう縁で崋山も何度か桐生に来て、そこで梶子とも話をしているようですね。
天保2年に初めて桐生に崋山が来たとき、親戚関係だったということで田村梶子の家を訪問している。年齢も同じ位(37〜38才)で田村梶子と話が合い、多くを話したようです。崋山が桐生に3度来ていますが、崋山ほどの人が、妹が嫁に行っているという理由だけで、桐生をしばしば訪れることはなかっただろうと思います。
崋山の桐生来訪の目的は、桐生にいた当時の優れた文人達との交流にもあったはずです。彼らは全て実業家であり、買継[かいつぎ]商や機屋[はたや]であり、成功した方が教養を高め、江戸の一流の学者と交流をしていた。そこに非常に心惹かれてやってきたのではないかと考えています。
実際に働いて事業に成功し、さらに学問にしっかりと時間を費した地方の人々と交流し、情報収集することが崋山にとって役に立っていた。私自身、先日の崋山展を見たり、仕事の関連で人物の業績を追うようなことをしたことから、そのように感じています。毛武遊記の中で、天保2年に最初に桐生に来た当時、桐生の有名な方12人の各家庭を訪問しております。おそらく崋山は、桐生は女性が素晴らしい活躍をしているということにも心惹かれてたのでしょうね。
《長田》ありがとうございました。続いて、織塾の武藤さんからお話を伺いましょうか、武藤さん、どうぞ・・・



▲田村梶子の話をする森村さん。
 

▲本町にあった長沢家の蔵にあった田村梶子の長歌、この中に当時の水車の記述がある。

《武藤》私が繊維工業試験場に勤めていた頃、八丁撚糸のことを研究していました。当時は、部品が全部揃っていたはずですが、だいぶ足らなかったり壊れたりということで、申しわけありませんでした。
特に私がやっていたのは、西陣のお召しと桐生のお召しの比較を行っていました。藤井さんにひとつ質問したいのですが、八丁撚糸機[はっちょうねんしき]で、双撚をしたことはありますか?本にはこれで撚ったと書いてあるのですが・・・
《藤井》モロっていうのは、右と左を合わせて撚ることですが、それは八丁撚糸ではないと思いますが・・・
双撚りの撚糸は、八丁式ではなく立錘でバンド式撚糸機を洋式の撚糸機が入るまで(大正後期)使用していました。組合の賃金資料は両方の撚糸機を設置している業者の為に書いてあると思います。
《武藤》モロだと片方の糸がたるむ関係で撚れないですよね、組合の資料には、賃金の値が書いてあるわけですが、それにモロとありますね。
《藤井》八丁撚糸機[はっちょうねんしき]では強撚つまりお召しの緯糸のほうをつくっていましたからね、説明した資料は強撚の方です。水車に関しての説明は、片撚りも入っている。
それから、長谷式の八丁撚糸機[はっちょうねんしき]もあったですね、だけど、釣瓶ではなくてベルトで廻している。このほうが、ばかがない、つまり適度な緩みがないので、撚り数の調節が難しいんです。先ほど先生からお話があった、桐生の八丁撚糸機[はっちょうねんしき]の撚りは、他の撚糸機では、絶対にできません。
《武藤》強撚糸が撚れたのは、水を使ったからですが、八丁と他の撚糸機の最大の違いは、湿式か乾式かというところですね。
《藤井》そうですね、でも八丁で人絹も撚りましたから、八丁が上ですよね。人絹の強撚の場合は、水に弱いから水は付けないで撚りました。水ではなくて、糊だけて留めるわけです。
《武藤》人絹が丈夫ならこのままで良いが、人絹は濡れていると弱くて、切れてしまってだめなんですね。そんなわけで、工夫して撚った糸にのりをつけて巻き取るようにしていましたね。
《山澤》撚った糸が戻らない、そのためにのりを使ったのですね。
《藤井》織ってからシボ取りといって、そこで初めてのりを落として縮ませるわけです。八丁撚糸機[はっちょうねんしき]は木製だから、人絹を撚るほうが多いと機械が痛まない。正絹でやると年中濡らすから、だからこれが腐るのですね。
《長田》ありがとうございました。話が専門的になってきましたが、ひとつ方向を変えて、三鷹市で水車歴史研究会に所属の、産業考古学会の小坂さんにお話を伺います。
《小坂》今日はほんとうに貴重なお話をありがとうございます。
三鷹市のほうには、平成10年に、東京都の有形民族文化財になりました「シングルマ」という水車がある。これは、米搗きをしていた水車で、こことは目的が異なり、非常に大きくて、4m66cm位あります。こちらの水車は、写真を見るとだいたい2m〜3mですね。米搗きの場合だと、歯車の作り方が難しくて、日本では、サシバとヨセバとケズリダシと3つの種類があります。先ほど写真を見たのですが、桐生の場合はケズリダシの歯車のようで、そういう面で様々な部品が集まれば他の地区との比較ができるのではないでしょうか。先ほどからお話を伺っている「上げ下げ水車」と「ど箱水車」は、おそらく全国的にもまれで、数が少ないのではと思います。お話にもありましたが、復元できれば、大変貴重な資料になると思います。ありがとうございました。



▲大正後期に双撚りの為に使われた立錘のバンド式撚糸機(藤井義雄氏提供)
 

▲八丁の前で説明する藤井さんと武藤さん。
 

▲三鷹市から参加された小坂氏、三鷹の水車との比較について説明してくれた。

《長田》ありがとうございました。1時から始めた水車シンポジウム、水車フリートークですが、実はここの会場は、光の電源がなく天然光です。4時過ぎると足場が悪くなるので、ここでまとめの話をしたいとおもいます。
水車の廻る風景を求めてここまで来ましたが、やはり桐生に残る様々な歴史・文化は、先達の方々の技術と知恵とがなければ絶対に残す方法がない、ということが分かってきました。
よく、高齢者の知恵を借りようというのがありますが、借りるのではなく、先達が中心になってやっていかなければ残らない。ある面では、お年寄りが今まで歩いてきた知恵と経験を残す義務があるのではないか。それを残すために今、スタッフで働いているような若い人たちがあらゆることで協力できるという、そういう形で様々なものを残していく第一歩になるのではと思います。
今回は水車で始めましたが、桐生は水車と糸と、これを結び付けることは非常に桐生らしいと思います。今、水車は復元できるというお話もあり、糸もおそらく、難しい問題もあるが復元できるでしょう。もしそうであるなら、実際に水車を廻して、糸を作り、布ということになると難しいかもしれないが、なんらかの形で物として残し、水車を廻し、収入になるような産業に結びついたもので残したいですね。
今日の水車イベントが、将来の桐生につながるひとつ手立てとなると思います。
最後のまとめとしパネラーの方々にお願いを致します。これをやれば残るのではないかといったようなことなど何かないでしょうか、亀田さん。
《亀田》現に長野県の穂高町では、水車を使った片撚り八丁で、山繭を撚っています。他にも、いわゆる座繰りによる糸繰りですが、前橋あたろりででもまだ行っている。これは、糸が節糸なので機械では紡げません。だから節糸を使う織物を作っている新潟県では、前橋の座繰り糸が必要なんですね。そういう風なこともあるから、何かそこに道がないかと思います。
《長田》座繰り糸と組んで、ということでしょうか?
《亀田》私もどう考えたらよいか、わからないが。
《長田》ある意味では、座繰りの糸は品質が良いので、ずっと座繰りの糸が前橋の市場に出ていた、という話を聞いたことがあります。座繰りだから、かけるのが難しいということはあったのでしょうか?
《亀田》いわゆる機械製品には節糸はかからない。そのため今でも座繰りを使っています。タイやラオスの八丁の話ではないが、ラオスはもともと八丁は使っていないけれども、八丁を使うことによって撚糸的技術がそこに加わることで、織物の品質を上げて行く、そういうことを狙っていますね。その辺になにかヒントがあるのではと思います。
《長田》ありがとうございます。閑居川にもひとつ、水車が廻っていますが、水車の廻るところまでは行けると思う。水車が廻っているだけでは、ただ廻っているだけの話でして、大間々の小平は水車を廻して蕎麦をついたり、米をついたりしている。桐生はやはり、糸と絡んだ形で水車を廻せば、そこまでのことをして初めて物として残すことができると思う。文献もあるし、写真もある、だけど実際の糸が出てこない。
今ならばできるのではないかと思います。心からの希望ですが、、そういったことができるよう、私たちも頑張っていきたいと思います。ということで、ぜひとも皆さんのお力を出して頂いて、桐生に残せるものを残していきたいと考えている。よろしくお願いします。今日はどうもありがとうございました。
《川村》時間も4時を過ぎました、終わりにしたいと思います。今のお話を含めて、懇親会を場を設定しています。情報のやりとり等含めてぜひ、ご参加いただきたい。
今日、手伝ってくれているのは、群馬大学の学生をはじめとして、若いメンバーがボランティアです。彼らが桐生の地に、大学生として来て桐生はなんて面白いのかと共感してくれたメンバーですので、是非そういった人たちに、こういった八丁撚糸をはじめとして織物の歴史があったということをぜひ伝えてもらえれば幸いと思います。本日は長い間、ありがとうございました。



▲先代の描いた上げ下げ水車を見ながら説明する、遠坂仲司さん。