《長田》 | もう一つ、藤井さんは新宿地域の水車の地図をお作りになったと聞きましたが・・・ |
《藤井》 | 桐生タイムスにも載っていますが、平成9年の8月7日号、南公民館で南地区の小学生5〜6年生を対象にした夏休みの学習で水車の地図を作りました。新宿には織物関係の業者が随分いたので、高齢者が教える形で地図を作りました。これが、桐生の昭和12年の地図のコピーです。一軒ずつ資料や記憶をもとに、書き込んでゆきました。住民や会社の名前は別の資料から拾い出しました。 |
《亀田》 | 何軒位あったのですか? |
《藤井》 | 200軒位ですかね。抜けている人もありますが、かなり正確だと思います。 昭和13年に桐生撚糸賃業組合という会ができまして。八丁撚糸で使う釣瓶が綿糸統制配給品になり、釣瓶が傷んでしまうと機械が動かない、そのために組合を作って、県から特別に切符を頂いて購入しました。切符は簡単に発行されないので、県で実数を把握するために、組合を作ったようです。これは昭和14年の会員名簿。これは16年。これは昭和13年に組合で各個人が毎月申請書を出すが、その控えが昭和13年度11月分として綴じてあります。これは桐生全部の撚糸組合の資料です。 群馬県知事、土屋正三さん、今泉町高橋さんなどなど、全部判が押してあります。八丁撚糸機[はっちょうねんしき]-二台。月の生産が人絹で17カク、金額で36円。目方が1匁60、こつるべ・細い方、90匁云々とですね、これが全部綴じてあります。 |
《亀田》 | 知村さんのお宅へは昔ちょっとお伺いしたような記憶がありますが、私が先ほど説明したものとは、年月が違いますね。私のは、大正の中期ころのデータ、水車が片側で廻したというのは、明治41年のデータと大正8年頃のデータです。わたしは、明治とか大正の中頃の話で、藤井さんのは昭和13年の話で食い違うのは当然ですね。 |
《亀田》 | 境野でやった調査は、どこが中心でやられましたか?それから、結果として何軒ありましたか? |
《藤井》 | 南公民館で小学校の生徒学習のため、南区(4区、5区)で盛んだった織物に焦点をあて、大正時代以後の織物関係19業種と水車の位置と水車位置を、大正13年地図上に示す資料調査の仕事です。昭和13年当時の桐生撚糸賃業組合の名簿を元に全部遡って当たってみました。私が調べたのは、撚糸賃業組合ができた当時の組合員ですね、もちろん大正以後のことで資料など、無い工場もありましたので、住所の番地を元にして調査しました。「何番地のだいたいこの付近で、水車が掛かっていたのを覚えていますか?」と古くからいる人に聞いて、確認してこの地図を作ったのです。 |
《長田》 | 境野で調べたのは、昭和54年から55年にかけてですか? |
《亀田》 | そうです。今できないとすれば、もう調べようがないですね。境野では老人会の人たちが手分けして調べました。数字的には明治40年で104機でしたが、新宿村は200何台ありました。ところが、私が入れてもらったのはそんなにはない。知村さんが調べたものは昭和13年以降の撚糸賃業組合ができてからなので、そんなにはないと思います。 |
《長田》 | 境野でやったような調査は、現在はなかなか難しいですが、ある程度のことはできると思います。藤井さんのご意見はどうですか? |
《藤井》 | それは、いちいち一軒一軒あたるとか、この付近にいたという見当がついたら付近の人に聞くとか、やり方としては難しいが正確だと思います。まあ、落ちは随分あると思うんですが・・・ |
《亀田》 | 昭和13年あたりでは、28軒位しか出ていないですね。 さかのぼっても調べられませんからね。明治・大正の頃は240軒位あったのかなぁ。 |