吉田邦雄
よしだくにお
大正9年4月15日生
82歳
吉田邦雄氏の過ごした古き良き桐生の思い出は、わが町のルーツを探る大きな記憶です。織物隆盛期を駆け抜けた吉田氏の『おもいつ記』は、天皇家の来桐に帰着する光に包まれたような思い出でもあります。この文章が、我々に大きな財産として、教訓として生かされる日がきっと近いのだと信じつつ、ご寄稿いただいた吉田氏に感謝いたします。


昔、小学校の地理の勉強で、関東地方の織物産地が桐生、足利、伊勢崎、秩父、八王子と習ったものでした。古くは白滝姫の物語りからの桐生は、さすがにトップの産地でした。西の西陣、東の桐生と言われましたが正にその通りです。先人達の偉業が偲ばれます。
桐生織物は、戦中戦後の荒廃した織物産業を復興し、戦後何十年にも渡り、桐生地域の経済を担っていたといっても、過言ではないでしょう。
桐生の文化、歴史、習慣等を見ても、織物に端を発した現象が、いまでも数多く残されており、最近ではこれ等の文化財や風習や鋸屋根の工場を生かして、ファッションなどへの利用等、文化遺産を残そうとする気運の台頭など、織物産業の縁としたいものです。
昔から織物は良質な水によって発達したといわれますが、桐生もその通りだと思います。
東に桐生川、西南に渡良瀬川、それを結んで市南部には良質な用水があり、これらの川や水路を活かして流域には、大小さまざまな染色工場がありました。またその周辺にはお召し機屋[はたや]や帯機屋[はたや]が群雄割拠し、いわゆる内地織物の生産の鎬を削ってきました。その成果が実って、西陣と並ぶ桐生織物として一世を風靡するに至ったわけです。また、大規模な輸出織物工場も、広巾織物を生産し、外貨獲得に大きく貢献しました。
内地織物と輸出織物がひとつになって、一大織物産地となり、繁栄を続けてきました。しかし社会生活の変遷、流行の急変等、人の力では制御しきれない世相に流され、特に桐生で製造される着尺、帯等は消費から遠ざかり、一大産地と自負してきた桐生織物も衰退の一途を辿り、現在ではごく一部の業者が細々と続けておりますが、本当にさびしい限りです。またいつの日にか、桐生織物の再興を願ってやみません。



▲昭和30年代・本町5丁目交差点付近、左から清水ガラス店、煉瓦造りの第一勧銀、七福レストラン、宮淵眼鏡店、山亀呉服店、が見える。人通りは極めて多く、町の勢いを感じる。
 

▲一流モデルを使い桐生お召しの宣伝をおこなっている。(昭和36年の織物協同組合パンフレットより)

お召しブーム全盛の頃上京した折には必ず一流デパートの呉服売り場へ行きました。どういうわけか当時はどのデパートも呉服売り場は三階と決まっておりまして、当社製のお召しも多数陳列してありました。何くわぬ顔で売場を観察しておりますと、お客さんと女店員が商品について、色々話をしております。大体お気に召したのが見つかったようで、色がいいとか、柄がどうだとか品定めをしている様子。当時でも1反7〜8万円位はしたと思いますが、散々見極めた上「これがいいわ」といって当社製のお召しを買い求めたときに見た、販売実績が上がる店員さんの喜びの顔、ご満足いただけた様子のお客さんの顔、少し離れた所で盗み見していた私も、自分達が手がけた商品がお客さんの手に渡ったと思い、いつになく顔がほころんだものです。
都内のデパートは当時、経済成長に乗りおくれないためにか、社員教育に熱心でした。呉服売場の女店員さんも、ご多分にもれず勉強会、産地見学といって、よく団体で当社にも見学にいらっしゃいました。完成した商品しか知らない人達は、工場へ入って各部の作業を見学して感心することしきり、「こんなに人手を経てきた商品だから店に帰って一生懸命に売りますわ」などとうれしいことをいう女性もあれば、さっと一巡、あとは中庭の石の上で記念写真をパチリなどチャッカリ組もありました。
反対に、こちらから出向いて社員教育のお手伝いをしたこともありました。お召し製造のスライド、8ミリ映画、材料見本等を持っていきました。呉服売場の奥に結構広い休憩室があり、そこで呉服売り場の課長さんから紹介の後、話にうつりました。
最初の頃は目の前に容姿端麗、美人を誇る女性がズラリ。この雰囲気に圧倒されました。身振り手振りも交え説明していくと、相手側も次第に乗ってきて、質問なども飛び出したことなどがありました。
たぶん上野松坂屋だったと思いますが、内地組合のお召し関係の研究会の席上、女優の三崎千恵子さんが講師でした。そのとき着ておられた着物が当社製のものでした。
陳列してあるお召しの評価をしながら今着ている着物に話が及び、「色、柄は自分好み、着崩れのしないしっかりした品物です」などとほめ上げてくださり、同席の皆さん、当社製の商品とは知るや知らずや、改めて見入ったことなどありました。



▲東京日本橋のお得意さまを招いて記念撮影、一流呉服店主ばかりである。
桐生に招き工場見学や宴で接待した。
 

▲勢い良く廻る八丁撚糸機(森秀織物)

今は亡き本町四丁目の旧家の奥様、当社お召しの大ファンで、戦前からのお得意さまでした。その方の存命中、ある時「会社の皆さん、一生懸命、お召しを作っていらっしゃるけど、昔の品と何かが違うのね」とおっしゃいました。私はそんなことはない筈です、すべて戦前のものに復活したことなど話すと、「ああそう、けれども着てみて、どこか何となく違うのよね」とおっしゃりました。
その一言が強く頭に残りました。実際着用されている方のご意見は尊いのです。後になって、もしやと思い当たる節がありました。一番大事な原料の生糸ですが、戦前は14中3本双という糸を経糸に使っていたのが、戦後は21中という糸しかないので、これを2本双に撚って使いました。
専門的に考えてみると、総合デニールでは両方とも42中、数字上の太さは同じですが、3本双の撚り合わせでは2本双とは違います、この差が撚った糸の周囲、外形、空間等がちがうため糸の柔軟性、気密性、撚度など要因が絹の風合い、柔軟性、着心地にまで関係があるかどうか、散々に考え、現場へも指示して色々研究もしました。原料の糸についてはどうにもならない、あとは生産工程の中で解決するしかないと、色々研究の末、やっとのことで奥様のご意見に近づいたことなども苦心の産物でした。ご冥福をお祈りします。



▲お召しの天日干し風景、最盛期には町のあちこちで見かけた風景。

高松宮宣仁親王殿下
  昭和34年8月18日高松宮宣仁親王殿下ご来社決定、行啓がきまったその年の初夏、社長と私で市役所へ出向き、正式にこの話を受けました。その後は私が奉迎の委員長として、当時、市の助役さんと一緒に警察へ行ったり、県庁へ行ったり、役所の日程を伺い社内の奉迎準備をしなくてはならず、工場内の改装や整備、当日の接待準備の予定等、一頃大忙しでした。行啓当日は、朝から夏の太陽の照りつける暑い日でした。社員一同、門内に整列してお待ちする中、県知事、市長さんらのお供でご到着、居並ぶ社員にも会釈を賜りながら応接室へ。ここでは社長がお召しの製造工程などについて種々ご説明申し上げました。ご少憩の後暑い中を工場へ、社長が先導申し上げ、私は宮様のすぐ後に随行しました。先程門内でお迎えした社員も全員各持ち場へ戻り作業を始めておりました。染色、撚糸とご見学の上、騒音著しい織場へ進まれた。このような中でも殿下は色々と質問されたり、手にとってご覧になったりと、熱心なご見学ぶりでした。
外では私服のお巡りさんが、暑い中警備に当たり、近所の人達は会社へ入って奉迎したりで、社内は大混雑でした。宮様がお出になるというので、沿道では大勢の市民が、歓迎をしていたそうですが、それは後になって知りました。
一連の日程を終え、宮様がお帰りになり、一同大役が済みホッと一息。「ああ!暑かった」と私。本日のために新調した洋服の上着が、ドッシリ重いと思ったら、背中に汗がたまっていました。
義宮正仁親王殿下
  高松宮様行啓の興奮冷めやらぬ8月27日、義宮正仁親王殿下が、ことによると明日お立ち寄りなるかもしれないとの内報が前日になってありました。急な話で社内でも大慌て、でもこのあいだ高松宮様をお迎えした直後なので、いくらかの余裕もありました。当日の奉迎も前へならえ、社員も落ち着いたものでした。
予定通り義宮様がご到着になり、門前には近所の人達が詰めかけ、宮様のお車もやっと入ってきたようでした。お車を降りられると近所の人達の中から万歳が起こりました。整列した社員の前を進みながら、宮様はやはりご会釈をなさいました。宮様の工場見学も右へならえで気軽にご案内、宮様もうちとけたご様子で、騒音の工場を見学なさいました。一連の日程を終り、社員や近所の人のお見送りする中、お車の人となり、那須御用邸へ向かわれました。
秩父宮勢津子妃
  次は秩父宮勢津子妃の御来社、昭和35年5月19日、前にお二方の宮様をお迎えした経験もあるので、さすがに今回は余裕がありました。当日は朝から五月雨の降るあいにくの天気。歓迎準備の整った中、御到着。例によって門内に整列した社員に何げない挨拶をなさりながら応接室へ、ここで例の通りお召しのことを申し上げるとさすが妃殿下、着物のことについてもご造詣が深く色々お尋ねもありました。ご少憩の後小雨の降る中工場を見学。織機の騒音の中でも、女性の宮様らしく織物や着物のことについて、色々御質問なされました。見学を終え工場の外へ出られると、騒音から解放されたためでしょうか、いくらかホッとしたご様子でした。日程通り見学を済まされて、社員のお見送りの中をお帰りになりました。
皇太子殿下
  昭和40年11月1日に、皇太子殿下(現天皇陛下)御来社が、10月19日に決定しました。以前に三宮様をお迎えした経験もあり、今度の御来社には大感激をいたし、桐生市、警察とも細かい奉迎日程を組みました。日程は11月1日午後1時10分から同40分までの30分間で、細かく時間が決まっていました。
前3回の経験を生かして、社内の奉迎準備を進めました。今回は前の2日間を休業して、全工場内を再点検、清掃や改装を行いました。特に機織部の床には絨緞を敷いて、殿下の足許の安全に配慮しました。いよいよ当日、今回は社員はもとより取引先の人も招待して歓迎することにいたしました。その他、近所の人達も社内で歓迎することにしたため、150人を超す人数となりました。したがって、お巡りさんも、会社の内、外の警備で、大変だったようでした。
例によって会社員取引先の人達も門内に整列お迎えの準備が整い、御料車到着、社長の行啓御礼の挨拶を受けられ、整列した社員にご丁寧なご会釈を賜りながら応接室へ、決められた時間内のお召しに関する社長説明を受けられ、10分間ご少憩のあと工場へ、ここでも急ぎ足でご見学、20分の中でも種々御質問をなされ、勉強なさっておられました。分刻みの日程も無事経過し、社員等のお見送りの中、御帰還なされました。
度重なる宮様方のご来社を受けた社員一同は思わぬ光栄に浴しました。



▲高松宮宣仁親王が工場を見学
 

▲手を振り観衆に応える義宮正仁親王殿下
 

▲秩父宮勢津子妃の御来社
 

▲皇太子殿下(現在の天皇陛下)の行幸
 

▲現在の皇太子殿下が学習院中等科の学生と見学、カメラを構える皇太子殿下。(昭和50年頃)

 

吉田邦雄(よしだくにお)
【生年月日】大正9年4月15日(82歳)
【住所】桐生市東4-4-12
http://www.kiryu.co.jp/yukari/