新あすへの遺産プロジェクトのための勉強会
日時 :平成14年8月20日(火)午後2時から4時
於  :織物参考館・紫(ゆかり)
講師 :森島純男氏(織物参考館館長)
主催 :桐生市老人クラブ連合会出版事業部会
参加者:桐生市老人クラブ連合会出版事業部会(合計12名)
    長田克比古、塩崎泰雄、林康平、安納正浩(NPO事務局)

『新・あすへの遺産プロジェクト』を進めるにあたり、市老連出版事業部会が中心となり勉強会を行った。森島館長による八丁撚糸機[はっちょうねんしき]と水車、お召し等の講演と、復活した桐生お召しの工程見学を実施した。


《森島》当方では、隣の工場で織物業が始まりまして、明治時代から、織物業をずっとやってきたわけです。特に昔から「お召し」というのを得意にやってきた関係で、お召し屋と呼ばれる何軒かあったうちの一軒でした。
戦前に天皇陛下が桐生にお見えになったときも、お召しをご覧いただいたりしました。この桐生の代表的な織物であるお召しを私どもも長い間作っていかなければならないのですが、ご存知の通り着物の需要が非常に少なくなり、特に普段着の高級繊維であるお召しですが、まったく売れないことから一旦中止をしていました、昨年からお召しを作ろうということになって、たまたま昔からあった八丁撚糸を組み立てて、お召しを作ってみようということになったわけです。



《森島》当方では、隣の工場で織物業が始まりまして、明治時代から、織物業をずっとやってきたわけです。特に昔から「お召し」というのを得意にやってきた関係で、お召し屋と呼ばれる何軒かあったうちの一軒でした。
戦前に天皇陛下が桐生にお見えになったときも、お召しをご覧いただいたりしました。この桐生の代表的な織物であるお召しを私どもも長い間作っていかなければならないのですが、ご存知の通り着物の需要が非常に少なくなり、特に普段着の高級繊維であるお召しですが、まったく売れないことから一旦中止をしていました、昨年からお召しを作ろうということになって、たまたま昔からあった八丁撚糸を組み立てて、お召しを作ってみようということになったわけです。



《森島》実は皆さんがお座りになっております座布団は、お召しです。そこにいらっしゃる吉田さんが私どもに作ったものですので、かなり古いものです。当時、西本願寺に呉服屋さんが納めるということになったもので、かなりの高級織物です。その当時で、一枚が4万円だったので、今で言いますと、10万円位はするものです。
紫色が主流でして、ここにあるのは当時残ったものですから、ちょっと傷があったりするので、そこまで高級ではありません。お召しというのは、触っていただくと分かりますように、表面がザラっとしております。これが強撚糸をかけた、お召しの特徴でもあるわけで、これが高級感があるひとつの理由です。



▲西本願寺に納めたお召しの座ぶとん

《森島》お召しのネーミングは実は明治時代になってつけられたもので、江戸時代までに、強撚糸で織った織物を徳川家が好んで着ていた、ということだそうです。将軍様が「おめし」になっていたということから『お召し』という名前にすれば、売れるのではないか?ということで、つけられたと聞いています。
それまでは、それぞれの機屋[はたや]さんで「高級縮緬織り」とか、そういう感じで売られていたわけですが色々な名前がついていた。
その基が八丁撚糸機[はっちょうねんしき]であり、それを動かしたのが水車だったわけです。水車動力を使うことで、一定の回転が生まれ、非常に撚りの安定したものが供給されるようになったといわれていまして、織物を織るのもそうですが、撚糸も同様、最初から最後まで同じ力を与えることが重要になっていたわけです。
明治時代の織物屋さんは、夫婦喧嘩をしなかったといわれてまして、夫婦喧嘩をすると次の日、均等な織物ができないからだそうです。その位均等な力が大切になるわけです。同じ力を供給することが大切なので、やがて電力が供給され、他の道具も動力化されてきた。電力でより一定の動力を得ることで、桐生の町もより活性化されてきたというわけです。
ご存知のとおり、「ガチャマン」という言葉がありまして、「ガチャ」といえば万円儲かるという時代があったわけです。昭和の初期頃から「ガチャマン」ということがいわれるようになったそうです。画期的な道具ができても、できた織物が売れなくては良いものとはいわれないわけでして、「桐生の織物は良い」といわれるようになったのは、八丁撚糸機[はっちょうねんしき]のおかげです。



《森島》今日見ていただいた八丁撚糸機[はっちょうねんしき]では「世紀21」と呼ばれる絹糸を使っており、群馬県が誇るブランドでもあります。その糸を14デニールに引いた糸を使っております。戦後は糸の太さの単位であるデニールが段々太くなっていく傾向があって、21、28デニールが主流だったのですが、14デニールというのは無かったもので、28デニールが流通するようになっていたわけです。この度、松井田町の「碓氷製糸」さんで特別に14デニールの糸を作っていただいて、現在日本では製糸屋さんが二軒か三軒しかないので、そちらに頼みましたら、「今は撚る糸がないので、どんな糸でも撚りますよ」と言うので、お願いしました。
糸も復元する、織物も復元する、ということで頑張らせていただいております。先ほど、お話したとおり、着物ですと、着る人が今はあまりいないわけですから、インテリアとか小物にお召しの良さがでるようなものを考え、お召しの需要を増やしていきたいと考えています。良い道具を使っても、製品を買って頂かないといけないわけですから。



▲稼働中の八丁撚糸機を見学する委員たち、0.5馬力の小さなモーターで静かに動いている。

《森島》今、こちらでは電力で動かしてるわけですが、今、作っているお召しが高い値段で売れ、お金になれば水車動力で作りたいのですがまだまだです。水車は結構思ったよりお金がかかり、日々毎日動くものですから、各地の先生方に聞くと相当なメンテナンスが必要になり、作った以上は相当な覚悟でやらないとだめだと聞いております。まずは、今の八丁撚糸機[はっちょうねんしき]で作ったお召しで、儲けさせて頂いて、残ったお金でそういうものを目指していこうと考えております。私どもの水車動力と八丁撚糸についての考えはこのようなものです。水車で廻す八丁撚糸機[はっちょうねんしき]からできる糸はきっと、良い糸だと思います。
《石川》水車と八丁撚糸機で作った糸って、夢がありますよね。森島さんのところでは、裏に水路の後があるそうですが、水車を廻して八丁撚糸機を動かす予定はあるのでしょうか?水路を掘り返して水を流すとか、市役所に相談するとか、なんとかなると面白いですよね。
《森島》いや、それでは全然だめです。例えば川を作るわけにいきませんから、そこは行政になんとかしてもらわないといけないです。ですから、循環式にするしかないだろうと思っています。
《石川》水車動力と現在のモーターで作った物とでは、多少違いが出てくると思うのですが、どのような違いがありますか?
《森島》それは私が確認したことがないので分かりませんが、資料に書いてあるとおり、水車の動力を利用して、一定の糸が撚れた。ということがあるわけですから、水車の力がその当時最も良かったわけです。同時代にそれを比較したことがないので実際にはわかりませんけれども・・・結構水車が良いかもしれませんね。
《藤井》実際私のところも、水車からモーターに切り替えました。水車でやっていると、動力源はひとつですよね。それで八丁撚糸を何台も動かして1台をストップするとですね、他の八丁に響くんですよね。動力源が余るから、回転に「むら」が出てきます。
《石川》それはいつまでやっていましたか?
《藤井》モーターに切り替えたのが大正15年から昭和元年ですね。当時、電気を引いて他の人に笑われたんですよ。すぐそばに赤岩用水があって水車でやってるのに、なんで新宿通りから電気を引くんだってね。電柱から全て自分の経費で立てさせられたんですよ。親がよくいってました。ですから、動力源のほうが良いと思いますよ。



▲昨年より復活した八丁撚糸機。この糸を使って桐生お召しが復活した。糸切れや、水差しなど、微妙な調整の繰り返し、職人の腕が問われる行程である。

《森島》それはわかってるのですが、しかし、先ほどから申し上げた通り、電気がなければ水車に頼り、更に手で廻した頃に比べれば、随分良いわけです。
昨年「シルクサミットin桐生」を文化会館の小ホールでパネルディスカッションを行ったのですが、一部の業者の人達が、「日本の生糸を駄目にしたのは撚糸屋だ。」といっているわけですよね。なぜかというと、世界中で日本の糸ほど均一の糸は無いっていっているんですよ。均一すぎて味がないというわけですね。
タイシルクでもベトナムシルクでも、節だらけでグチャグチャな糸ではありますが、あれで織ったほうがなんて味があるのだろう、といってらっしゃる人がたくさんいますね。
《藤井》今でも山前ではクズ糸みたいなものを撚ってるところもありますよね?
《森島》そうですね。それで、そのときに話が出たのは、人間の力によって機械化をどんどんしてきた。織機も鉄になってきた。織物を整理するのも鉄になった。撚糸も鉄になってきた。そして全ての工程で鉄と絹糸が接するようになってきた。どうしても絹糸の方が弱いから負けちゃう。
そうすると糸に弾力が、その空気を吸収する力がなくなる。だから本当は絹糸というのは人間の手で紡いで、一本一本撚ったものが良いのだと。だから昔は長い間そういう織物を大切に着ていたから非常に良い人生を送ってこれたんだ。なんておっしゃる方もいますので、なるほど色々な意見があるものだなと思いました。
碓氷製糸さんは、「織物屋さんが節が無くて均一なものを要求してきて、それに報いる努力をしただけだ」といってました。(笑)
日本の絹糸が売れなくなったのは、同じ蚕が吐いたものを、あまりにも鉄とかそういうものに近づけた結果、非常にもろくて弱い絹糸になってしまいました。
「だから日本のものは駄目なんだよ。だから低開発国のどうしようもないような織物が良いんだ。そういうことがわかりますか?わかりませんか?」と聞かれて、まぁその会は結論を出すことが目的ではなかったわけですから、「お互いに日本のシルクの需要を伸ばして行こう」という会だったものですから良かったですけれども、一部の人から見れば「電気」というものが現れてから絹織物を悪くした。と考える方もいる。東京電力さんが聞けば「何いってるんだ!」といわれるところですがね。
《石川》当時は八丁撚糸機は何台あったんですか?
《森島》多い時は、8台ですね。8台あったうちの1台が群馬大学工学部にあります。ついこの間までは、群馬県の歴史博物館にあり、もう1台は佐野郷土博物館にあります。
そして、うちの資料館の中に1台あって、今動かした1台。あとのもう1台は、あとは足らない部品をまぜて、実質は6台分しかないのが現状です。ここからちょっと下がったところにあります「長利」さん、今マンションをおやりになってる方は、桐生では一番最後までお召しを作っていたメーカーだと思いますけど、そこにも六、七台ありまして、1台は「日本絹の里」に接収されてます。その他に八丁撚糸は新潟県の五泉市というところで1台使われております。



▲藤井さんは平成8年まで撚糸工場を営んでいた。
 

▲八丁撚糸機と錘とシズ輪、錘の先端とシズ輪の重さで、撚り加減が決まる。糸は常に湿度が必要で、給水を怠らない。

《吉田》八丁撚糸機[はっちょうねんしき]は濡らしながら使うもので、もともとが木製ですから腐っちゃうんですよね。それで結構修理が多かったこともあります。
《石川》作ったのは桐生の方が作ったのですか?
《吉田》うちのは、建具専門の方ですね。色々形式があって、まぁ桐生式とかが今ここにあるのですよね。京式ってのは私が若い頃使ってましたね。もっと昔は地下を掘って穴の中(地下室みたいなところ)でやり、穴の中でやると湿気が均一に与えられてるので、撚りをかけた場合に撚糸の乾き具合が均一で良かったそうです。
そういうことで、京式や桐生式などの撚糸機がありました。京式ってのは低いものですからね、職人さんが腰が痛くなってしまいます。桐生式はそんなことは無かったみたいですね。
《森島》桐生の気候は「かかあ天下とからっ風」といわれるほど「からっ風」の強い地域ですから、機織でも燃糸でも、地下を掘ってだいたいやったわけですけどね。羽二重という織物が桐生で考案されましても、結果的に桐生では風が吹いて織れないというものですから、北陸地方にもっていかれたという背景があります。
気候によってですね、せっかく良いものが考案されても、風土が合わないと駄目ということで、湿気がある北陸とかの方が織物には向いているということになるのです。
ですから昔の高機[たかはた]なんかを調べてみると、みんな地下に埋まってる形跡があるわけですね。そういうことから、湿気があったところの方が良いにもかかわらずこの町が織物の町になったということは、そんな気候にめげずに地道にがんばったということの証になるわけです。桐生は織物作りにはまったく向いていない土地であり、まぁ水は良いのですが、「からっ風」は駄目ですよ。



▲絹の強撚糸、右が糊付けそた糸で、水洗いすると左のように1/5程に縮む。1mに4000〜5000回の撚りを掛ける。

《石川》八丁という名の起源は何ですか?
《森島》「口八丁、手八丁」というようにですね。昔は「八丁」とは「多い」という意味で使われたと聞いております。「多くの糸が撚れる」ということですね。
《石川》「数年前、孫を連れて旧海軍の兵学校「江田島」に今は、海上自衛隊の幹部学校がありますが、そこの参考館の一番最後の部屋に戦死した方の遺書があるわけです。その中に「おかあさんを縮緬の布団に寝かせてあげたかった」というのがあって、孫と涙ながして読んでいました。
それから、伊勢崎銘仙ってのがありますよね?値段差は、戦争時代でどの位したものですか?この資料にも「高級織物」と書いてありますが?10倍位ですか?



《森島》3、4倍ですね。その位はありました。要するにお召しというのは強撚糸ですね。糊をつけたものを幅広く織ってそれを縮めているものですね。銘仙というのは、この幅で織ったらその幅ででき上がってくるわけです。
糸の量も少ないですし、経糸の量がとにかく少ないわけです。お召しの場合は3000本以上8000本位あったといわれていますが、銘仙の場合は1200本位しかなかったわけです。
つまり、それだけ糸が太いというわけですね。まぁ「かすり」をつける都合その他色々な都合からで太い方がやりやすい、ということもあったわけです。桐生のお召しみたいに細い糸ですとなかなかやりにくい。それから強撚糸が入ったのではなかなか「かすり」がつかない、ということもあったわけです。
それだけ糸に違いがありますから、3〜4倍は値段に差があったんだと思われます。もっと違ったかもしれませんね。ただ同じお召しでも機屋[はたや]によって値段が違ったんですよ。メーカーによって違ったわけですね。
目方秤で計って、一反なら一反の重い方がそれだけ糸の量を多く使っているから高いというようなこともしていた。
いわゆる品質ですね、伊勢崎銘仙も同じようなものだったと思いますね。



《森島》それからこの資料館を始めて、色々な先生方が来て色々なお話をされるんですけど、要するに織物の町になったところは、お米が取れないところ、平らなところでお米が取れないところだったわけです。お米が取れれば織物をわざわざやらなくて済んだわけです。織物を売ってお米を買わなくていいわけですね。自分のところでお米がとれるわけですから、関東平野の平らなところでは、織物をやっているところはまず無いわけですね。関東では、山際の八王子ですとか桐生、足利、伊勢崎、佐野、などはお米が取れないから、お米を食べたいために反物をやってお米を手に入れていたわけです。幸いなことに、大間々や桐生には「市」があったものですから、そこに自分で作った反物を持って、お米に代えていたわけです。織物はお米を食べるための商売だったわけですね。織物が失敗すればお米が食べられないというところがあったために、この山際で織物が盛んになり、特に桐生では水車(動力)を使いたくさんの織物を作ったものですから、より多くの反物ができ、「市」もにぎわったので、天明の終わりの頃には日本のお金の1/3以上は桐生にあった、といわれているわけです。当時、桐生全体がお金を持っていたわけです。
外国においても、織物をやっているのは山間部でして、平らなところではお米が作れる。アジアではお米があれば何でも買える。お米があれば織物も買えた、ということがあったので、お米を作ることに熱心だった。山間部なのに織物をやらずにお金が手に入れられたのは、「鉱山」ですね。掘ればお金になるわけですから。銅山や銀山です。
《石川》それで、今、また織物を始めようとするということは需要の期待もあるわけですか?
《森島》それはですね、基本的に今売れている先は、インターネットですね。時代ですね。わけのわからない、見たことも無いものを欲しがるのがインターネットでしょうけど。実際に商売につながるか?ということはこれからのことですけど、見たことも無い高級織物を欲しがるということは、インターネットをやる人にはある程度お金に余裕があるんでしょうが。
《石川》外国からもアクセスありますか?
《森島》うちでは今はありません。英語バージョンにしていないので、読めないわけですね。
《石川》やってみたらどうですか?
《森島》はい、考えてみます。
時代が変わったというか、インターネットが現れてから、私でさえ全然分からなくなってきた。見ることはできるのですが、これがどういうやり方で、どういう商売になるか把握できないわけで、セキュリティーは大丈夫か?お金はもらえるのだろうか?とか違う心配までしてしまうわけです。
うちの子供達、実はここで夫婦で働いているんですけど、その子たちにいわせれば、こんな楽なものは無い、といってます、やはり時代が変わったのだと思いますね。
ちなみに桐生市のホームページの中に桐生広域物産振興会という、桐生の特産品を扱っているところがありますが、アクセス数が一ヶ月に3000回ありますが、商売は月に3000円位ですね。だから、ただホームページを立ちあげているだけでは、商売にならない。
なにか違うことをやらないといけないですね。私が、広域物産振興会の会長をやっているもので、若い人がやれやれ言うもので、やったものの、やはり売れないですね。
ところが「楽天市場」に出店している桐生の業者は月に300万位売れる月もあるそうです。ただムラがあって一年トータルで見ると、500〜600万しか売れないので合わないといっていますね。まぁそこは出店料が高いものですから。やはり、分からないことで商売はできないですね。
《石川》お話を聞いてますと、「あすへの遺産」の良い記事ができそうですね



▲母屋の南にある素晴らしい日本庭園、宮様もくつろがれた空間である。

《森島》一時期は機械を導入して大量生産をするのが良い、という時代もあったのですが、これからの時代はですね、特に繊維業界は地場に基づいた技術を発揮して、それも少量生産でお米が買える、というような業種になるのかなぁと、思っています。
今、地球に相当数の人がいて、アフリカ等の食料危機の地域に比べれば、日本では給食でも何でも余らせてしまう昨今、そういうところで、何をやったら救えるか?ということです。農業ができないところでは、繊維をやるしかないわけです。
結局、貧しい国に繊維産業を興してもらって、お米を食べてもらうしかなくなるわけです。そうすると、必然的に、賃金の安くてできる繊維が広まるわけです。そうなると、繊維が安くて大量にできるわけです。
我々先進国では、そういう安い商品を買って彼らにお米を食べていただく、という構図になるわけです。そうすると先進国からは、繊維産業は消えざるをえないということになってくるわけです。
しかし、かといって全くなくなるわけではありません。アフリカ等の国で作ったものは着ないという人もいるわけですから。つまり、これからはおばあちゃん手作りの暖かいヴィンテージものが桐生の繊維産業を支えてくれると思っています。
《石川》私事でありますが、今年久しぶりに浴衣を新調しました。娘達にいわれてこんな句を作ったわけです。「糊利きし粋の浴衣や喜寿と古希」。久しぶりに着てみますと、やはり昔と違って今はエアコンも効いていますから、女房も喜びまして、もっと長生きしたいわ〜、などといっておりました。やはり女性ですよ。和服着るのは、そういう需要の拡大も必要ですね。
《森島》まぁ私としては「努力する。」としか言えないのですが、先ほどいったとおり、八丁撚糸を使いより高度な織物を作り、それを着物を含め買っていただくことが目標ですね。良いものとは、そのとき代のニーズにあったものだと解釈しています。
この前、群馬県の偉い方と会いましたが、「こんどお召し作ったけどどうだい?」という話になって、「ネクタイの良いの作らないかい?3万円位だったら買うよ。」ってなことになりました。
そういうのを作れば群馬県のお役人たちが、「桐生で作ったお召しのネクタイだということで買うよ、背広もできないかい?」とかもいっていたわけです。できるかどうか分かりませんけど。お召しのネクタイってのは良いんですけど、シワが取れないんですよ。綺麗なんですけど、そのあたりを改革しないとですね。「そのあたりのの日常使ってるものに、お召しを使ってみるとどうだ?」という提案をうけました。
桐生にある工業試験場でもお召しに着目していて、色々なものにやってみようと、私が試験場に提案しています。それには、お金がないとできないですからね。需要があれば、八丁撚糸を増やすことはできるわけです。
売れてこそのことですから、安ければいいわけではないのです。高くてもいいんです、代表的な産地のものを作っていただければ、みんながひとつずつ持てば群馬県だけでも200万人いるんですから、子供から老人混ぜてですけど、そういう人に需要のあるものを考えればいいわけです。
《石川》平野さん、女性として意見質問があればどうぞ。
《平野》女性のものがあればいいですよね、例えばドレスとかもあればいいのですが、ドレスだけを作っただけでは駄目で、例えばなんとかというデザイナーが取り上げてくれた等、ブランドがなくては駄目なんですよね。取り上げてくれるデザイナーが出てくればこれはしめたものです。



▲21世紀のお召しについて語る森島館長。

《森島》裏に内倉があるんです。昔の織物屋には内倉がありまして、絹糸と絹織物が高かったので、倉の前で寝てたんですよね、内倉がある部屋に番として。こういうお召し屋さんには特に多いんですけどね。ですから、内倉がある織物屋さんは多いですね。
今いわれてる「のこぎり屋根」が数多く残っていて、それを残していこうというわけですが、のこぎり屋根の織物工場は安物なんですよ、「のこぎり屋根」ってのは、より儲けようと安作りにしたわけなんですよね。
しかし、「倉」ってのは、盗まれないように造ったので、桐生の「倉」ってのは割と良いものが多いわけです。大名のような戦(いくさ)に耐える倉ではないですが、こういう「倉」はわりと良いものを造ったわけです。だけど「倉」と違って「のこぎり屋根」ってのは儲ける手段で建てたので、雨漏りしようが何しようが気にせずに使ってたわけです。それを急に残そうとするものですから、みんな大変だ、大変だ、ってなるわけで、現状では、「のこぎり屋根」にお金をかけた家は少ないですね。
《石川》この家はいつ頃建てられたんですか?
《森島》昭和二年に隣から現在地に移ってまして、そこにあるのが三波石といいまして、「神流川」から持ってきたものです。75年前ですね。石を持ってきたとき、トラック二台で持ってきたそうです。そしたらトンネルが通れなくって、トンネルの下を掘って持ってきたそうですよ。石を持ってきたときに、ここから両毛線のところまで、家が数軒も無かったそうです。
両毛線は当時もあって、石をもってきた人たちの20人位で撮った写真がありますね。



▲内倉のある座敷きでおこなわれた勉強会、奥には倉の入り口が見える。内倉には生糸やお召しが仕舞われている。

《石川》織物参考館について教えてください。
《森島》今日は、八丁撚糸と水車ということでお話をさせていただいているのですが、脱線が多くて申しわけないです。
私どもとしてはこの「織物参考館」をどうしても残していきたいということで、昭和56年の5月から始めまして、今年で21年目になりました。
当初は、もっと人がきて、もっと儲かるかなと皆さんいってましたが、全然儲からなくてですね。たまたま、私の親父が昭和53年に亡くなり、私が受け継いだ時には、まだ33歳でしたが、織物工場がいわゆる「織機」の買い上げという時でして、工場の機械を出したものですから、じゃぁそこを何とか利用しようか?ということになりました。構想自体はうちの親父の頃からありまして、これから、繊維産業がうまくやっていくためには、どうしても学校教育を含め繊維産業教育をしないと繊維産業は潰れるぞということで、そんなものを始めたわけですが、なんとか21年間やってきました。
こんなことをいってもしょうがないですが、億のお金を損しました。理由は簡単で銀行が土地を担保にどんどん貸してくれたからでありまして、一億借金が増えただけなんですけど、「どうしよう、辞めようか?」と考えたことがありましたし、桐生市や織物協同組合さんとも相談はしたんですが、折り合いがつきませんでした。



▲織物参考館・紫は、体験型の博物館で、藍染めや手織り機の体験ができるユニークな博物館である。

「こりゃもうだめだ」と、借金返すのに、土地を売って辞めるわけだったんですが、たまたまそのとき、「毒蝮三太夫」「大山のぶよ」「浜美枝」さんが来て、うちで講演会をやったんですよ。
そのときは、無料で講演会をやったんですが、入場料はいただきました。1回に100〜200人来てくださいまして、当時500円位だったから、10万円位ですか、それで3回やって30万円位になりまして、「みんな協力してやらないと駄目だよ」と講師の方がいってくれたもんですから、その年からそれまで2万人しか来なかったのが、4万5000人来るようになりまして、こちらは何をしたわけでもないのですが、その芸能人が「桐生は協力してやらなくちゃ駄目だよ」といってくれたおかげです。不思議なものですね。あの時お役所に売っていたらどうなっていたことかと思います。それから、まぁ4万人位来るとなんとかやっていけるものですから、やっています。
《石川》地元の人はあまり来ないみたいだけど?
《森島》そのことはあまり気にしてません。例えば日本の博物館の会議に出ても全ての博物館の人がいっているのが、そのことなんです。地元の人がほとんど来ないんですよね。そういうものなんです。
別に見に来なくてもいいですけど、宣伝をしてくださいよ、ということなんです。よそから誰か来たときに誰か連れてきてくださいよ。ということです。今日本に3800館、博物館があるそうです。
それは個人や町や国が日本博物館協会に加盟していて、その会合が年中あるんですけど、ちなみに群馬県も80軒もあるんですよ、その中で、無料なのに1500人位しか来ない博物館もあるんです。
一番群馬県で入るのが星野富弘美術館、あそこが45〜50万人入ってます。日本でも多いほうですね。県立の歴史博物館なんかすごく入ってるように思われますけど、11万人。あれだけ広いスペース使ってそれだけです。近代美術館はもっと少ないです。うちの年間4万人は、「80館のうち上から10番目位なんです。
集めてるほうなんですよ。各地にある博物館という施設はいかに人が来ないかということはわかります。誰か人が外から来たときはお連れください。私ども施設の博物館は人が来なければ閉めるしかないですから、何人かでもお呼びいただけると嬉しいです。まぁ毎日来てもらうような施設ではないですがね。
来客を考えるし季節感ですね。たとえば桜とかですね。一度の桜で20万人とか来ますからね。日光の紅葉で100万人ですからね。ですから、今後の博物館は季節感をいかに出すか、その度輝いた色をいかに出すか、が問題となっております。解決策はないですけどね、やはり花にはかなわないです。
一度テレビに出ると5万人が足を運ぶそうですからね。かといって、フラワーパークのような人工の花は、はじめだけ来て、その後は来なくなってしまいますからね。まぁ、皆さんもどこかに出かけた時は、そこの博物館とかに寄ってみてください。
現実では資料を残して、しっかりしたものを作っても、なかなか見てくれない。博物館離れになってるんですよね。
《石川》私がまだ若い頃、東京から娘の友達が遊びに来ると、まず新桐生から私の家でコーヒーを飲ませ、資料展示ホールそれから水道山で桐生市を展望、「紫」、「明治記念館」という具合に行ったものです。口コミというのは重要になります。せっかく桐生にこういった素晴らしい施設があるのですから、我々も黒字にするべく協力しなければいけませんな。せっかく、お近づきになったのですから。我々もがんばりますので、今後もがんばってください。
《森島》辞める気はないですが、辞めさせられることもあるものですから、今後はわかりませんが。正直、一番儲からない仕事を選んでしまった。儲からないけど、やりがいのある仕事ではありますから、やりがいを基にがんばっていきたいと思います。そういうことで、お召しに関し良いアイデアがありましたら、お教えください。是非、今後ともよろしくお願いいたします。



▲織物参考館・紫は設立20年を迎えた。運営の苦労話を笑いながら、話してくれた森島館長の顔が印象的だった。

 

勉強会出席者
藤井義雄元藤井撚糸工場主桐生市琴平町
吉田邦雄老人クラブ連合会副会長桐生市織姫町
石川佑策市老連・出版事業部長桐生市巴町
原澤礼三市老連・出版事業副部長桐生市清瀬町
伊藤ミヨ市老連・出版事業部委員桐生市浜松町
今泉恵造市老連・出版事業部委員桐生市川内町
風間弘行市老連・出版事業部委員桐生市梅田町
金子清吉市老連・出版事業部委員桐生市新宿
佐賀益夫市老連・出版事業部委員桐生市仲町
坂井政夫市老連・出版事業部委員桐生市菱町
丹羽英子市老連・出版事業部委員桐生市広沢町
林旭市老連・出版事業部委員桐生市永楽町
塩崎泰雄NPO事務局桐生市宮前町
長田克比古NPO事務局桐生市仲町
安納正浩NPO事務局桐生市西久方
林康平NPO事務局桐生市天神町