武藤圭介
むとうけいすけ
大正14年10月29日生
77歳
武藤圭介氏は先代より撚糸工場を営み、お召し製造全盛の頃の風景を、写真で記録されておられます。特に森秀織物(現在の織物参考館『紫』<ゆかり>)のお召しの全行程をカラー写真に納め、貴重な資料を残されるとともに、趣味の写真では戦後の桐生の町並みの記憶を撮り続けておられます。尚、武藤圭介さんのお召しの工程写真はこちらのページで、全48枚を掲載してあります。


―― まず写真を見せてもらえますか?
  (お召し作成工程の写真集「桐生お召し」を見ながら)
これは、昭和25年代の中頃から2年位かけて、スライドに撮ったものを写真にまとめたもので「桐生お召し」というタイトルをつけました。桐生の街は全部変わったけれど、当時の「桐生お召し」の雰囲気はあると思います。
―― ピントといい構図といい上手ですね
  何枚も撮りましたから。その中から一番良いのを選んでます。
―― 愛用のカメラはなんですか?
  ニコンFを使ってます。
工程が非常にかかるんですよお召しって。生糸を糸繰りして、それから撚りを入れるんですが、下撚りと揚撚りの工程があり、これで右撚りと左撚りに撚るわけです。
―― この辺は水路はあったんですか?
  この辺に水路はないです。ですから撚糸の発祥は、だいたい新宿のほうです。渡良瀬川からの用水路があったので水車を利用して撚糸業が栄えたんでしょうね。
先程、お話しした下撚りの後にいくつかの工程を経た後、糊付け作業があり、それから揚撚りをし、これを緯糸にするのです。
―― 随分と工程があるんですね。これで全工程ですか?
  まぁ、以上の写真もごく一部ですが、詳しく言えばもっと工程があります。
―― 量的には、桐生でどの程度出ていたんですか?
  やはり、そこは規模によってバラツキがあります。
―― 機屋[はたや]さんごとに、評判みたいなものはあったのですか?
  やはり、それはありますね。私共の取引先は量もこなしたし、質も良かったようです。
―― 普通の縮緬用の糸っていうのは、桐生でも織っていたところはあるんですか?
  それは少ないようですね。縮緬というのは、ご存知のとおり全部無地で、着地が薄いんです。それにお召しのように強燃はかけませんからね。やはり、お召しより規模の大きい工場で織っていましたね。桐生では、私共のお召し・境野の帯・広沢の丸帯と三つに分かれてましたね。だから、縮緬はほとんどなかったようです。
―― 普通の縮緬だと、輸出ができますよね?お召しっていうのは、洋装で使わないじゃないですか。どうしてでしょう?
  洋装では使えないですね・・・よくお召しの生地をほぐして、使うことはありますね。しかしどうして縮緬を桐生でやらなかったのかは、詳しくは分かりませんね。
―― それはリサイクルということですよね?
  そうですね。その程度が洋物に使われる例ですね。もうしばらく前から、お召しの仕事が無くなりましてね。今では私どもは刺繍糸を撚ってるんですよ。主にレーヨンです。
―― 強撚糸をかけるって事は無いのですね?
  そうですね、下撚りの場合には300〜500回程度の撚りを入れます。強燃だったら何千回が普通ですから、ざっと10〜20倍は撚りますよ。
昔の話ですけと、よくうちの父は、強撚糸をお湯で伸ばして、わざわざ長さを測ってましたね。何回よったかは検撚計で分かるんですが、よりの具合はそうでもしないと分からないですからね。
―― この前、藤井さん(昔、糸を撚っておられた)に話を聞いたら、「自分の糸が生地になったら、どれだけ縮むか知りたかった。」といっておられました。生地を見たことがないからだそうです。自分で糸を撚っただけで、行った先からは戻ってこないから、織った状態を見たいと話されてましたね。その辺はどうですか?
  そうですね。みんな、織った生地や撚った糸は見てないですからね。まぁ、私はたまたま趣味で写真やってましたから。写真として残ってるのは私のもの位ですよ。ほんとは映画にしたかったんですけどね。
―― これ以外の写真もあるわけですよね?(全工程の写真以外)
  そうですね、全工程としてアルバムに入れていますが、1工程に対して数枚撮影したわけですから。かなりの量になりますよ。みなさんに見せようと、スライドで映写できるようにもしてあります。
―― この糊付けの工程では、どんな糊を使っていましたか?
  蕨粉が主でしたが、白米も使いました。
―― 何回か繊維試験場に行って、糸張りを見てきたことありますけどね。
  で、できたものを干します。
―― やはり天日で干さないとだめですか?
  天日で干したほうがいいですね。そうすると右手と左手が逆になるんですよ。
それで今度はいよいよ、この揚撚りとですがここで、八丁を使います。
―― この八丁という語源はなんですか?
  まあ色々な風に言われますけど、口八丁、何々八丁というように、色々と使えて便利だから、という感じじゃないでしょうか。私はそんな風に考えてますけどね。で、撚り上がったやつを、今度は管にまくわけです。
―― 八丁撚糸機[はっちょうねんしき]はもうないのですか?
  今でも、天井裏には昔の八丁撚糸機[はっちょうねんしき]を分解して、しまってありますよ。何となく、もったいなくてねぇ、それに会社の歴史でもありますしね。
―― 織物参考館の森秀さんがいっておられましたが、ゆとり教育になった今年の4月以降、小中学生がの見学が多く、中でも県外の遠くから来るほうが多いそうです。
  これは機拵ですね。昔はこうやって手で繋いだのですが、今はみな機械ですよね。それから、織機にかけるわけですね。
―― これだけまとめるのには、随分写真をとられたんでしょうね。
  10倍位は撮ってますね。(写真を指差して)これがわかるように織機を止めさせて撮った写真です。上下経糸が開いたところへ筬が入っている場面ですね。ちょっと止めてくれといってね・・・ほかの機屋[はたや]さん3軒の写真も含まれていますが、随分と苦労したもんですよ。
―― 補修とはなんですか、
  織りあがった生地に糸端がでると整理をします。それが補修です。シボ取りする前に補修をします。後だとやりにくくなるので・・・シボ取りでは、お湯に薬品を入れて、ずっと縮ませます。後で整理屋で、規定の寸法に伸ばすんですね。
―― 確かにお召しの風合いはよかったですからね・・・
  縮まる様子をメジャーで示しています。シボ取りでこの位縮まるわけです。
―― 電熱かなにかで、乾燥するのはだめなんですか?
  洋装(輸出)製品は、ほとんど電熱乾燥でしたけれど、この頃は、機械化や技術もあまりなかったのでお召しの乾燥は手作業の蒸気乾燥でしたね。
―― 確かに工程数は、あるんですね。
  細かくやるとまだまだたくさんあります。撚り工程も2回ですし・・・
―― この頃は、いわゆる『ガチャマン時代』ですか?
  そうだと思います。帯屋さんがお召しを始めたり、撚糸屋が八丁を入れたりして始めた頃ですからね。儲かったんだと思います。戦前はイタリー式の撚糸機が入ってたんですが、それが戦争の供出できれいになくなって、戦後すぐには八丁を使ったわけですね。それがはじまりなんですけども・・・
機をガチャンとひとつ織れば、1万円札がごろごろと入ってくるので、ガチャマン景気というわけですね。
―― この味付けというのは・・・(写真を指さしながら)
  風味を出すために反物を巻いて叩くんですね。食べ物で言えば、味の素をいれるようなもんです。そうしないと絹の風合いがでないんですね。このあたりが機屋[はたや]さんの極意です。機屋[はたや]はみせたがらなかったですね。
織元から糸を預かってやるでしょう。だから工場の入り口は無断立ち入り禁止という札が全部貼ってありました。関係者以外は、機を織ってるところには勝手に入れませんでした。
―― 最盛期には本町通りに、買い継ぎ屋さんがずいぶんありましたよね。糸屋通りにも。今そういう、買い継ぎというのはないんですか?
  現在では、あまりありません。
―― 武藤さんの場合でもそういうところから注文がくるわけですか?
  いいえ、私共では、機屋[はたや]さんから来る注文です。原糸も機屋[はたや]さんから来るんです。



▲お召しの工程写真、デザイン会議と意匠の作業の写真が見える。
 

▲お召しの工程写真を説明する武藤さん。
 

▲糸の天日干しと、揚撚り八丁撚糸機の説明をする武藤さん。
 

▲武藤さんの撚糸工場
現在はレーヨンの撚糸が主流である。
 

▲八丁撚糸機は分解されて、屋根裏に、大事にしまわれている。
 

▲湯のしの工程写真を見ながら、内容の説明をする武藤圭介さん。
 

▲取材風景
左から石川さん、武藤さん、藤井さん

  武藤さんは長年撮りためた写真の整理の傍ら、当時と現在の風景を撮り比べて、ひとつの作品群を生み出されておられます。
(別のアルバムを取り出す)
―― これはモノクロですね
  この頃はまだカラー写真がなかったです。年号も書いておけばよかったですかね。昭和29年頃かな。これは当時の皇太子様(現在の天皇陛下)が、森秀織物にお越しになったときの写真ですね。
―― この写真を近くで撮るのも、手続きしないと入れないんですね。
  もちろん腕章つけてね。許可がないと工場の中にも入れないし、そばで撮影できないのです。
―― 当時では、光栄の極みでしょうね。
  これを撮った後、桐生タイムスに掲載されました。森秀さんのところは、戦争が激しくなって贅沢品カットのときも、技術保存で残した位に、良い物を作っていたんですね。それ程の機屋[はたや]さんだったということでしょうね。
―― こういう建物見るとわかるな。
  昔こういう風に、天井にシャフトを這わせて、ひとつのモーターで沢山の機械を動かしていましたね。今はみんな1台にひとつのモータを直結して稼動していますがね。
―― これ市長さんですね。前原市長は名市長だった。
  評判よかったですね。名誉市民一号じゃないかな?そうですねぇ。
―― 随分と皇族とか、有名人が見学にきてますよね。
  そうですね。来るたびに頼まれるんですよね。このほかにも、芸能人が随分ときてるんですよ。
―― この頃の写真はストロボじゃなくて電球ですか?
  はい、電球だけの撮影です。
―― 電球の方が明るいんですかね。
  いや、そんなことないんですけど。電球っきりなかったんですよね。
―― モノクロもいいもんだな。こういうの見ると、時代を感じますねぇ。
  昔みんな、機屋[はたや]さん自身が、揚撚り八丁を自分の工場の中へ備え付けたんです。それで自分の機屋[はたや]の独特の技術を出すわけです。だから、機屋[はたや]さんにしてみれば企業秘密なんだよね。
―― シャープに撮れてますね。
  当時は、フィルム一発一個。ずいぶん高くつきましたね。1回撮るごとに入れなおさなきゃならない。お金はともかくシャッターチャンスを逃してしまうのです。
―― これは何をしているんですか?
  機屋[はたや]さんからは、ずいぶん昔から写真を撮ってきました。
これは織物会館です。当時よく展示会をやったんですよね。それを撮ってきたのです。



▲武藤さんは、昭和と現在の比較写真を作りはじめている。赤岩鉄橋の昔と今、桐生の夜景も見える。
 

▲製作中のアルバムを広げて、説明する武藤さん。これも、すごい資料だと思う。

―― あの厚いアルバムはなんですか?
  あれはたいしたことはないです。昭和初期からの桐生の写真と、現在の桐生の同じ場所を比較してアルバムを作っています。お見せしましょう。(別アルバムを出す)
―― これも貴重な資料ですね。
  今その場所へ行ってみても、同じ場所から撮影できないんですよ。建物ができちゃったり、撮る場所がなくなってるんですよ。
―― これは最近ですね。
  ええ、こちらが当時の駅前ですね。
こちらの写真は、群馬県のコンクールで入賞したんですけどね。でも版権取られちゃったんですよね。
―― これは何年頃ですか?
  30年代ですかねぇ、まだ西桐生駅前に東映の映画館があった。ご存知ですか?
今コンビニか何かになってます。
―― じゃあ、最近カメラを買い換えたんですか?
  これは使い捨てカメラで撮ったんです。今は結構良いですから。これは桐生駅のそばの踏み切り。今は高架線になっています。
これは新川遊園地。今はコロンバス通り。
―― この水路は残しておいてほしかったなぁ。
  これは厚生病院の前の通り。川があったんですよ。これわかりますか?この所にめがね橋があった。ここに今、文化会館ができてますね。
―― 武藤さんの写真を、斉藤利江さんに見せてあげたいなぁ。
  斉藤利江さんの所へは、たまに遊びに行くんですよ。お父さんと私が知人だったんです。
これはね、桐生始発なんですけど、今撮りに行ったらガードがあるんで、下から撮れない。仕方ないから前のアパートの上のほうから撮って・・・
―― 桐生始発で、快速があったっけなぁ。上野まで行ったもんですが・・・
  これもちょっと珍しい。昔はリヤカーで織機を運んだんですよ。
―― えーと、失礼ですが武藤さん、生年月日を教えてください。
  大正14年、10月29日です。もうすぐ誕生日。77歳になる。
―― もうじき喜寿ですね。
  渡良瀬川の鉄橋もずいぶん通ったんですよ。ただ昔のイメージがなくて、撮影場所を見つけるのに苦労しました。これは、ついこのあいだ撮ったんです。新しいのも撮っておこうかなとおもいましてね・・・
これは蟹川ですね。昔の蟹川撮っておけば良かったですね。そんな思いなかったですから。
これは昔と今と対称にして撮っておいたものです。これは現在のでこちらは昭和25年のものですが、お祭りの様子は、あまり変わんないですね。
昭和27年頃のおいらん道中を思い出します。・・・これはみんなからくり人形ですよ。各町内で出し物を変えていますね。
―― からくり人形も最近復元してやっていますよね。山鹿さんに見せてあげたいなぁ・・・
  石川さん、失礼ですけど何年生まれですか?
―― 同じです。大正14年生まれ。4月9日です。
  じゃあ、この頃よく覚えてますね。
―― ええこれは、確かに貴重品だなぁ・・・これらの写真を、資料として使わせてもらっていいですか?前書きをしてるのですけど、文章だけだとなかなか読まないんですよね。
  やっぱり写真、イラスト、こういうものがないと。
言葉だけだとなかなか、通じませんね。百聞は一見にしかずですね。見たほうが実感わいてくるから。どうぞ、お使い下さい。
―― でも、資料としてまとめるってのは大変ですよね。
  好きでやっているから、やっぱり楽しいですよ。
―― 武藤さん、これはコンピューターを使って、見れるようにしたほうがいいかも知れませんね。スライドですと劣化しますが、コンピューターですとそれはないですからね。面白いですよ。
  吾妻公園の花の写真とかもありますね。これも昭和30年頃からあります。桐生の昔の写真もありますよ。お正月の写真とかもあります。
―― 保存状態が良いですね。
  よく写真屋に持っていくと言われますね。岡公園の前の石段は変わらないです。役に立つものがあったら使ってください。機関車などもありますから。
―― めがね橋の写真がありますね。これは今まで、一枚しか見たことないですよ。大変貴重な写真ですね。
  終戦後間もないので、何も無かった所もありますね。撮りたい場所が無くて、撮れない場所が多いんですけどね。
―― まだまだ、見たい写真ばかりですが、随分と時間が経ちました。本日は貴重な写真を有難うございました。



▲当時の桐生駅付近の写真を見る武藤さん。
 

▲天満宮御快調の時の花魁道中の写真を説明する武藤さん。
 

▲赤岩鉄橋と西桐生駅前の東映映画館。

 

【取材日時】 平成14年10月5日午後1時〜3時
【取材場所】 武藤撚糸工場・武藤圭介宅
【取材先】 武藤圭介(むとうけいすけ)
【生年月日】 大正14年10月29日(77歳)
【住所】 桐生市東4-3-23
【取材スタッフ】 石川佑策、藤井義雄、長田克比古、吉田薫人、安納正浩、周藤美保、塩崎泰雄

 

周藤美保
しゅうとうみほ
NPO:事務局
蚕の吐く糸が絹糸になるまでに、こんなに多くの人の手と工夫があったとは知りませんでした。織物が経糸と緯糸でできているという基本の中に、繊細で緻密な計算とアイディアがあり、それが素晴らしい糸や絵柄となっていく行程に驚くばかりでした。携わった方々に職人魂を感じ敬服しました。
お写真もカラーの鮮やかなこと。50年も昔のものとはとても思えません。武藤さんが「記録として必要」と考えられた先見の明は確実に貴重な財産になっています。自動車も走っていない土埃のあがる道に、現在にない豊かさを感じました。本当に貴重なお話しと財産に触れる機会をいただけたことに感謝しています。

安納正浩
あんのうまさひろ
群大工学部
生化3年
「新あすへの遺産」プロジェクトに携わり、多くのことを学んできましたが、取材を通して文字として漠然とあった風景が、視覚を通して「映像」として形になりました。武藤さんは多くの写真をお持ちで、かつてはその写真を使って映画を作りたいという夢をお持ちだったそうです。それら多数の写真は桐生の遺産にも見え、後世に残す手立てがあれば良いなと感じました。
繊維産地は、農業には向かない土地柄など、色々な条件があります。先日「バリ島の繊維業について」を放送大学で放送していました。バリ島では、今現在が(2002年)「ガチャマン」時代であり、かなり織物が盛んなようです。当時(昭和30年頃)の桐生も現在のバリ島のように栄えていたのでしょうか。
バリ島では、女工さんが年に1.2回お祭りの時などに自分の織った物を着ることがあるそうで、当時の桐生ではどうだったのか武藤さんにお尋ねしたところ、残念ながら桐生では織物に携わる人が「お召し」を着ることは無かったそうです。
当時の桐生では、ひとつの機屋[はたや]さんで八丁撚糸機[はっちょうねんしき]が1.2台あれば生計が立てられたほどで、天日干し中の糸が乾きもしないうちに機屋[はたや]さんに持っていかれるほどだったそうです。そこまで忙しければ、女工さん達が「お召し」着る暇も無かったのかもしれません。
当時は、もちろん自動車もほとんど無く。糸の輸送は自転車で行われ、武藤さんは重さ60kgにもなる糸を自転車で運ぶほどで、輸送もかなりの重労働だったそうです。
しかし、桐生の織物業も時を経るごとに衰退し、その背景には、戦後何も無い状態であったからこそ需要も多かった。日本文化の西洋化で着物を着なくなった。などが挙げられます。
現在(2002年)では、桐生の街から水車の姿はほとんど見られず、当時の織機の姿も消えつつあります。武藤さんの所では、中国製のレーヨンから刺繍用の糸をよっているそうです。
学生の私でさえ寂しさを感じるのだから、かつて織物業に携わった方々の寂しさも一入でしょう。時代の流れとは厳しいものだと感じました。失われつつある街の記憶を未来へ残す『新あすへの遺産』を通して、かつての「桐生」を先達の記憶を含め残していきたいと思いました。