広辞苑では『職人』を「指先の技術によって物を製作することを職業とする人」と説明している。本冊子の取材を通して知り合った方々は、昭和30年代のお召し全盛期をその言葉の通り指先で作り上げてきたと言っても過言ではない。 私達は店先に並ぶ製品を見て、それを選び、購入して生活している。その製品を辿ってゆけば必ずそれらを作っている人たちに会えるはずである。銀座のデパートに桐生のお召しが並んでいた時代があり、それらを作っていた方々がこの街、桐生にいたのだ。そして、本取材を通して、今現在でも当時と同じ方法で仕事をされている方がいることを知った。 その職人達の言葉を思い出して頂きたい。 「日本だって昔、生糸や絹織物を輸出して、儲かったというのは〜中略〜日本が安かったということですよ」(図案屋/保倉さん談)。 工業大国となる以前の日本を支えていたのは製糸業であった。明治期〜戦前の製糸業を例に取れば野麦峠のエピソードが思い出される。繊維産業の衰退は、ライフスタイルの変化と経済的な成長の裏返しの出来事だったのかもしれない。 「〜やっぱりこの世界は奥が深いと思うんだよね。それだけにやり甲斐もあるわけだし。何より面白さがあるから、張り合いっていうのも出てくるのかもしれないな」(紋切り屋/小堀さん談)。また、「自分にしかできないっていう自信はないですか?」という質問に対し、機械直しだった小平さんは『そりゃあ自信を汲んだうえでやってるんだよ〜略〜』と語った。 より高速に動く織機が開発され、繊維産業も時代が進むにつれ合理化が図られた。コンピューターが導入され、これまでに10日間かかっていた紋切りはわずか3分に短縮された。1分間に数十回だった織機の回転数も現在では500回転以上へと改良されている。 機拵えの佐藤さんは『〜桐生はたいしたものだと思いますよ〜中略〜そうなると桐生の出番ですよね』と参議院の壁生地が桐生で織られていたことを教えてくれた。 おそらく、何百年と積み重なった技術があったからこそ、現在でも桐生地域に高い技術が根付き、育っているのではないだろうか。それらの仕事をされている方は、競争力のあった時代を生き抜いてきた職人なのである。そういう方々が引っ張っている桐生の織物技術は、全国的に見ても今現在でもトップクラスにあるのだ。