――岩倉さんはおいくつまで森秀でお仕事されていたんですか。
岩倉 私はね、40歳までです。普通だったら65歳くらいまでできるんじゃないですか。
――いくつからやってたんですか?
岩倉 19歳です。
――若〜い。私たち19歳と18歳です。
岩倉 その前は、機織りするのがいやで工場に入ってたんですよ。だけど母や姉が機織りしてたんで、それで引きずり込まれたんですよ。結局は機織りするようになってましたよ。
――なんか一人で4台も受け持ったって聞いたんですけど。
岩倉 だんだん機織りさんが少なくなってきて、そうするとやさしい柄と難しい柄で分けて、手の早い人は他も掛け持つんですよ。ただ何もないのではなくて、縫い取りがあって、何本か杼を使って織るんだったらわりと時間が掛かるのですよ。だから掛け持ちなんですよ。それで柄も真ん中にあるとか、ちょっと動いても近くにあるとか、絵抜きを掛けてもらうとか。でも4台掛け持ったのは、ずっとではないですよ。3台は良くありましたけど。
――それでもすごいですよ。
岩倉 始めは1台でしたよ。機織りさんが多かったから。人が減って2台、3台ってなったんですよ。
――何か今で言うリストラをしたらしいですね。経営の事情もあって、1人に何台もやってもらうようになったとお聞きしました。
岩倉 私の時は、結婚する人も多かったんですけどね。
機織りをやろうって人は、糸繰りとかをしながら仕事を覚えたものですよ。あんまり1人に1人つけて教えるよりは、自分で見て覚えちゃいますからね。森秀は中学が終わった女工さんを、毎年10人くらい採るんですよ。それでまず糸扱いを覚えてその後から機織りを覚えていくんですよ。
――辞めたりする人がいたんじゃないですか?
岩倉 私がいた頃はすぐに辞めるてのは見てた感じではいないですよ。でも、何年かの内にやめた人はいましたけでも、そんなにいないですよ。
――ご家族も同じような仕事をされていたんですか?
岩倉 姉は森秀でしたよ。それで母は今99歳ですけど、この近くの機屋で織ってたんですけど、そこへ姉がお嫁に行ったら、うちの母の娘だったらすぐに働いてくれと言ったんですよ。だから、うちの母親がはた織っているのは見なかったですね。糸繰りはしてたけど。
――森秀で一番の稼ぎ頭だと聞いているんですけど。
岩倉 傷物を織らないようにすれば良いわけですよね。
何しろ経糸が切れないようにちゃんと綾下げって言うのをやってやるんです。あとシャトルの先端もちゃんと磨いておいてね。先のほうがささくれになったりすると、経糸の間を通ってゆく時に、経糸をババババッって切っちゃうんですよ。それを年中みたりしてね。
仕舞いには帯を織り終わったら「上にあがれ」といわれてね。普段は機械直しが上がるから、上がったことなかったんだけど、機械直しが来るのを待ってられないってんで、あがったんですよ。それで紋紙外してやったりね。だからなるたけ少しでも多く織機を動かそうとしていました。逆にのんきな人はのんきでしたよ。私の半分も取れない人がいましたもん。
――あのリズムを崩さずに1回でも多くあの音を鳴らすかですもんね。
岩倉 だから、どれだけ機をとめないかっていうのができるできないの差になるんかね。右の糸と左の糸を糸が終わったらすぐに入れてすぐに動かす。
――糸をつないだりするのも岩倉さんがやってたんですか?
岩倉 経糸が終わったときに4000本を2人で2000本ずつやるんですよ。それもね、なるたけ夜、終わるようにして2000本で2時間ちょっとかかるんですよ。それを人の台までやってくれって言われるときもあってね。そのうちによじり屋さんっていうのがでてくるんです。
――ああ、そのときはまだなかったんですか。
岩倉 はい。いなかったんですよ。よじり屋は1時間かからないですよ。4000本。
――えっ!はやい。
岩倉 架物のところまでギリギリ織っていけるんですよね。
――本当にすぐ織れるところまでをよじり屋さんがやってくれたんですね。
岩倉 そうでしたよ。けど、下手なよじり屋さんもいるんですよ。経糸がピンっと張っていて平らになってれば良いんですけど、たるんじゃってたり、半分がたるんでたり、逆に突っ張り過ぎちゃったりね。見本も織らなきゃいけないからあんまり無駄にできないんですよ。だから自分たちが坊主結びしてたころの方がきれいにできてたんだけどね(笑)。でも、なにしろ2時間以上もかかるから、よカり屋なら4000本1時間かからないでやっちゃうからね。
――うーん、やっぱプロだ。難しそう。
岩倉 難しいですか?結構易しいんですよ。
――前回のインタビューのに「傷ができたからほぐす」ってあったんですけど。ほぐしてまた続けて織るんですか?
岩倉 両方の耳(端)のところをはさみで裂くんです。それで、端を持っておいて先を紙やすりできれいにして、引っ掛からないようにしてほぐすんですよ。ほぐしたところからまた織ってゆくんです。
――ああ、んじゃ大変ですね。
岩倉 でも、織り前でわかればたいしたことないです。先まで織ってきちゃうと大変ですよ。あとで気付いたりね。管巻きの人が右撚りと左撚りを間違えて結びつけちゃったってことがあるんですよ。そうすると、そこだけ白くなるんですよ。右と左を間違うと、よりが戻って白くなっちゃうんですよ。それを知らないで織っちゃって最後に見ると、「あれ?右の糸なのに左の糸がまわってる」ってのがあるんですよ。気付かないでシボ取りすると半分くらいになっちゃう。それもほぐさなきゃいけないんです。ほぐすんだってのんびりやるんじゃないですよ。なるたけ機械を動かすようにね。一反何円ですもん。
――完全出来高制だ。傷がないものたくさん織ることが高給取りの秘訣だったんですね。
岩倉 慣れしかないですね。上手な人はなるたけ値段の良い柄をかけてもらえるんですよ。
――それは、できたらその分高く、お金をもらえるんですか。
岩倉 そう。
――俺じゃ無理だ。
(一同笑)
――工場は女性ばかりですか?男の人はいないんですか?
岩倉 いましたよ。小平さんみたいに機械直す人やあとは染め屋さんと糸の撚り屋さんが男の人。
――大きな工場は、自分の工場の中にいろいろな人を置いて一貫してやってたんですね。整理屋さんは別なんですか。
岩倉 整理屋さんは別なんですよ。上岡っていう整理屋さんは今でもやってるんですよ。
――上岡さんのところにはインタビュー行ってきたんですよ.すごい元気な人でした。
岩倉 整理屋さんやれば?
――いや、見ていてできないかなって思いますよね。紋紙作ってる小堀さんのところに行っても、あの技術はちょっとやそっとじゃできないなって思いましたし。
岩倉 小堀さんは今もお仕事されてるんですか?
――昔ながらの紋紙も、今もたまにはあるらしいです。けど、コンピュータも入ってます。両方でやってるみたいです。今では図案からコンピュータで興しているみたいです。紋紙もいらなくて、フロッピーを織機にかければ織れちゃうみたいです。
岩倉 今度、森秀さん行って見てみたいな。
――当時はミスしないで「出来て当たり前」っていうように言われていたようですね。
岩倉 傷ができると吉田さんのとこに呼ばれて怒られたり(笑)、シボ取りの時じゃないと分からないのもあったりしてね。
――それを織ってるときに見つけるもの、腕の良い機織りさんですね。
岩倉 赤い札と白い札で右撚りの管と左撚りの管を分けていたんです。必ず織り前に置いておくんですよ。見てないと管巻きさんが間違えたりするんですよ。だから少し白いな、変だなと思ったらすぐに右と左を見て確認。それが商売ですからね。もう間違えたら売り物にならないじゃないですか。だからそれは傷物で売って上手なお針屋さんがうまくそこだけをとって、仕立てればなんでもないんですけどね。
――B反っていうのは傷物ですか?
岩倉 はい。少し傷があるとB反になっちゃうんですよ。
――実際、一番稼いだ時期でどれくらい稼いでたんですか?
岩倉 いや、10万くらいですよ。昭和48年頃かな、でも、そんなに良くなかったと思いますよ。
――当時ですよね。うちの父親の初任給が1万8000円くらいだったらしいです。今から35年前、昭和45年前後です。
岩倉 私は30代は1万にもならなかったけど、普通はその半分もいかないでしょうね。
――当時ラーメンがいくらでした。
岩倉 えーと、40円。
――今の物価が10倍じゃないですか。初任給だって、今では18万くらいはありますよね。
岩倉 今なら良いお金ですけどね。そんなもんでしたよ。
――特許っていうのは会社でとるんですか。
岩倉 そうです。会社です。森秀では紗織りが特許でしたよ。でも、あれも大変でしたよ。
――5年くらいかかってできるようになったらしいですね。
岩倉 そうです。だって、よれてるところを無理してあけて、そこにシャトルを通すんですもん。そうすると糸がばさ〜って切れちゃうんですよ。
――それ切れちゃったら大変ですよね。
岩倉 それは、今度全部わり結びで結んで、そしたら織ってくんです。つないだところがあっちこっち出てきちゃったね、紗なんて透き通ってるものだから目立つんです。けど一応最後まで織りつけるんですよ。
――それは、傷物にはなっちゃうんですか。
岩倉 なっちゃいますね。
――では緯糸が終わったときはどうなんですか。
岩倉 緯糸が終わるとね、センサーかなんかでとまるんで、それで緯糸を変えるんですけど、耳のところだけ切っちゃうから大丈夫なんですよ。
――耳のところに糸の終わりと糸の始めが出るけど切っちゃえばわからないですもんね。んじゃ、縦は大変ですね。
岩倉 お召しだったら、シボを寄せちゃえばわからないんだけど、織ってるときは、ここが切れたってすぐわかります。そうすると、しょうがないから針でよせておくんですよ。
――それは私たちが見てもわかりますか?
岩倉 わかりますよ。少し繊維が光ってるから。だけど、反物になっちゃえば全然わからないんです。なるたけ経糸が切れないように切れないように。
――うーん。すごい神経つかいますね。
岩倉 そうですね。あと緯糸の撚り糸は、雨の降った時が取りにくいんですよ。撚り糸は水分を与えながら濡らして撚ってるもんなんですよ。で、それを天日で乾かすと、良い撚りができるんですけど、天気の悪い日はボイラー室に持ってって乾かすんですね。そうすると撚りが強くなっちゃうんです。織っちゃえば別にどうってことないけど、織る時にうまく糸が出てくれないんですよ。ボイラー室でもね、あんまり長く糸を乾かしてると乾燥し過ぎて、すぐ切れちゃうんですよ。そういうのが大変でした。
――自分が担当した織機で使う緯糸も自分でやるんですね。本当に「出来高」ですね。
岩倉 乾かしているのをある程度持ってきてね、蛍光灯が頭の上についてるんですけど、そこに挿しておいて、温かいうちに織るんですよ。
――やっぱり1人で4台を掛け持つのは大変ですね。全部に気使わないといけないわけですからね。
岩倉 糸はいっぱい干しておいて、箱に入れておくんです。交換用に2本ずつ蛍光灯のところに挿しときますけど、1本あれば結構織れたんですよ。
――当時は何時くらいからお仕事していました?
岩倉 朝は大体8時からってわけなんだけど、私の場合なんてすごかったですよ。まだ薄暗い時間から出てやってたときもありましたから。
――なんでそんな早く行ったんですか。
岩倉 だって織高でしょ。そこにきて日限があるんですよ。そうすると残業したりなんかってのがあったんですよ。朝も早く、夜も遅く11時くらいまでやってたこともありますね。
――日限ってのはその1日でこんだけ織らなきゃいけないってのですか?
岩倉 問屋に納めるのに何反必要ってのがあったんですよ。それが間に合わなくなると、朝も早く、夜も遅くってなるんですよ。そのうち、そんな長く働いちゃいけないってなったじゃないですか。1日8時間労働みたいのがあったんで。
――労働基準法みたいなのですよね。すごい時間働いていますよね。
岩倉 もう滅茶苦茶ですよね。
――誰が何を織るとかはどうやって決まるんですか?
岩倉 織機は誰々のってのがあるんだけど、織るものは、上の人が決めてくれるの。何が今度来るんだろうって思っている難しいのが来たり。
――でも、腕が良いから難しくないんじゃないですか?
岩倉 あのね。難しいっていう織り方があるの。
柄と柄が離れているのは無地の部分を織っている時に糸を取り替えれば済むから簡単なんだけど、でも、柄同士がくっついてるのがあるんですよ。そういうのは織機をいちいち止めて丁寧にやらないと綺麗に縫い取りが出来ないんです。ブクブク表に出ちゃったり、汚くなったり。
――小平さんも「木立が斜めに続いてる柄のものが一番難しかったねぇ」と言ってました。見た目だと、色がいっぱいある方が難しそうに見えるけどそうでもないんですね。
岩倉 それは易しいんですよ。だから、この前の地場産での展示会でも、えんじ色のドテラがあったじゃないですか。あれなんかはけっこう難しいんですよ。柄が斜めに入ってるから。難しいのは柄の部分だけですけどね。 |