――今回は、森秀織物で働かれていた皆様に当時のお話を伺いたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 吉田 それではお三方、自己紹介をお願いします。
小平 私は森秀織物で長年お世話になりました小平と申します。今は自営で機屋をやってます。家内と一緒に年寄りながら一生懸命やってる次第でございます。よろしくお願いします。
岩倉 岩倉と申します。森秀さんで20年お世話になっていたんですけど、機織りから離れてもう30年も経つので、ちょっとわからないこともあると思いますが、よろしくお願いします。
大阿久 大阿久です。私も森秀さんに長くお世話になりました。今は好きなことをして遊んでいます(笑)。どんな話ができるかわかりませんけど、よろしくお願いします。
――吉田さん、皆さんがいらした時はお召しを織られていたんですか?
吉田 ええ、そうです。3人ともベテランです。
小平 でも台数はそんなになかったよね。私が覚えてるのは、ジャガードの付いた織機も表の工場にはそんなに無くて、だいたい平織りみたいなのが多かったんだよね。戦後まもなくの頃だな。
今、私は72歳だけど、森秀には19歳で入りました。その頃は機織りも1人が1台を受け持っていたんだけど、どんどん織機が増えて、しまいには60何台になったんですよ。合理化も進んだし1人で2台、3台と持つようになっていったね。
吉田 社員が一番多かった時は120人でしたね。撚り屋と染め屋と整経屋が一貫作業でやってました。
小平 その頃は野球部なんてのもあってね。
吉田 そう、野球部は当時の社長が教育熱心で、若い人を育てるっていう意味も含めてあったんですよ。その野球部の人がそっくり試合に行っちゃっても、日常の仕事には影響が出ないように社員を揃えていましたから、実際には120人いなくても足りてたんですね。
小平 森秀の宣伝部として活躍してたね。バスを借り切って太田まで行ったこともあったよ。
吉田 そんなこともありました。
岩倉 段々と機織りさんになる人が少なくなりましてね。裏の工場と表の工場とあったんですけど、私は14台あった表のほうで4台持っていました。最後の頃はお召しだけじゃなくて、帯なんかも織ってたんですよ。
吉田 意匠屋さんの保倉さんがおっしゃってた龍村さん。あの龍村織物の帯を森秀で織ってたんですけど、岩倉さんはもうその専門でね。どのくらい織ったか覚えてないけど、かなりの量だったよね。
岩倉 随分織りましたね。あの帯は一年以上織ってましたからね。
大阿久 ラメも織ったりしましたね。あれはよかったよ。織り賃も良かったし(笑)。
小平 あれは特許を取ったんじゃなかったっけ。当時の森秀は特許が5つぐらいあったんじゃないかな。紗とか色々含めて。
大阿久 紗も結構織ってましたね。6ヶ月くらい。紗は会社が特許を取っていたからね。 |