桐生お召しに関わる職人たち
桐生お召しと職人の系譜
桐生市老人クラブ連合会/NPO法人桐生地域情報ネットワーク
桐生市在住
吉田邦雄氏
桐生市在住
小平長次郎氏
桐生市在住
岩倉カツ氏(写真左) 大阿久初江氏(写真右)
 今回は趣向を変えて、吉田さんの協力によって座談会形式にさせて頂いた。参加者は機械直しをされていた小平長次郎さん、機織りをしていた岩倉カツさん、大阿久初江さん、そして場所を提供して頂いた吉田邦雄さんの4名。
 終始和やかなムードで、時間が経つにつれみなさんのお話が弾んでいった。わずか2時間であったが、大変貴重な時間を過ごすことができたと思う。また、吉田さんのお宅でインタビューが行われたことで、それはまるで同窓会のようであった。

機械直し/小平長次郎氏
機織り/岩倉カツ氏・大阿久初江氏 インタビューより

――今回は、森秀織物で働かれていた皆様に当時のお話を伺いたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

吉田 それではお三方、自己紹介をお願いします。

小平 私は森秀織物で長年お世話になりました小平と申します。今は自営で機屋をやってます。家内と一緒に年寄りながら一生懸命やってる次第でございます。よろしくお願いします。

岩倉 岩倉と申します。森秀さんで20年お世話になっていたんですけど、機織りから離れてもう30年も経つので、ちょっとわからないこともあると思いますが、よろしくお願いします。

大阿久 大阿久です。私も森秀さんに長くお世話になりました。今は好きなことをして遊んでいます(笑)。どんな話ができるかわかりませんけど、よろしくお願いします。

――吉田さん、皆さんがいらした時はお召しを織られていたんですか?

吉田 ええ、そうです。3人ともベテランです。

小平 でも台数はそんなになかったよね。私が覚えてるのは、ジャガードの付いた織機も表の工場にはそんなに無くて、だいたい平織りみたいなのが多かったんだよね。戦後まもなくの頃だな。
 今、私は72歳だけど、森秀には19歳で入りました。その頃は機織りも1人が1台を受け持っていたんだけど、どんどん織機が増えて、しまいには60何台になったんですよ。合理化も進んだし1人で2台、3台と持つようになっていったね。

吉田 社員が一番多かった時は120人でしたね。撚り屋と染め屋と整経屋が一貫作業でやってました。

小平 その頃は野球部なんてのもあってね。

吉田 そう、野球部は当時の社長が教育熱心で、若い人を育てるっていう意味も含めてあったんですよ。その野球部の人がそっくり試合に行っちゃっても、日常の仕事には影響が出ないように社員を揃えていましたから、実際には120人いなくても足りてたんですね。

小平 森秀の宣伝部として活躍してたね。バスを借り切って太田まで行ったこともあったよ。

吉田 そんなこともありました。

岩倉 段々と機織りさんになる人が少なくなりましてね。裏の工場と表の工場とあったんですけど、私は14台あった表のほうで4台持っていました。最後の頃はお召しだけじゃなくて、帯なんかも織ってたんですよ。

吉田 意匠屋さんの保倉さんがおっしゃってた龍村さん。あの龍村織物の帯を森秀で織ってたんですけど、岩倉さんはもうその専門でね。どのくらい織ったか覚えてないけど、かなりの量だったよね。

岩倉 随分織りましたね。あの帯は一年以上織ってましたからね。

大阿久 ラメも織ったりしましたね。あれはよかったよ。織り賃も良かったし(笑)。

小平 あれは特許を取ったんじゃなかったっけ。当時の森秀は特許が5つぐらいあったんじゃないかな。紗とか色々含めて。

大阿久 紗も結構織ってましたね。6ヶ月くらい。紗は会社が特許を取っていたからね。


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はじめに
桐生お召しから龍村織物専属デザイナーへ
“柄”を生み出す演奏家
桐生で唯一の絹専門の染め屋
今もなお現役で筆を握る図案作家
2人の整経屋からみた現実と未来
高速化に対応して世界屈指の職人へ
桐生織物の職人たち
全盛期の頃の森秀織物
織物業界の新アイデア
機械直しの役割
合理化された織機
機織の仕事
完全出来高制の機織の給与
機織りの育て方
機械直しから紗織の名人へ
全盛期を支えたお召し織物の稼ぎ頭
経糸と共に繋いだ夫婦の絆
商品の価値を決める最終段階
桐生の織物産業を陰で支える
あの光景を再び。桐生で八丁撚糸機を動かした立役者
シンポジウム
職人が語る桐生お召しの系譜

ちょっと一息/コラム
お召しチャート
編集後記

 


今回の取材は森秀織物に勤められていた方の同窓会といった雰囲気で進んだ。
 
この座談会には当時常務を務めていた吉田さんの存在は欠かせない。