――太縄さんのところでは織機の部品などを売っていたと伺ったんですが、具体的にはどのようなものを扱っていたのですか?
太縄 私がまだほんとに小さい頃は、父親がどこで見つけてきたのか、小幅の織機なんかを運んできては通りに並べて、それを売って商売してましたね。戦後のスタートといったところかな。
物心がついた頃には、手機の機械を作るようになっていて、例えば木製の小さいジャカードというものがあるんですけど、そういうものもその頃に売っていました。
この近場だけでも14、5社ぐらいの織機メーカーがありましてね。塩谷鉄工所という織機メーカー、その他にもジャカードメーカー、管巻きのメーカーと、たくさんあったものですよ。
吉田 そうですね、桐生だけで全部のものがまかなえました。
太縄 今は自動車関係の部品メーカーがほとんどですけど、当時はやはり織物関係の機械メーカーがたくさんあって、管巻き機、織機、あるいは準備機だとか、それの下請けの工場も色々あって、それが現在の桐生の元となったんじゃないかなぁと思います。
今から35年ぐらい前でしたか、繊維製品と鉄鋼関係の生産額が逆転したのは。それまでは繊維のほうが上だったんですよね。
――当時の鉄鋼関係というと、鉄でも機械関係とか鋳物とかありますが全部やっていたんですか?
太縄 ええ、そうですね。場所も決まっていたわけじゃなく様々なところでやっていましたし。鋳物工場もたくさんありましたね。
今の桐生信用金庫のところには、桐生機械、今のキリウがあって撚糸機や管巻き機などを作ったりして、桐生以外の産地にもたくさん出していましたね。結構そういうところの繊維関係がだんだん衰退しても、自動車関係に変わっていったのかなと思っているんですけど、大げさですかねぇ(笑)。
――あとは生地屋さんで、木製の管のようなものを使っていたそうですが。
太縄 木管って言うんですけど今でも使ってますよ。特に帯などの耳が必要な織物には使われていると思いますがカーテンや服地、雛地その他ほとんどの織物は木管は使わなくなりましたね。今でも木管を作ってくれる職人さんはおりますよ。
――昔そういうものを作っていた方が、今はこけしを作っていると聞いたことがあります。一時期、米軍などに出すお土産品のほとんどが、こけしだったという時代があったそうですが。
太縄 随分ありましたね。
もともと織物の産地というのは日本中に散らばっていまして、北陸の方のメーカーがこっちに進出してきたんですよ。当初はどうやっても桐生の織物の真似はできなかったようですが、向こうも研究を重ねて次第にものにしていったんですね。それで桐生のメーカーが押されていって、だんだん凹んできてしまったわけですけど。
ボビンにしても桐生では全部手作りなんですが、北陸の方は精度の良い機械であっという間に作っちゃうんですよ。しかも機械だから均一なものが値段も安くできてしまう。徐々に桐生のものは時代遅れになっちゃいましてね。
吉田 太縄さんのところは織機から織物の準備機械からと、色々やっていましたよね。
太縄 織物の機械に使うもので、糸の太さによって重さを変える矢金という重りがあるんですが、松葉矢金というものを作っていた時代が長く続きました。1.5ミリぐらいの針金をまっすぐ切って二つに折り、そこへ「へルド」というのを通してハンダ付けでとめて作るんですが、どうしても生産性が悪いので、次第に1本矢金というものに変わっていったんですよ。それだともうちょっと太くて、2ミリから3ミリぐらいはありましたね。
他にもこの辺りで随分と作られていたものに、目板というのがあります。たくさん穴があいている板なんですけど、そこに糸を通して、その下の重りに繋げるための道具のひとつで、織物に合わせて穴の数を変えて使うんですが、当時は私のところでも作っていましたよ。 |