桐生お召しに関わる職人たち
桐生お召しと職人の系譜
桐生市老人クラブ連合会/NPO法人桐生地域情報ネットワーク
桐生市在住 小倉新二郎氏(写真上)・小倉タマ江氏(写真下)/小倉夫妻の自宅にて
 小倉新二郎・タマエ夫妻は、織機に通った経糸を繋ぐ、通称つなぎ屋。織機に掛かった終わりそうな経糸と新しいタマ(経糸)を繋ぐのが仕事である。後になってつなぎ方がよじりという方法に変わったことから、よじり屋と呼ばれていた。よじりとは新しい経糸と織機に掛かっていた経糸を人指し指と親指のハラでよじり、さらにそれを新しい糸へとよじりつける繋ぎ方である。
 新二郎さんは、『桐生繊維』に勤めていた頃は、若い従業員を指導する立場にあったとのこと。さらに、終戦後は『飯塚機業』へ勤務し、織機について色々なことを学んだり、つなぎ専門の仕事もされていた。
 タマエさんも、お召し全盛期から、広幅の輸出織物などのつなぎやよじりを専門に行ってきた職人である。
 お話を聞いていると、小倉夫妻が繋いでいたのは、どうも糸だけではなかったようである。

よじり屋/小倉新二郎氏、タマ江氏 インタビューより

小倉新二郎(以下、新二郎) 私ももう年を取ったもんで、4、5年前に辞めちゃったからなぁ。それで今日は機屋さんを回って、何か材料はないかと集めてきたんですよ(笑)。

――そうでしたかぁ、わざわざありがとうございました。早速ですが、まず整経とか引き込みなど色々な仕事があったようですけど、それらはつなぎ屋さんとは別のものだったのでしょうか?

新二郎 引き込みってのは糸を綜絖に引き込む仕事なんですよ。

――その人はまた別にいるんですか? 

新二郎 そうです。昔は引き込み屋というのが別にいたんです。色々と分かれていましてね。

――つなぎ屋さんは経糸を繋ぐわけですが、糸が終わったときに新しい糸をかけ直すのですか?

新二郎 終わる前ですね。
 一番最初は、みんな坊主結びというのをやっていました。これは2本の糸を結んで繋ぐ方法です。その次によじりといって、2本の糸を摘まんで、送られてゆく経糸によじり付けていく方法が流行ったんですよ。さらにしづめ式のつなぎ機というのが出て、私なんかも熊谷まで行って桐生繊維と小林当用に2台だけ買ってきましたね。これは両方の糸を機械でクルクルっと繋ぐんですよ。今はその機械も改良されて広幅のまま繋げるようになりましたけどね。
 つまり坊主結びからよじり、つなぎ機へとだんだん変化していったんです。けど今はほとんど機械ですね。

小倉タマエ(以下、タマエ) (糸を見ながら)二本繋ぎだと機械じゃ繋げないもんだよね。

――機械で繋げないものもあるんですか?そうすると、今でもそれは人の手でやっているんでしょうか?

タマエ そうです。それはみんな二本繋ぎですから人がやったものです。

――坊主結びとかよじりは糸さえあればここでもできますか?

新二郎 本当は竹の棒を挿して綾を作った方が繋ぎやすいんだけど…じゃあ説明してみましょうかね。
(実演しながら)
 本当は一本ずつが綾になっているわけ。それでこれから繋ぐ糸と、綜絖に通っている糸をそれぞれ一本ずつ出すんです。
 それで、まず綜絖に通っている糸を切るでしょう?そしたら2本を親指と人さし指で摘んでよじって…新しく繋いだ方の糸によじり付けちゃうんです。(小さなバックを取り出し)これが昔私が使っていた道具でね。何年も物置にしまっておいたものです。
 よじりをやるときは、手が滑らないようにこの粉歯磨きをつけました。今取り出したのはもう乾いちゃっていますが、水で練って手に付けて滑らないようにするんですよ。

タマエ 水を入れて練っておいたのがあるよ。ちゃんと用意しといたんだ。

新二郎 こういう風に水で練ったものを指先に付けないと糸が滑っちゃうんです。(再び実演)

タマエ これはねぇ、熟練しないとできないんですよ。

新二郎 (実演しつつ)さっきも言ったように、新しい糸と古い糸の2本を摘んでよじったのを、新しい方の糸によじり付けるんです。それで尻尾が全て糸が進んでゆく方と糸の進行方向と逆の方向に向くわけです。だから綜絖を通る時に取れることなく簡単に抜けるわけです。

タマエ これがよじり屋なんです。この場合左手でこれをやる左よじりの人と、右手でこれをやる右よじりの人とが組んでやるの。

新二郎 お召しみたいな小幅なものは一人で端からずっと繋いでいけるけど、輸入織物などの広幅のものになると右よじりの人と左よじりの人とで組んで向かい合ってやるんですよ。よじり付けた部分が全部同じ方向を向いてないといけないんでね。(実演しながら)このよじりの方法で繋ぐ以前は坊主結びという方法で繋いでいました。これだと一本ずつ両手で取りながらだから、そう何本もできないんですよね。その後よじりの方法が出てきてからは、たちまちよじり屋広がりましたね。
 私が現場監督をやっていたときは繋ぐ人が20人ぐらい居て「1時間に2000本よじれなけりゃ一人前じゃないんだぞ」なんて気合をかけていましたけど、実際はそんなにできません(笑)。それでも1500本ぐらいはよじれたもんですよ。

タマエ これは絹糸なんだけど、こうやって引っ張って繋ごうとすると指が切れちゃって、糸に血が付いちゃうんですよ。

新二郎 始めの頃は誰でも血が出ちゃってね。それで塩酸を薄くしたものを用意しておいて、括った糸の切りたい部分に付けるんですよ。そうすると糸が弱く和らぐんです。

タマエ (ある糸の束を指して)これが塩酸で切った後。そこの玉になっているところね。

新二郎 目薬のビンみたいなのに入っているもんだから、子供が勘違いして手を付けないように気をつけなきゃならないんだけど。

タマエ どっかの機屋であったよね。塩酸を目薬だと思って付けちゃった人がいて、救急車で運ばれたそうだよ。だからね、ビンにはちゃんと「塩酸」って書いておくの。

――絹は強いから塩酸で弱めないと指の方が切れちゃうんですね。

タマエ そう。何しろ何万本とやるわけだから。

新二郎 これを商売にすると一日中ずっとだし、それぐらいの数になっちゃうんですよ。

タマエ お召しぐらいなら本数が少ないからまだ良いけど、広幅だと二万本もあるから大変だよねぇ。ホントにくたびれちゃう。桐生は機屋さんがたくさんあったから色々回ったよ。

新二郎 今はほとんど機械だろうなぁ。お召しを織っている家もないだろうし。

タマエ お召しねぇ…。私なんかが行っていたときは織機がズラーっとあって、中学卒業した女の子たちが、お尻がぶつかるようなところでやっていたよ。

新二郎 当時は随分とあったんだけど、今はよじり屋やっている人も本当に少なくなったね。私なんかも、桐生繊維で何人か使ってつなぎをやっていたけど、だんだんと潰れちゃったんですよ。
 岡公園の前に、桐生で最初に織物をはじめた書上文左衛門の銅像があるでしょう。戦争前の話になっちゃいますが、その人が大東というのを俵屋のところでやっていて、私は兵隊に行くまでそこで働いていました。でも終戦後すぐは仕事もありませんでしたから、うちで百姓をしててね。そしたら、そこが桐生繊維という会社になって、昔の技術者を呼び寄せることになったんで、私のところへもわざわざ副社長がやって来たんですよ。それで復帰してからは現場監督をやっていました。
 その後桐生繊維がなくって飯塚機業というところに行ったんです。そこでは今度は機械のことを色々覚えまして、ちょっとした修理とかもやりました。とにかく織物に関しては、どんなことでもやってきたという感じですね。
 織機の方を織り部、緯糸を管に巻くとか、そういう準備をする人は準備と呼ばれていて、分かれてたんですよ。経糸は整経屋の仕事だったねぇ。

――整経に関しては整経屋さんというのが、別にあったんですか?

新二郎 そうですね。整経屋として整経だけをやってるところもありました。まあ桐生繊維だとか大きい機屋さんは、全部自分のところで抱えてやってましたけど。


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はじめに
桐生お召しから龍村織物専属デザイナーへ
“柄”を生み出す演奏家
桐生で唯一の絹専門の染め屋
今もなお現役で筆を握る図案作家
2人の整経屋からみた現実と未来
高速化に対応して世界屈指の職人へ
桐生織物の職人たち
機械直しから紗織の名人へ
全盛期を支えたお召し織物の稼ぎ頭
経糸と共に繋いだ夫婦の絆
つなぎ屋という仕事
機屋の陰の功労者
商品の価値を決める最終段階
桐生の織物産業を陰で支える
あの光景を再び。桐生で八丁撚糸機を動かした立役者
シンポジウム
職人が語る桐生お召しの系譜

ちょっと一息/コラム
お召しチャート
編集後記

 

本取材のために様々な道具を用意し、わかりやすい説明を頂いた。

身振り、手振りを交えながらお話してくれた新二郎さん。

粉歯磨きを指に付け、滑り止めにするとのこと。

よじりという繋ぎ方は何度やっても出来ない人もいたということ。

上は一括りにした経糸。これでおよそ1万本程あるという。下の写真は薄めた塩酸で切った切り口。

2本の糸を指先で摘んでいとも簡単によじりつけていた。