藤井 今は工業高校って言ってるけど、昔は桐生工業学校って言っていたん。私たちは5年旧制だから。あの桐生工業学校はさ、5年間行かなきゃならないから。
(1冊の本を取り出し)
藤井 これはあれだ、工業学校の教科書だ(笑)。
――見せてもらっていいですか?……あ、強撚糸機のページだ。
藤井 本には八丁撚糸はこれだけしか載ってないんだよ。あとはみんな洋式の機械なんだよ。
――『桐生式、強撚糸機』って出てます。この教科書は、桐生工業高校だけしか使ってなかったんですか?
藤井 これを作ったのは大阪の書店。使ってたいのは日本全国の実業学校だよ。定価が1円90銭だ。
(1冊のノートを取り出し)
藤井 これはノート。3年生の時の。今なら中学3年生だよ。
――あれ?「キリュウテクニカルカレッジ」って書いてありますよ?
藤井 そうだよ。これは2冊を合わせたんだけど。桐生高等工業学校、今の群大の工学部だがね。すぐ側だから、啓真寮の売店に行くと売ってくれるんだよ。それで買って来ちゃあ上の学校のノートだっていって張り合うんさ(笑)。
――(中を見ながら)今の学生よりも勉強してますね。
藤井 だって、落第があるんですよ。
――今もありますけど、それでも勉強しない子はいるから(苦笑)。(中を見ながら)すっごいきれいですね、これは織物の組織ですね。
藤井 そうですよ。
当時はね、就職組と進学組に分かれたわけ。それでね、私は就職組の1番の頭になったの。私が副級長で、進学組の人が級長だった。だから、最後の5年生だった私が校旗を持って、出征して行く兵隊を送ったんだよ。また、天神様がすぐ近くだから毎月1日には校旗持って全校生徒で戦勝祈願のお参り。
それで、5年目は2学期で授業が終わりだったん。それで就職先はどんどん決まっちゃてるから3学期は決まった工場、会社に行って研修期間みたいなもんだね、そういうのがあったんですね。場合によっては3月の卒業式には出れないから私が就職組の代表として答辞を読んだわけ。で、2学期末に仮卒業するわけです。
――学校では織物のことやっても、卒業してからは中島飛行機に入ったわけですね。
藤井 うん。15年の就職の時は、日支事変は始まっていたけど、開戦までは行ってなかった(第2時世界大戦昭和14年、太平洋戦争昭和16年12月8日開戦)。でも、そういう雰囲気にはなっていたんだよね。だから、織物はだんだんだんだん厳しくなっちゃったわけ。お召しってのは贅沢品だから窮屈になったわけね。だから、買う方も控えるがね。お召しみたいな着物は大臣様の奥さんの普段着かあるいは水商売の人が買う。水商売だってだんだんだんだん戦争が近くなってくれば、芸者だって居なくなるがね。
だから、織物関係は就職先が少なかったん。あっても軍関係の被服庁っていうんかな。要するに、兵隊の被服なんかを作るくらいでね、そういうところへも就職した人も居ますよ。
――その時はご実家では撚り屋をやってたんですよね。
藤井 だけど、そのうちだんだんだんだん仕事もなくなってきてたからね。だから中島飛行機に行ったんさ(なお、中島飛行機太田製作所に就職し、軍隊に入営するまでの様子は『新あすへの遺産~桐生織物と撚糸用水車の記憶~』61ページを参照下さい)。私は太田で下宿しちゃってたから月に1回くらいしか帰ってこなかったん。だから細かいことが分かんないんだけど、この間太縄さんも言ってたように、溶かして戦車作ったり、鉄砲作ったりするんで、織機を回収してたんだよね。同じように、八丁撚糸機も供出で出してたん。買い上げになるわけなんだけど、金属がほとんどないんだよ(笑)。
――輪の部分の枠やシャフトくらいですよね。
藤井 八丁撚糸機はほとんど木造なんだよ。あと工場のシャフト、モーター、プーリーとかも持ってかれたん。
それで1台分だけは出さないで、分解して隠してたんさ。供出で出しちゃったから、工場が空いちゃったがね。で、隣のうちでね軍隊で使うリュックサックを作っていて、「倉庫にしたいから貸してくれ」って言うんで、工場を貸したんだよ。だから、私が軍隊から帰ってきたときはそんなのが積み上がってたな。 |