藤井 これが軍隊関係の履歴書みたいなやつ。
昭和18年9月10日 |
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現役兵トシテ第八航空教育隊ニ入営 |
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茨城県東茨城郡長岡村(東部第103部隊) |
昭和18年9月15日 |
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満州第二気象聯隊ニ転属 |
昭和19年1月10日 |
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幹部候補生ヲ命ズ |
昭和19年2月20日 |
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甲種幹部候補生ヲ命ズ |
昭和19年5月1日 |
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仙台陸軍飛行学校に入学
(宮城県名取郡玉浦村) |
昭和19年8月31日 |
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仙台陸軍飛行学校卒業 見習士官ヲ命ズ
第一気象聯隊ニ転属(三重県鈴鹿市)
将校勤務ヲ命ズ |
昭和20年7月1日 |
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陸軍少尉ニ任ズ |
昭和20年7月13日 |
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第二陸軍気象聯隊ニ転属
(兵庫県美嚢郡久留美村)
中部第19567部隊米倉隊 |
昭和20年8月19日 |
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召集解除 |
藤井 幹部候補生に合格して一等兵からあっという間に将校。
――え、すごいな、出世街道だ。
藤井 主に入隊してくる新兵さんに約3ヶ月間軍隊の基礎教育をして、後に一般気象学と観測の仕方、無線機の使い方、暗号等を教育し、そして各部隊に送り出してやるわけ。
――将校ってことは、新しい人が入ってきた時にこれを藤井さんが読み上げたんですか?
藤井 うん。訓辞なんかする時に。これは原稿みたいに書いたノートだ。
(写真を見ながら)
――この刀を待ってる人達って?
藤井 将校。
――将校以上が刀を持ってるんですか?
藤井 そう。これはまだ私が見習い士官の時だから。だからあれ、服装が違うんだよね。(写真を見ながら)こっちが私より上役の人たち。これが私だ。これは中隊長かな。これが下士官で、これが助手みたいの。
――これ若かりし日の藤井さんですか。
藤井 そうですよ。
――かっこいいですね
(地図に書かれた寄せ書きを見ながら)
藤井 こういうのは戦友と別れるとき記念に書いてもらったん。知ってる人も死んだんだよね。
――死ぬかも知れないってときに書いたのか。言葉の重さが違いますね。これはどこの地図ですか?
藤井 これは全部南方の地図。将校はこういう地図を持っていたんだよ。
(以下写真を見ながら)
……これは教育が終わってみんなを送り出す時のお別れの写真さ。これはまだ私が習った時、一等兵の時だ。
だからね、地図にも書いてあるんだけど、これが経路それで天気図とかもあるん。気象兵だったからね。
(入営の日の写真を見て)
……これは、こんなように隣組の人とかに見送られて出征した時の写真。
……これは妹、昔のうちの庭かな。みんなに挨拶して、お礼言っている写真。
――(写真に添えてある言葉を見て)「再び帰らん」って言葉が悲しい。重いです。
藤井 で、これは幹部候補生に合格したとき。
――(写真を見ながら)わずか2人だったんですね、超優秀だ。
藤井 それでさ、もう一人の人も教官なんだよ。前橋の人なんだけど仙台の士官学校へ一緒に行ったの。その時の写真だ。私は南方要員として繰り上げで早く卒業できたん。気象関係の基地はその場所と満州にしかなかったんだよ。だから、鈴鹿市が第1気象部隊で満州が第2気象部隊。本当は、学校が終わったら満州の第2気象部隊に戻るわけだったんだけど、船が無いんで南方に行けないんだよ。だからとりあえず内地にいたんさ。でも、新隊員が入ってくるから教育があるんだよ。そのままいつちゃったんだよな。
正規の卒業生は船の準備が出来たら、私たちが教えた兵隊を連れてフィリピンかどこかに行った。それでどかちんくったり、潜水艦にやられてどんどん死んじゃった。だから、みんな散々な目に合ったんだよ。かわいそうで仕方なかった。
最前線の気象状況を知らせるのが気象兵だから国境地帯にいるわけ。第2気象聯隊のすぐ隣はソ連の領土だから、ソ連が入ってきた時にはまっ先にやられたわけ。
――気象聯隊は頭脳にあたる部分ですもんね。
藤井 だから、満州時代の戦友は散々な思いして帰ってきたって言ってたよ。
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