桐生お召しに関わる職人たち
桐生お召しと職人の系譜
桐生市老人クラブ連合会/NPO法人桐生地域情報ネットワーク

――当時、機屋さんはどのようにしてつなぎ屋さんへ仕事を依頼していたのでしょうか?

新二郎 昔はつなぎをする人が集まる場所が随分とあったんです。桐生にも5箇所ぐらいありましたね。私のところでも4人ぐらい集めて、機屋から依頼の電話が来たら人手を出すというふうにしてました。新宿の江原はお召し専門だったけど、そこへ繋ぎに行ったりもしたんですよ。

――それは昼夜問わずに連絡が入るものなんですか?明日の朝までに繋いでくれとか…。

タマエ そういう機屋もあったねぇ。

新二郎 機屋さんが忙しいと「納期に間に合わないかもしれない」なんてことになって、「今夜中に繋いでくれ」っていう電話が来ましたね。翌朝すぐに織り始められるようにって、機織りさんが帰った後に繋ぐことになるんです。

タマエ 当時、機屋が閉まるのが夜の7時半だったんですよ。それで「夕飯食べないで来てくれ」なんて言われて、あっちに着いてからご飯を頂いて、その後夜中の12時ぐらいまで仕事したもの。

――作業するのに暗くはなかったんですか?

新二郎 それは電気があったので大丈夫でした。私は年取っちゃったけど、メガネかけてやっていましたからね。これならよく見えるでしょう?

――小幅も広幅もどちらでも繋ぎに行っていたんですか?

タマエ そうだけど、広幅の方が本数も多かったし、お金にはなったね(笑)。

新二郎 糸なんかも、絹糸もあれば人絹もあったりと色々なんです。そのためにつなぎ屋は色んな道具を使っていましたね。(道具を取り出しながら)人絹だったらこういうふうに引っ張れば切れるんですけど、絹なんかの強い糸の場合は、爪切りの先のような鉄の刃に引っ掛けて切りました。そうじゃないと指が切れちゃうんですよ。

タマエ ちゃんと砥いでおかないとね。そのうち切れなくなっちゃう。

新二郎 これなんか昔使ったままだから、今はもう駄目ですけどね。あと鉄粉を使ったりしました。糸に鉄粉をつけてギュッギュッともむと、糸が弱くなるんです。そうすると手に負担がかかりませんからね。

――繋ぐときに糸が絡むということはないんですか?

新二郎 ありますよ。でも綾を頼りに端からずっと繋いでいけば大丈夫です。別の糸つけたりして間違えることもありますけどね(笑)。

――間違ったときはどうするんですか?

タマエ 2本繋いじゃったりしたときは、手の感じで分かるから良いの。ただ違う糸を繋いじゃうと、その場では気付けないから参るよね。

新二郎 お召しにはないけど、輸出物なんかだとアセテートと人絹を繋いじゃったりする場合があってね。それを織り上がってから染めると、もともと違う素材だから当然仕上がりの色にも差が出てくるんですよ。そこで分かって結局は不合格になっちゃいます。

――普通の人は糸の違いなんか全然分からないですよね。小倉さんたちは色々な糸を触ってきたと思いますが、糸や生地の違いについてはどうですか?

新二郎 糸だとものによっては触っただけでは無理だね。生地になれば整理もするし、あとは染めてみると分かりますよ。

タマエ (いくつもの糸を触りながら)織物というのは難しいですよね。だけどこんな良い技術がどうして韓国のほうにいっちゃったんだろうねぇ…。

新二郎 お召しなどの経糸にも太さがありまして、21中とか14中と呼んでます。私が飯塚機業にいたときは撚り機で撚っていたんですが、原糸の絹糸そのものからして、細い太いという違いがありましたよ。

――今は14中がほとんどなくなっちゃったらしいですね。

新二郎 そうですね。当時は14中も随分あったんですけど、織物の風味を出すために経糸も色々と変わってきたんですよ。太い糸を使うとどうしてもゴワゴワしてくるし、ふんわりとした風合いを出すために、細い糸を2本繋いで使う機屋もありましたね。

――昔は14中を3本使って経糸を作っていたという話を聞きました。それで太いものが出てきたので21中を2本でやったら、太さは同じでも織り上がった感じが違うようでしたね。

新二郎 ええ、風合いが違いますね。2本で撚るより3本で撚ったほうが、ふっくらしたものができるんですよ。それでそういう方法をとっていた機屋さんもあったようです。

――経糸を繋ぐ感覚は変わりませんでしたか?

新二郎 それは変わらないですね。3本と言っても実際はすごく細いわけですし。

――(糸の束を指して)これは何の糸ですか?

タマエ それはアセテートです。今日取材があるというので色々なところを回ってもらってきたんですよ。

新二郎 機屋さんが使わない部分を切って束ねておいて、何かに使えるだろうと取っておいたものですね。

タマエ 森秀なんかも私が行っていた時分は、染める人もいっぱい居たんですよ。それがだんだん減っちゃってねぇ…。
 今日も当時よく行っていた機屋さんから糸を頂いてきたんですけど、そこで「繋いでくれないかい?」なんて頼まれましてねぇ。私も一度入院して仕事辞めちゃったから断ったんだけどね。どこも年寄りばかりになっちゃいましたよ。

――そういう機屋では、織機はどんなものを使っているんですか?

タマエ 古い織機を使っているんだよ。

新二郎 最新式の織機がミタショーというところにありますよ。シャトルがものすごい勢いで両側から飛び出してきて、まるで機関銃の弾みたいな速さですよ。昔からの機屋は一部を残して新しい織機になってますね。

――織物一回りを織り終えるまでに、何回ぐらい繋ぐものなんですか?

新二郎 それは注文によってですね。例えば赤と白とで織るものとか、縞模様の場合とか注文に応じて変わってきます。あとは反の長さにもよるね。お召しは繋ぐ数が少ないから一人で行ってやれましたし。

――織機を一度動かすと何反単位で織るものなんですか?

新二郎 それもやっぱり注文で変わってくるみたいです。使う糸の量でも織れる長さは違うし、織機それぞれの性能というのもあるから。当然新しいものだとたくさん織れるけど、古い木製の織機だと、すぐに限界がきちゃいます。

――ところで、この糸の束で何本ぐらいありますかね?

タマエ それで1万本ぐらい入っているかな。これを繋ぐとしてもすごい量ですから指も切れちゃいますよ。痛くて痛くてねぇ。これでご飯を食べられるようになるまでは大変でしたよ。

新二郎 今は本当に機織りが居なくなっちゃって、お召し機屋なんてほとんどありません。あっても広幅だとか、帯やカーテンですよね。
 私が桐生繊維に勤めていた頃は、新潟の方からも働きに来ていました。女子寮、男子寮なんてあってね。だけど今は寮っていっても幾人もいないよな。

タマエ 桐生の人がやたら少なくなっちゃってるよねぇ。

新二郎 織物自体も今は輸入が多いもんね。ナイロンが少しあるぐらいで、絹も綿もほとんどやっていないですし。

タマエ 当時は朝早くに迎えが来てね。十日町の方も埼玉の本庄でも、どこへでも繋ぎに行ったもんですよ。

新二郎 昔は坊主で結んでいたから、よじり屋なんてのが本当に引っ張りだこでしてね。桐生繊維でもよじる人だけで、中学卒業した子が20人ぐらい居ました。それで1年か2年でよじりができるようになると、今度は機織りの方へ回されるんです。いろんな部門があるからね。
 学校を出てすぐに織り部に行っても、織物がどういうものか分かりませんから、まずは経糸を繋いだり糸繰りをさせて、糸に慣らせなきゃ駄目なんですよ。

――よじりの仕事は、右よじりと左よじりに分かれてやるということでしたが、左右のどちらか片方だけを習得すれば良いものなんですか?

新二郎 そうですね、左右両方を習う人もいますが、大概は片方だけしか教わりません。だから組んでいる相手と年中二人で仕事するんですよ。

――ずっと一緒にいると、組んでいる人と仲良くなったりすることもありますよね?

小倉夫妻 そう、だから私たち結婚したんじゃない。
(一同笑)

 小倉夫妻のお話を聞いていると、いわゆる『職人』といった頑固さや一本気なイメージとは、少し何かが違う気がした。別の言葉を見つけるとすれば、『仕事人』と言い換えられるだろうか。特にタマエさんは、子育てと並行してお仕事をされていたため、当時の生活の様子が窺えるような語り口であった。
 ご夫妻が今回のインタビューのために当時使っていた道具や、以前お仕事をした機屋を回って糸をご用意くださったこと。またご自分たちの仕事をより分かりやすく「実演」という形で示してくださったことは、私たちにとっても貴重な財産となり、それは正しく本企画が目指しているところであった。この場をお借りして、そのすべてのご厚意に心から御礼申し上げたい。
 タマエさんは新二郎さんの指導によってつなぎ屋になられたとのこと。インタビューを終えて、ふと「お二人は自らの赤い糸をも繋ぎ合ったのだな」と、夫妻というものの温かさに感じ入った。 
 
◆インタビュー取材データ◆
【日時】2003年7月8日(火曜日)20:00〜21:00
【場所】小倉氏宅
【インタビュアー】長田克比古、小保方貴之
【撮影等】野口健二、吉田薫人
【撮影協力】桐生キネマ塾

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はじめに
桐生お召しから龍村織物専属デザイナーへ
“柄”を生み出す演奏家
桐生で唯一の絹専門の染め屋
今もなお現役で筆を握る図案作家
2人の整経屋からみた現実と未来
高速化に対応して世界屈指の職人へ
桐生織物の職人たち
機械直しから紗織の名人へ
全盛期を支えたお召し織物の稼ぎ頭
経糸と共に繋いだ夫婦の絆
つなぎ屋という仕事
機屋の陰の功労者
商品の価値を決める最終段階
桐生の織物産業を陰で支える
あの光景を再び。桐生で八丁撚糸機を動かした立役者
シンポジウム
職人が語る桐生お召しの系譜

ちょっと一息/コラム
お召しチャート
編集後記

 

お二人共仕事を辞めてから数年経ったというが、体は仕事を忘れていなかったようである。

絹糸やアセテート等の化繊など、扱う糸は様々だったということ。

1万本だと二人で組んで3時間半ほどで繋げたということ。

お二人のやりとりから仲の良さが伺えた。