吉田 競争時代になってきますと機屋同士で、ちょっとした揉め事のようなことも起こりましてね。「これはうちが特許申請を出してあるんだ」と、同じものを後から模倣して織ったのに、クレームを付けてくるんですよ。ところがどっこい森秀の場合は出してあるんじゃなくて、もう取ってあるんだから(笑)。特許番号も来ていたし、相手によってはその特許証書を見せてお引取り願いましたね。ですから、特許はよそを抑えるだけじゃなくて、自己防衛のためにも必要だったんですよ。
十日町なんかも挑戦してきたことがありましてね。あれは影縫いについてでしたが、まぁ向こうが分かって引き下がってくれたので、法廷にまでは行かなかったですけど。
うっかりすると、こっちが特許を取って作っていても、流通されているものを買って、分解、研究して織るなんてこともあってね。真似するほうも本職だから、すぐにできちゃうんですよ。そんなこともあったので、パテントは抑えておく必要がありましたね。しかし、産地の発展のためってことで森秀は桐生の業者には開放していました。
小平 その他にも機械のほうの実用新案とかがありまして、紋紙2枚使うべきところを、節約して1枚で間に合わせられるようにとか研究していました。
岩倉 それから、逆転というのもありましたね。
小平 そうそう。三角の柄でいうなら、逆に回すと逆三角形に織れるんですよ。それを利用して着物の前身ごろと後ろ身ごろをちゃんと織れるようにしたんだよね。
吉田 ジャカードの紙を逆に回せば良いんだと考えついたわけですよ。でもそうやって無理をさせていたから、壊れるとなかなか直らなくてね。
――機械が壊れたら機械直しさんにお願いしていたんですか?
吉田 そうです。
大阿久 機械直しさんも大変なようでしたよ。時計だって逆に回したら壊れちゃいますよね。それを直しているようなものですから。でもそのうち機織りさんも機械直しさんも慣れてきて、段々と壊れることも減ってきましたけど。
岩倉 最初は周りにうんと紋紙が置いてあってね。始めに前身ごろ用の紋紙をセットして、後身頃を織る時はそれを外して、別の紋紙をセットしてから織っていたんですから。それが逆転で前も後ろも織れるようになったので、紋紙の量もずいぶん減ったわけですよ。
小平 そうやって紋紙を節約したんです。6000枚使うところを4000枚で済ませたりね。 |