桐生お召しに関わる職人たち
桐生お召しと職人の系譜
桐生市老人クラブ連合会/NPO法人桐生地域情報ネットワーク

――当時の給与形態っていうのは、どういうものだったんですか? 

吉田 男子工員はだいたい月給なんですよ。日給というのもあったかな。

小平 日給月給だったんだよ。

吉田 女の人は1反がいくらという織り高でしたね。難しい織物だとグンと高くなるし、比較的易しい織物は標準という具合に、ものによって違いがありました。これはどこの機屋も同じ方式でやっていたようです。

岩倉 おかげさまで私なんかは、良い仕事をやらせてもらっていたから、あの時分でも2、3万は多く頂いていたみたい。

吉田 やっぱり難しい仕事がこなせれば、その分の報酬があるってことですよ。執行部の者も差別っていうんじゃなくて、あの人ならこれを織れる、この人じゃ織れないと判断はしていましたし。

小平 岩倉さんは、かなり取っていたね。男の人より稼いじゃうんだから。森秀一の機織りでしたよ。

岩倉 当時はね、競争心みたいなものがありました。私には姉がいたんですけど、その姉に負けたくないっていう思いが、どうしても出てきましてね(笑)。でもやっぱり勝てませんでした。私が1番になったと言っても、それは姉がいなくなってからの話ですよ。

――その頃は月に何反ぐらい織っていたものなんですか?

岩倉 どれくらいでしょうねぇ。ものによって1日で織れるものと織れないものがありましたからね。

――長いものだと3日とか4日かかるものなんですか?

岩倉 そんなにはかからないですね。だいたい1日半から2日が標準だったかな。


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はじめに
桐生お召しから龍村織物専属デザイナーへ
“柄”を生み出す演奏家
桐生で唯一の絹専門の染め屋
今もなお現役で筆を握る図案作家
2人の整経屋からみた現実と未来
高速化に対応して世界屈指の職人へ
桐生織物の職人たち
全盛期の頃の森秀織物
織物業界の新アイデア
機械直しの役割
合理化された織機
機織の仕事
完全出来高制の機織の給与
機織りの育て方
機械直しから紗織の名人へ
全盛期を支えたお召し織物の稼ぎ頭
経糸と共に繋いだ夫婦の絆
商品の価値を決める最終段階
桐生の織物産業を陰で支える
あの光景を再び。桐生で八丁撚糸機を動かした立役者
シンポジウム
職人が語る桐生お召しの系譜

ちょっと一息/コラム
お召しチャート
編集後記

 

岩倉さんはたくさんいた機織りの中でも特に優秀な機織りさんであった。