岩倉 私が機織りを始めたときは、広沢の方の帯屋さんに行ったんですよ。姉も一緒でしたけど5時くらいに始めちゃうんですよね。私は、眠くてね。まだ管巻きの時だったから夜のうちにいっぱい巻いとくんです。特に、姉さんたち次の日の朝に織る分を巻いておいてね「おはようございます」って行くときには朝ごはんだったね(笑)。
それで、こっちに帰ってきて、姉は森秀に入ったんだけど、私は入れなかったんですよ。管巻きまでしかしたことなかったからね、それで別のところに2年と3ヶ月いて、紋を織れるようになってから森秀に入ったんですよ。森秀に入ってからすぐに機持ったんですけど、難しかったですね。ぜんぜん違いましたから。
――織り方なんかも変わってくるんですか?
岩倉 全然違いますよ。森秀の前はハンカチとかを織ってたとこなんですけど、少しくらい傷になっても、「いいよ、いいよ」って言われましたよ。よく森秀に入れましたよね。
――んで森秀に19歳の時に入ったんですね。
岩倉 はい。私なんか高校なんかでなかったですもん。
――あ。そうなんですか?でも当時は多かったのかな。
岩倉 私が小さい時は第一高等小学校っていって2年しかなかったんです。それで1年経った時に3年までの中学になったんですよ。けど、2年までいくと3年までやらなきゃならないってわけで、ものすごい仲良かった友達と一緒に1年で辞めちゃったんですよ。学校あんまり好きじゃなかったしね。
友達はすぐちゃんとミシン工場に入ったんですけど、私行くとこないんで、しょうがないから遊んでたんですよ。そしたら近所のおじさんが、1丁目にあった縫製屋さんの偉いさんだったんで、そこに入れてもらって2年8ヶ月、アイロンかけをやってたんですよ。例えば、Yシャツの下ごしらえ、襟のアイロンかけたりっていうかんじ。それで今度は親が「そんなことしててもしょうがない」って機屋にね。それから機織りですよ。
――すごいなぁ。難しくなればなるほど性にあってたんですね。でもその位の年頃のときは遊びたいですよね。
岩倉 う〜ん。それであの時分はダンスとかが盛んだったんですよ。それで今、セントラルってパチンコ屋さんがあるでしょ。あそこがセントラルってダンスホールだったんですよ。でも森秀さんに行くようになってから、そんなこと出来なくなってね。けど、森秀さんのところは楽しかったんですよ、なんにしろ、良いものどんどん織れたじゃないですか?みんなで太田に野球の応援に行ったり、1年に2回旅行もあったし、京都やいろんなとこに行きましたね。北海道は行きませんでしたけどね。
――とりあえず、陸でつながってるところってことかな。
岩倉 だって、新幹線なんてないじゃないですか。1回京都に行ったとき、ひどい目にあったんですよ。普通の鈍行で行ったんだけど、眠くて仕方なくて、みんなが歩くところに新聞紙敷いて寝ちゃったり(笑)。
――向こうで工場の見学に行ったりしました?
岩倉 行かなかったです。
――んじゃ、本当に観光かぁ、いいなぁ。
岩倉 昔「源平芸能合戦」っていうテレビ番組があってね、森秀が着物作ってくれて5人くらい出たんですよ。東京ブラウスってところと戦いました。
――どうだったんですか?勝ったんですか?
岩倉 同点だったの(笑)。
そんな感じだったから、森秀にいて機織ってても辛くはなかったし、楽しかったし、あっという間の20年ですよ。 |