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吉田さんご夫婦 |
本冊子で裏方としてご協力頂いた吉田邦雄さんは、森秀織物の元常務。17歳から59歳まで森秀織物に勤務し、その間におおよそ300人の従業員と仕事をされてきた。
もともと社長の親戚筋にあたるということもあって森秀織物で工場長として勤めだしたが、そういう方が工場にいるというのは機屋の従業員にとってはやりづらい点もあったようだ。
「入ってくる新人に『あれは社長の親戚だから』なんて言う人がいましてね。だから工場に入ってゆく時はわざとせき払いしたりね(笑)。そうすると雲の子を散らすように集まっていた人たちが仕事に戻ってゆくんですよ。けど、そういうのは見て見ぬ振りってのかな、気付かない振りをしていました」(吉田さん談)
当時の森秀織物の社長は、吉田さんのいとこで、県の教育委員長を始め各種団体の役職を15〜20も兼任するという超多忙な方であった。そこで、常務となった吉田さんはその留守を預かる立場になってゆくのである。吉田さんのお仕事は問屋回りや、苦情処理、方々に打ち合わせに行ったりと、対外的なことももちろんだが、工場の中にも仕事はあった。
「私が唯一できなかったのは、八丁撚糸機の切れた糸を繋ぐことでした。それ以外は染め、整経、機械直し、架物すべてを一通り把握していました。ですから、忙しい時にはその工程を手伝ったりしてましたよ」(吉田さん談)
毎年毎年新人が入ってきて、その指導をしてゆくわけだから、それが故の苦労もあった。
「やっぱり、身内がいないとやりにくい部分もあったんだと思います。最初から難しいことを言わないといけない立場でしたよ。忙しくなれば辞めたいって人もいましたし、旦那(社長)にちょっと言われて辞めてゆく人なんかもいましたね。だからそういう場合は、その中間に入って話を聞いてやるんです。そうすればやんわり伝わりますからね(笑)」(吉田さん談)。
そんな仕事ぶりを見ていたのは東京の問屋さんであった。
「東京には週に2〜3回行く時期もありました。ある問屋に『資金を出すから機屋をやって独立してみないか?』って言われたことがあったんです。でも辞めるわけにもいかないからね」(吉田さん談)。
吉田さんの問屋に対する信頼の高さが伺い知れるエピソードである。
また、機屋で仕事をしていたからこそ得た視点というのもあるようだ。長年に渡って勤務されていた方は森秀織物の気風というかそういうものを理解している人が多かったというが、それ以上に、機織りさんが女性だけにおかみさん(社長の奥さん)の存在も大切だったようである。
「社長業ってのがあるから、機屋はおかみさんがもたせるようなところもあるんですよね。中学を卒業した人から申し込みがあって、中には北陸や新潟から来る人がいた機屋もあったようです。そういう若い女性ばかりですからね。だから、旦那がいて、おかみさんがいて、機屋があるって言ってもいいかもしれませんね」(吉田さん談)。
だが、それだけではない。
「辞めたいとか辛いとか、うちに来てそういう愚痴をこぼしていた人もいましたよ。吉田さんのところに行けば話を聞いてくれる。会社に勤めている立場ではないので言いたいことが言えるってね(笑)。だからね、『吉田さんちがあったから勤まりました』とか『食べさせて頂いたおでんの味が忘れられません』って手紙をもらったりしましたよ」(吉田さんの奥さん談)。「締めるところは締めて、来た時はいくらかいろんな話をして、それで楽しく帰れるようにしていました。家内も『また遊びに来てね』なんて言ったりしてね」と吉田さんも語った。
全盛期の森秀織物の陰には、おかみさんと吉田さんの奥さんの2つの内助の功があったのである。/(貴) |
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