――躍動感っていうか勢いがありますもんね。ノッてるなっていう(笑)。
石川 そうそう。これを描いている時は、正にノッてるっていう感じだったな。色は全色作ったし、配色だって全部頭に入ってる。後はもう5枚なら5枚並べて同じ色を描き進めるだけ。パッパッパッパッっていう具合にね。
――やっぱり、そういう時って仕事が楽しいですよね?
石川 それがさ、面白い話があってね。
上野の美術館に持っていく前日、図案をみんなで持ち寄ったんですよ。入札の番号札を付けたり準備するためにね。その時他の人の作品を見ながら、「あっ、あの図みたいな調子というか勢いが俺のにはないな」っていう一品を見つけてね。「よし、まだやれるぞ。違うものを描いて持っていこう」って、その晩帰ってきてから一気に5枚くらい描いたんだよ。
黒ならまず黒地塗りして、それが乾かないうちに違う絵の具で描き始めると、周りに滲んでくるでしょう。で、乾いてきたあたりに描いた線は滲まないから、その部分はくっきりと強く出る。そうすると、こう奥行きが出る、写真みたいに奥の方がぼやけて手前が引き立つのと同じ。そういうのを5枚出品して、その翌日に上野の美術館へ行ったら、驚いたことに図案が無いんですよ。みんなが「お前すごいの出したな」って言うもんだから、探してみたら1点だけ残ってた。聞けば十日町の機屋さんが、他の4点は前の日に持って帰っちゃったんだって。
さっきも話に出たように、どこも自分だけで図案を独占したいから、出品準備で掛けられた瞬間に外しちゃったらしい(笑)。入選作品っていうのは、各産地から来た審査員が投票して決めていくんだけど、その時投票されたら困るっていうんでね。当時の機屋さんはお互いに競争だったから、良いものがあれば権力を行使して飾るのを止めさせちゃう。まあ審査員には、それぐらいの特権があったってことだね。結局一晩で4枚も売れちゃった。あの時の図案は13000円ぐらいになったかな。昭和30年代始めの頃だった。
本当に当時は面白かったな。八王子で仕事をしていた時は、機屋さんが、「石川さん、帰りの列車が重たいって叫んでるよ」って言うんだよ。さんざん八王子のお金を集めて帰るからってことらしい(笑)。
今考えると織物が盛んだったあの時分は、夢みたいですよ。
――相当、秘密主義だったんですね。
石川 もう絶対秘密だったね。ある機屋さんになると、見せろって言われても見せないでいると、家に上がり込んで押入れまで勝手に開けたもんね。「ここに隠してあるんだろう」とか言ってさ。同じ時に2〜3人かち合って訪れた時など、みんな揃って黙秘権ですよ。どっちが先に諦めて帰るかって状態。織物が盛んな時分は織物屋さんだけじゃなくって、我々も良かったな。
――今までに、どれぐらいの図案を描かれましたか?
石川 そうね、何万枚だろう? だって(昭和?)29年頃から始めて、ずっと40年、50年近くまで描いていたんだから。
その後織物が駄目になったんで、今見せるけど生地に直接絵を描くようになったんだよ。
――アイデアが出てこなくて、詰まった時期とかもありましたか?
石川 そりゃあ、ありましたよ。今だって橋本さんの所に行って、茶碗の裏の柄がいいなって思ったり、道を歩いていても、例えばバスを待ってる女性の服の柄が良かったりすると、ついメモしちゃう。
いつだったか名古屋へ行った時は、駅で丁度私が描いた着物を着ている女性を見つけてさ。その人の連れが良いものを着ていたから「すみませんけどスケッチさせてください」って言って、ちょっと手帳に描かせてもらったりしたよ。
(引出しから昭和30年頃の手帳を出す)
ここに当時の手帳がありますよ。例えばデパートなんか行っても、こうやってちゃちゃっとスケッチしてね。メモしてあれば後になっても思い出して描ける。そうしたちょっとしたことが商売に繋がったの。
――見てもいいですか?(手帳の1冊を手に取りながら)
石川 いいですよ、別に。ただ我々にしか判らないだろうね。そういうのは勘で描いちゃうから。
頭の中は絵のことばっかりですよ。だからよく親に「お前は、ご飯済ませりゃあ、すぐ机の前に座って」って言われたもんだよ。みんなが居間の方に居ても、すぐに机に座り込んじゃう。癖みたいなものだな。まぁ心からここに座るのが好きだったって言えばそれまでだけどね。 |