石川 この仕事に入る前は色々したものね。
戦中、戦後まもなくは仕事そのものがない時代だったから、土木作業もしたよ。でも結局絵が好きだから、この道に入ったんだよ。私は18歳で兵隊に行ったんだけど、その時も絵の道具持って行ったぐらいでね。
――その時の絵って残ってないんですか?
石川 ないよ。昭和22年の水害の時、ここの前の方に住んでたんだけど、家ごと流されて丸裸になっちゃった。その時絵の具から何からみんななくした。でも当時の本が1冊残ってるんだよ、図案の本が。思えばあの時代から図案の本っていうのは在ったんだね。その本をめくると、いまだに中に泥とか付いてるんだよ。
(本棚を指しながら)
その辺りに桐生織物学校とか群大、それか工業なんとかって書いてある本ないかな?それね、みんな探し出してきたんですよ。もう古本屋だの歩いたり、直接学校へ行って貰ってきたり。そういうのは勿体無くて捨てられないね。(水害の写真を見せながら)
今ね、桐生市の水害の資料を編集してね。近いうちに本にして出そうかと思ってんの。
これなんて今の、なんて言ったっけな…。コロンビアじゃない、新川のかみからこっちにある、あの通りは…そう、コロンバス通りですよ。
…縁石がこれだけ掘られちゃったの。桐高の方からこっちの桐生側に川が氾濫して水が流れてきて、こんなに崩れちゃった。
…これは広沢だ。一丁目だから錦桜橋のかみの方だね。桜木町なんて今の錦桜橋渡った先だけど、とにかく水が流れ込んできちゃって、すごかったんだから。
この間、ある方が持っていた、当時の写真が出てきたんですよ。桐高がここだから、ちょうど今の消防所の辺りかな。そっちの方から渡良瀬川の水が、どんどん桐生に流れ込んできたの。
…これは新川球場の裏口。スタンドも崩れちゃったんだよね。それから、角にあった境野の交番のところ。車も軒までせりあがってきちゃってた。このへんだって、流木だのなんだのが庇の辺りで溜まっていたからね。…そっちは足利に行く時の境橋でしょ。もう橋っていう橋はほとんどやられちゃったな。当時の水害の力って言うのは、今では考えられないでしょう。
――あ、それでダムを作ったんだ。
石川 まあ、そうでしょうねえ。
もう水害を知ってる人がこの町内にも居ないんですよ。それで、ちゃんと残しておこうって相談して始めたんです。この辺の人も流されて亡くなった人もおりますからね。
今ちょうど暇で仕事がないからできるってこともあるけど、こういう事も大事だから。後世に残したい。できるかどうかわからないけど。
――行方不明の方ってどれくらいいたんですか?
石川 えっとね、亡くなった人たちの碑が、どっかに建ってたな。
(資料を探し出して)
これだけの人数なんだよ…何人だ?100ちょっとか。小学生だのって子供も含まれているんですよ。一家そっくり流されちゃったっていう人たちとかね。そしてまだ行方不明の人が居るわけで、その名前は載ってない。行方不明の場合、死んだとは確認できないわけだから死亡診断書がない。それで死亡届けが出せないまま、今でも籍が抜けないって人もいる。 |