――当時の技術というか、仕組みは今と同じようなものだったんですか?
佐藤 紋織りも昔と今では違いまして、ジャカードの経糸を上げ下げさせる仕組みもかわりました。例えば、昔は糸を下ろす時には鉄でできた天金を用いて、重力によって下げていました。しかし今はスプリングを使って、その力で強制的に下に引っ張るんですよ。昔の天金を使った仕組みを消極的と言って、今の仕組みは積極的と呼ばれています。
――なぜそのように変わったんでしょうか?
佐藤 天金を使う方法だと、時々隣り合う糸や分銅に引っ掛かって、ジャカードの動きを正確に経糸に伝えることができなくなったりしました。スプリングで下に引っ張るような仕組みになってからは、それもなくなりましたけどね。
――織機が高速になってきたことも、その理由の一つなんでしょうね。
佐藤 そうですね。
あと日本の産地というのは尺貫法を使ってるところがたくさんありましてね。要はいい加減な計り方なんですけど、例えば桐生では鯨寸、八王子は算、京都は曲寸、試験場はセンチメートル、足利はインチを使っていたそうです。どれも正確な計測法ではありませんけどね。
だいたい白人の場合は12進法使ってるから8が基本になるんですよ。だから計算が遅くなっちゃうんだけど、それで彼らが作ったジャカードっていうのは、8を倍にして16とか、全部8で割れる数なんですね。
それに対して、今のアメリカなんかでもコンピュータ関係で一番頑張っているインド人。彼らは、10進法を使っていますよね。ちょっと仏教の話になっちゃうけれど、お釈迦様の蓮があるでしょう。あれ、周りに9つあって真中に1つで合計10個なんですよ。それで10進法ができたわけなんですが、お蔭で仏教国の人は、ものすごく計算が速いですよね。他にも56億7千万年後に弥勒菩薩がお釈迦様に変わると言われています。その56億7千万っていう数字は9で割り切れて、答えは偶数になるんですよ。
――数字というのは、そんなに重要な要素なんですか?
佐藤 ええ。織物を作るにあたっての頭脳部分であるジャカードの口数が、9と7で割れる数、しかもその答えが偶数であるというのは、我々の商売上すごく楽で魅力的なことなんです。例えば口数が5040なら9で割ると560、1680なら7で割ると240というように。
ところが日本の場合、特に金襴帯関係は5が基本です。4本が紋糸で1本がとび糸になるんですね。なぜ5本かというと帯や金襴は横に織っていくんですが、上下を支えるものがないと糸がバラけちゃいますからね。それで1本のとび糸で抑えるわけですよ。
日本の織物というのは例えば密度が100本だとすると、生機の場合そこからいくらか荒くして、90何本で織りますよね。海外では更に数を一割くらい加えますから良いものが上がります。
――ジャカードそのものに、今と昔で違いはあるんでしょうか?
佐藤 昔は一つの織物を織るのに大量の紋紙が必要でした。それが今ではジャカードも進化しまして、フロッピー1枚で何万枚もの紋紙の役割を果たすようになったんですから、たいしたものですよ。その点が一番大きく変わったところでしょうね。基本的な経糸を上下させる架物には、大きな違いはありませんけどね。
――織物産業を以前から見ていて、業界自体の推移はいかがですか?
佐藤 もちろん、機械が変わって高速で織れるようになったってのはあるけど、今の織物業界は中国に食われていて、紋織りも終わりに近づいているんじゃないでしょうか。日本はあの時代に比べると、だいぶだらけてきてしまっています。ジャカードはフランスが作ったわけですが、フランス人というのは遊び好きで、あまり勤勉じゃありませんよね。そうこうしているうちに結局スイスに買収されてしまいました。イギリスの大きな会社もベルギーに買収されたりと、地図で見ると小さな国なのに大きなところを買収しています。日本とスイスのカレンダーを見比べると、スイスの祭日は7日しかないのに対して日本は15日もありますよね。だからもう少し頑張らないと、益々中国に食われていっちゃうと思いますよ。
――そんなに中国に持って行かれちゃってるんですね。
佐藤 ええ。織機なんかも昔は福井県の二社で、それぞれ1軒に1000台ぐらいあるところもあったのに、今はタオルでもネクタイでもほとんど中国製ですよ。ただ、まだ今の段階では品物のできが悪いらしいですけどね。
――佐藤さんは日本全国の機屋さんとお仕事をされているんですよね。
佐藤 そうですね。今月は十日町に行きます。もともと十日町は桐生と京都の両方から技術や人材が来ていて、今でもやっぱり桐生は有名ですよ。産地によって力の入れる場鰍チていうのが違っていまして、例えば八王子は経糸、緯糸の色で勝負。桐生の場合は組織で勝負していますね。
吉田さんも知っていると思いますが桐生には紗織りがあるでしょう。三対三とか四対四という同数で絡むものをフレスコと言いまして、二本に一本、三本に一本を絡めていく、片方が多くて片方が少ないものを紗織りと言うんです。これは倍以上に幅が縮まるもので、僕も作っていて驚きましたね。一番組織で難しいのはサッカーというもので、あれは非常に織りにくいです。10本ぐらいずつ平織りみたいになっていて、よくカーテンなどに使われています。例えば1mのものに仕上げろと言われたら、縮み率を考えないといけないんですよ。だいたい桐生の織物で3%ほど縮みますからね。
――機屋さんから無理な注文をされたりすることってありましたか?
佐藤 ある会社の先代の社長から難題を出されたことはありますよ。上の面が金で下の面が銀のものだったんですけど、これを回らないように、つまり表裏が入れ替わらないようにできないかと言われましてね。困り果てて社長に猶予をくれと言って考えたんですが、結局全部手作りでやるしか方法はなかったんです。本来なら絶対引き受けないような仕事なんだけど、なんせ大物の社長だったんで、ものすごい手間をかけて何とか仕上げましたよ。
でも、その社長も亡くなっちゃいましてね。桐生もああいう大物がいなくなっちゃって寂しいものですよ。今の社長は営業あがりだから、挨拶だけして終わりでしょう。でも昔の社長は元技術屋だから、作業してても離れないんですよ。なんだかんだって話しかけてきて、こっちがしゃべるのが嫌になっちゃって黙っちゃうと、周りを掃除したりして時間を潰しては、またやって来たりしてね。今と昔では、そんなところ一つ取ってもだいぶ変わりましたよ。
――最後に、桐生における織物業界の現状といったものはどうでしょう?
佐藤 1月の中旬に川辺さんと中西さんというハンカチのメーカー2社が、東京で展示会をやっていましたね。そこに中間業者が来て、年ごとにいくらと決めて契約しているみたいですよ。あとは金襴業者の展示会などもありました。
アラ産業の生産工場が桐生にありますけど、もともとあそこはネクタイの大手で、東京にも商社があって販売網を持っているんですよ。年商の面でみても日本ではトップクラスなんじゃないでしょうか。
僕はいろいろなところを回っていますが、桐生はたいしたものだと思いますよ。この間もあるところから呼ばれてちょっと行ってみたんですが、そこで作っていたのは参議院の壁に使う絹糸の壁生地でしたよ。前は桐生で1メートル幅で織ったらしいんですが、今度は2メートルで織ることになったようで、そうなると京都じゃ織れませんから、桐生の出番なんですよね。京都にも広幅ってのはあるんですけど、場所柄大きいものが伸びないようで、段々と小さく小さくなっていったんです。それで桐生の周敏織物に参議院の壁生地の依頼が来て、ちゃんと織りきって納めました。壁生地っていうのは紙と合わせますから、張り具合とか引き具合というのは国の命令でやるらしいです。まあうまくいったようで、そういうお話を聞くと本当に嬉しいし名誉に感じますね。 |