桐生お召しに関わる職人たち
桐生お召しと職人の系譜
桐生市老人クラブ連合会/NPO法人桐生地域情報ネットワーク

――どちらかというと糸は染めたものが多いんですか?

田中 生糸もありましたよ。染め屋さんを通さないで、糸屋さんから直にくる白い糸もありますね。帯によって色々と白とかもありますからね。まぁそのままじゃ使い物になりませんから精錬はしてありますけど。

吉田 糸はゴワゴワだった?

田中 いや、柔らかいんですよ。染め屋さんに行かないから。染め屋さんは糊を付けてゴワゴワにするんですよ。整経しやすいようにするためですけど、染め屋さんを通さないでうちに持ってくるから。それで、手が入っていないから糸を繰るにも繰りやすいわけですよ。染め屋さんを通すとやっぱり染めたり綾が変になっちゃっていたりするから繰りづらいんですけど、生糸は紡績工場からそのままくるので繰りやすいんですよ。うちは糸繰りしてから整経するわけですからね。

――生糸とテトロンやナイロンとか、昔から今に至るまでに、主にどちらをやっていたんですか?

田中 両方ですね。今はもう人造ですけど、昔は絹の細いやつをやったりしましたね。

奥さん ここって古い家でしょう。うちの主人が今69歳なんですけど、4歳のときに建てた家だから古いんですよ。隣の工場ものこぎり屋根なんですよ。この家を作ってからこの商売を始めたんですよ。

田中 うちの親父はこの近くの機屋で勤めていたんですよ。この近くの観音院のそばに大きな機屋があったんですよ。そこに勤めていたんですね。

奥さん そこに勤めながら群馬大学の夜間部に行っていたんですよ。

田中 昔は家業を継ぐのは普通でしたから、親父の後を継いで私は整経屋になったんですね。うちの親父がやっていたといっても親父がやっていたわけじゃなくて、実際には、お袋がみんなやっていたんですけどね。私は長男ですから見よう見まねで覚えて、それで今日までやってきたんです。私にはせがれがいますけど、「継がない」って言っていますね。また親も継がせたくないから、せがれが「会社に勤めるよ」って言えば、「ああ、いいよ」って言ってやれましたね。

 「私は整経のことしかわからないからね」。これが、田中さんの最初の言葉だった。お話を聞いているうちに、その意味がだんだんとわかってきたように思う。学校を出てすぐにこの仕事を始め、それ以来ずっと整経だけに携わってこられたのだ。その言葉の通り他の仕事をするはことなく。
 インタビューが始まってまもなく、仕事場を見学させて頂いた。管から何百本と引き出された糸を整経機にまとめ、余分な糸を口にくわえて切り、注文書に従って糸を引き揃える。その姿には一切の無駄が無く、流れるような美しさすら感じた。
 何でもできる器用さに憧れる人もいるだろう。しかし、田中さんの仕事ぶりを見ていると、これなら誰にも負けないというものを持つ方が良いのではないかとも感じられた。一人の職人の仕事に対するその姿にそんな思いを抱かずにはいられなかった。
◆インタビュー取材データ◆
【日時】2003年8月8日(木曜日)20:00〜21:00
【場所】田中氏宅
【インタビュアー】吉田邦雄、中野春江
         長田克比古、塩崎泰雄、小保方貴之
【撮影等】野口健二、吉田薫人

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はじめに
桐生お召しから龍村織物専属デザイナーへ
“柄”を生み出す演奏家
桐生で唯一の絹専門の染め屋
今もなお現役で筆を握る図案作家
2人の整経屋からみた現実と未来
◆整経屋/田中光治氏
整経屋の仕事
解散した桐生織物整経協同組合
整経屋の昔と今、そして未来
◆整経屋/渡辺俊氏
整経屋という仕事
整経屋としての50年
整経屋今昔物語
織物産業の未来は
高速化に対応して世界屈指の職人へ
桐生織物の職人たち
機械直しから紗織の名人へ
全盛期を支えたお召し織物の稼ぎ頭
経糸と共に繋いだ夫婦の絆
商品の価値を決める最終段階
桐生の織物産業を陰で支える
あの光景を再び。桐生で八丁撚糸機を動かした立役者
シンポジウム
職人が語る桐生お召しの系譜

ちょっと一息/コラム
お召しチャート
編集後記

 

最近は帯関係のお仕事が多いということ。

田中さんのお話から確かな技術があっても、今は大変に厳しいという現実がよりリアルに見えてきた。