――どれくらいこの仕事やられてるんですか?
渡辺 私はもう50年ちょっと。15歳のときからやっていますからね。
――渡辺さんは渡辺さんの代からこれやり始めたんですか?
渡辺 うん、親は違う仕事してた。鳶職で町内の頭でした。
――どういうきっかけですか?
渡辺 中学3年時の夏休みにね、鉄工所に1週間行ったんだよ。で、あんまり油だらけになるんでそういう仕事はやだなと(笑)。で、たまたま従兄弟がこういう仕事やってたので、従兄弟のうちへ習い行って、それでいろんな仕事をあっちこっちで覚えていってね。それで結婚してから独立したんだよ。
――それは何年ぐらいですか?
渡辺 独立したのは昭和38年。
――今使っている機械はその時からのものなんですか?
渡辺 いや、その後こっち越してきてこの機械入れたんです。その前は田中さんの所にあるようなものを使っていました。
――こちらに来たのはいつ頃なんですか?
渡辺 昭和44年にここへ越してきたんです。
――38年ですと桐生の織物は少し下がり気味の頃ですかね。そのときに独立されたわけですけど、今のような状況になることが分かっていたら、もしかしたら独立はなかったのかな、なんてことはありますか?
渡辺 それはなかったろうね。
結婚して子供ができたら、毎月赤字になるんだよね。だって勤めていた時の月給が1万円ぐらいだものね。日給にすると300円か400円ですよね。現代の中国と同じくらいです。そういう状況だったから独立して商売始めたん。そうしたらね1ヶ月やると、1万円貯金ができたんかな。
――それは大きな違いですね。
渡辺 勤めてる時分は子供ができたこともあって、家内がうちにいるから、毎月赤字になるんですよね。子供ができたのは37年の12月。で次の年の4月に独立したん。ていうのはね、ちょうど機械が空いてたんだよ。工場もあって。貸してくれる人もいたん。で、そこを借りてすぐ始めたの。
――じゃあ設備投資でお金をかけることもなかったんですか?
渡辺 多少はあったけどね。
工場の隅に3畳間作って、そこに寝泊りして。で家内も糸の仕事していたからね、子供ができる前は同じところに勤めてましたから。だから始められたんです。
――もともと勤めてたのはどちらの機屋さんだったんですか?
渡辺 一番最初に勤めたのは岩脇さんていう私の従兄弟のとこ。今でも商売やってるんですけどね。そこに3年半ぐらいいましたかね。でその後1年ぐらいね、桐生繊維ってのがあったんです。そこに1年いたんです。で、桐生繊維を一年で辞めちゃって、須正織物さんっていうお召し屋さんにいたんですけど、整経する人がいないんで来てくれって。それで大東に行って。大東で7年ぐらいいましたかね。
――機屋さんでずっと整経を担当されていたんですね。
渡辺 結局・・・合っていたんでしょうね(笑)。
――整経が空いていた?
渡辺 空いていたっていうか、できる人がいないからやってくれって。
――難しいんですか?
渡辺 慣れちゃえばどうってことないんですけどね。まぁある程度深いって言えば深いって言えるし。うちなんかの場合かなり難しい仕事だと思います。
――ではけっこう良いものを扱っているんですか?
渡辺 そうです。ほとんど高級なものが多いです。うちの材料は大体90%はシルクです。10%ぐらいはポリエステルもありますけど、ほとんどはシルクのものを扱ってますから。だから高級感っていうのがあるわけですよ。
――そういうものを選べるんですか?
渡辺 機屋さんが持って来てくれるんです。時々「こういう仕事始めたいんですけど」って相談に来て下さるんです。
――ここ数年、高級志向になっていますよね。
渡辺 整経屋さんによって、例えばシルクならうち、縮緬の上手な家、金糸の上手な家とか得手、不得手がありますから。私が携わってきた大東とか桐生繊維なんかはシルク専門の広幅の機屋ですからね。だからそこで技術を磨いてきたわけです。 |