――全国的にも絹に特化した整経屋さんってないんですかね?
渡辺 織物の産地がないと、こういう整経って仕事はないですよね。京都には京都で整経って仕事がありますが、京都の場合はもっと機械が小さいですし、タマも小さいんです。だから織るのに時間が掛かるんです。西陣なんかの織物は柄が複雑ですからね。規模が小さいんです。この機械は円周が5ヤードあるんですけど、京都は円周が3.4メートルぐらいの小さな機械でやってると思います。
機械の整経が始まったのは昭和の初期頃だと思います。それ以前は機経と言って人力で糸を揃えていたんですよ。また、力織機が入ってきたのが大体明治時代なんですけど、国産の力織機が開発されたのが明治の終わりから大正の初めなんですよね。そのころに力織機が普及してきたわけです。モーターを回して機械をバッタンバッタンと。それまでは手でやるとか、そういうのが多かったんですけどね。それと同時に整経機も開発されて、こういう仕事も出てきたわけです。
――取材を進めていると、最初3つぐらいあった仕事が2つになって、1つになってゆく、合理化されてゆくのを見るんですけど、整経屋の場合は少し違うんですね。
渡辺 戦前はね、整経ってのはほとんど機屋さんの工場の中にあったんです。それで例えば織機が100台あるとした場合、1台の整経機でまかなえるのが25台くらいだと4台必要でね。で、戦争で織機を供出しちゃったでしょ?鉄を出せってことで。それでそういう機屋さんが少なくなってきて、大きい工場ってのが非常に少なくなったんですよね。それで終戦になって兵隊に取られていた人たちが復員してきて、機屋さんを始めるんだけど整経機まで手が回んないという状況になってね。
例えば織機10台だと整経機を1台入れてももったいないっていうことね。例えば20台から25台使えますから余裕を見て、30台くらいの織機がないと整経機が1台あっても遊んじゃうからもったいない。じゃあ、経糸だけはよそへ出そうって感じで、復員してきた人がずいぶん始めたんですよね。
それが整経屋が広がる原因。だから戦後ですね。
――機屋の中から整経が独立して、小回りがきくようになったわけですね。
渡辺 例えば織機が10台や15台だと整経機1台入れて、そうすると人を3人ぐらい雇わないなきゃならないんですね。整経する人一人、糸繰りの人を二人とかって頼むと。3人の給料払っていって、比べるわけです(笑)。そのときに「じゃあ出したほうがいい」ということになります。
(資料を出す)
これにね、開業当時の協同組合が始まった頃の様子が載ってるんですけどね。整経協同組合ってのがあったんですよ。ここに開業した年代なんてのが書いてあるけど、大正14年ごろからどんどん開業してるね。これは一部なんですけどね。昭和36年に協同組合ができて。で調べてきたんですけど、最高でね、組合員が130軒ぐらいあったんですね。・・・昭和45年頃ですね。45年、46年には130軒ぐらい組合員があって、組合入ってないうちが6、70軒あったんじゃないかな。ただ、桐生だけじゃないんです。桐生、大間々、笠懸、で太田と足利の一部入れて200軒以上あったと言われています。
――整経機がいくつもあるところもあったんですか?
渡辺 一軒のうちで最高4〜5台まであるうちがありました。だいたい1〜2台のうちが多かったですけどね。
――今何軒ぐらいあるんですか?整経屋さんて。
渡辺 今動いてるうちが大体100軒ぐらいじゃないかなと思います。織機の数も大変少なくなってますからね。桐生市内で100軒ぐらいはあると思います、今は。組合が解散しちゃったんではっきりしたデータはわかんないんです。
――組合が解散したっていうのはいつのことなんですか?
渡辺 平成13年に解散したんです。昭和36年にできてずうっと続いていたんですけど、平成13年で協同組合が解散したんです。
――それはどうしてですか?
渡辺 みんな抜けちゃったんで(笑)。最後が15軒ぐらいになっちゃったんでね。抜けても整経をやっている人がいるんで、組合に入ってるメリットがないっていうようなことになってね。
――組合費とかあったんですか?
渡辺 組合費払ってたん。それでそれだけのメリットがないってんで。それでだんだん1抜け2抜けして。それで平成13年、最後のときは15軒ぐらいになっちゃって。それで組合を解散したんです。
――組合解散して不具合とかありました?
渡辺 うーん・・・別にそんなにないんですよねぇ。
(一同笑)
渡辺 まあいろいろ情報の交換なんかやりづらくなったんですけどねぇ。組合があるうちは毎月支部会っていうのを開いて、総会なんかもあったから、みんないろいろな話ができたんですけどね。
結局、織物産業は落ち込んできているでしょう?それで機屋さんの数も少なくなっているし、整経屋の数も少なくなっているしね。夫婦単位であと従業員が一人か二人来ているうちが多いんだよ。どっちかが欠けると辞めちゃうんだよね。旦那さんが亡くなるとか奥さんが亡くなるとか病気になるとかっていうと辞めちゃううちが多いんですよね。私が平均年齢だったからね。非常に高齢化が進んでいるんです。
――若い整経屋さんてのは何歳ぐらいなんですか?
渡辺 一番若い人で・・・40代の人はいるかな。後継ぎがあるうちは何軒かあるけど、桐生では5〜6軒あるかないかでしょうね。あとはもう辞めちゃう。ほとんど後継ぎがいない。
――でも例えばシルクに特化してやってるところってないわけですよね。
渡辺 ないこともないけど、少ないですね。早い話が、あんまり利益率が良くないんです。頂くのは加工賃ですからね。で工賃も24〜5年前からほとんど変わっていないしね。昔のままの工賃でやっていますからね。自分たちはそれしかする仕事がないからやっていますけど、子供たちは継ぐって人がほとんどいないわけ。それだけ魅力がないんでしょうね。
――でも、誰が見ても良いと思えるもの、そういうものを産業として復活させて、それに関われる仕事として整経屋があれば、残ってゆく可能性はあるんじゃないかと思うんですけど。
渡辺 うーん。なくなりはしないと思いますけど、これから5年、10年先にはどんどん数は減ってくでしょうね。平均年齢が私ぐらいですからね。まだ私より若い人もこの辺には何人かいますけど。うちだって私が寝込むか家内が寝込めばもう商売やっていけない。それが一番の悩みですよね。後継ぎがいないってことがね。
――なくなりはしない。それはみんな気づいてると思うんですけどね。
渡辺 だけど、なんでもできるうちってのがだんだん少なくなってくるんですよね。早い話が、今桐生に撚り屋さんがなくなったでしょ。桐生で糸を撚っているうがちないでしょ?で、その次心配なのは機拵えさん。架物を作るうち。特に紗織っていって、絡み織っていうのがあるんだけど、それの振るいを作る人が恐らくいなくなるだろうと。
――いろいろ取材していますと皆さん70歳を越えてらっしゃるんですよね。
渡辺 私も68歳でしょ。あと2年で70歳ですもんね。田中さんは私より一つ上ですからね。で子供はうちにいない。うちにいても勤めに出てるとか。それが一番の悩みですよね。でも川内のほうは比較的後継ぎがいるんですよね。40代ぐらいの人がけっこう。勤め出たけどだめだからまた親のとこ戻ったとか。けっこう川内地区にはそういう整経屋さんが何軒もありますよ。 |