――19歳で森秀に入ったんですよね。
小平 そうだよ。
――やっぱり織物に興味があって、お勤めになったんですか?
小平 いやぁその前はね、セイコーっていう時計の会社あるでしょ。どこだったっけな、渡良瀬川の…三吉町っていうんかね。
――なぜこちらの仕事に移ろうと思ったんですか?
小平 んーセイコーさんが工場を閉めちゃったんだよね。
――小平さんはおいくつでしたっけ?
小平 70歳。吉田さんより自分のほうが、一回り若いんだよな……。
――森秀はいつお辞めに?
小平 38歳で辞めたんかな。19歳で入ったから大体20年勤めた。それから足利行って6年ばかり世話になってね。向こうではネクタイやったんさね。3年目に自動車の免許取ったんだ。43歳の時に厄年じゃうまくないってんで。
――こちらに来られたのは、いつ頃だったんですか?
小平 んーと、昭和51年だっけかな?
始めた頃は忙しかったよ、織機入れて工場作ってさ。越してきた当初は朝7時から夜の10時まで働いたもんね。その時に帯をやるようになって、だから大体のものは手がけてきたんだよ。
――森秀を辞められたきっかけって言うのは?
小平 んーやっぱりいろいろと事情があったんだね。独立して一旗あげて、蔵でも作るかなと思って、それで辞めたんだいね。今考えてみると10年遅かったんだよ。10年前だったら何とかなったんだけどな。
――(森秀にお勤めだった)当時、お休みの日とかは何をしてましたか?働いている方同士で一緒に遊びにいったりしたんですか?
小平 そんな暇なかったよな。
――お休みなかったんですか?
小平 いや、あったけども、今のような気楽な時代じゃなかったんだよ。
――森秀は毎週日曜日がお休みだったんですか?
吉田 はい、そうでした。
小平 朝7時頃から一日10時間以上はやってたもん。夜は大体遅くて7時くらいかね。
吉田 要するに、織機が動く毎に糸が1本通っていくんだから。結局、あの機械だからどれだけ機械を動かしたかで何本織れるかが決まるからね。
――そうですよね。だってあのガッシャンで1本なわけですから、一回でも多くそのガッシャンをやらなきゃいけないと思うと、どうしたって長時間にわたってしまいますよね。
小平 紋なんてもんはなんだってよかったんだよ(笑)。何でも織りさえすれば、どんどん売れた時代だからね。あれで森秀なんか随分儲けたんじゃないんかい。うちらが居たときは森秀に第3工場なんてなかったんだから。
――建物をだんだん増やしていったんですか?
吉田 うん、建物を増やして、織機も6〜8台くらい増えたのかな?
小平 まだ足りない、まだ足りないってね。
――全盛期の頃の森秀には、何台くらいの織機があったんですか?
吉田 うーんとね70台。今は展示場になってるところね。あそこに約40台あったんだよ。
――そうすると、機織りさんは何十人くらい居たんですか?
吉田 多い時で社員が120人位だね。だからその頃は1人で1台を受け持ってたんだよ。70台全部に一人ずつとかね。
で、今で言えばリストラってやつかな。合理化して再編成を進めると同時に、織物関係に就職を希望する人も少なくなっていったんだよ。そういうことを見越して、機械の自動化だとかいろんなこと考えたてやってきた。
――それがいつぐらいですか?
吉田 40年くらい前かな。昭和40年前後からは徐々に変わっていった。
女の人が着物着なくなったしね。いやでも潰さざるを得なかったんだよ。生産制限をし過ぎたっていうのもあるけど、そんなふうに仕事が減ってくると、それまで働いていた人も、自分から別の仕事に移っていったりしてね。華やかではあったけれど、中ではみんな四苦八苦してたな。
(集合写真と名簿を出して来て)
小平 写真には100人位写っているだろう?一番多いときは120人も居たから、朝礼やるのに入りきらなくて立ってたりしてね。野球チームもあったんだよ。名簿には何人くらい出てる?
――230名くらいですね。
小平 この頃は皇太子は来るし、映画の撮影にも来るしで賑やかだったな。『特別機動調査隊』ってのが撮影に来たときなんか、ノコギリ持ってそこ歩いてくれなんて言われてさ。
――機械直しにのこぎり使いませんよね?(笑)。
小平 そうなんだよ。言われた通りにやったけど、なんだったんだろうな(笑)。
吉田 他にも『ダイヤル100当番』だっけ?いろいろやったよね。女の人が逃げて来て機織りしてるとかいうのを撮影したりさ。
小平 でも桐生じゃテレビが見れなかったんだいな(一同笑)。 |