保倉 まず、お召しというものは、縮み織物の系統に入る強い撚りのある緯糸で織ったシボがある織物のひとつと言えます。欠点も非常に多く、厚手で雨に濡れる程度で縮むものですから、洗濯にはとても耐え難い。もちろん丈夫で保温性もありましたけれどね。贅沢品であったことは確かです。かなり古い物であることも確かですが、その発生については、わからないというのが正しいところです。
紋織りお召しというのは、紋織りがたまたま桐生に大きく広がり、お召しと結びついて初めてできたものです。ですからお召しと紋織りお召しとは、はっきり分けて考えていただかないと大きな間違いになると思いますね。ほかにも同じような例がありまして、絣にも紋織りを入れていますから、紋織り絣なんていうのもあるんです。つまりあくまで紋織物と一般の織物というように、二つの織物があったわけです。
では、なぜ桐生でこれだけの技術が急速に広まったかというと、もともと何か紋織りの技術があったらしいんです。これは珍しいことではなく全国どこでもあることでした。その流れが明治維新までありましてね。西陣が非常に荒れた時に、仕事がこちらに流れてきたわけです。明治維新の時の新政府の人達は、衣冠束帯に似たものを着ていたらしいのです。それらのものを桐生で織らせていた記録がありますね。
境野の松嶋家なんかに注文書があるんですよ。そういう下地があったところに、洋織機のジャカードが入ってきて、それを使っていち早く紋織りお召しができたと。言うなればジャカード織物としてできたものですね。それまでのお召しというのは絣と同じで、柄も絣柄が標準でしたから。
大正時代のお召しに紋織物の色々な柄が入ることで流行にマッチして、みんなの関心も集めるようになったんでしょうね。それまでのお召しは地味なものですからね。着物のブームというのも、大正でしょう?それまでは細かった帯を、後ろに持ってきて締めるようになったのも大正なんです。だから時代劇なんかでやっているのは全部ウソなんですよ(笑)。
昔は上等なものなんて着ていませんでしたからね。大正時代あたりからみんなが裕福になったんじゃないですかね。大量生産大量消費されたのもこの時代です。ただ、歴史の流れとしては本流とは言い難いですね。ほんの3、40年の間だけのことですから。
――西陣と桐生で紋織りの流れを比べるとどんな違いがありますか?
保倉 西陣についてはわかりませんが、桐生に以前より紋織りがあったのは事実です。大正になってジャカードがいち早く広まることができたのも、それまでにこちらにある程度の技術があったということの証明になります。私は三代目なんですけど、初代は私の叔父でした。話を聞いたところでは、みんなで工夫して紋織りができるようにしたようですね。
――それでは紋織物自体のルーツについてはどうだったのでしょうか?
保倉 紋織物というものには、実は、長く高度な文化があるんです。それは中国が中心、あるいは中近東あたりで漢の時代に遡ります。もっと古いものもあるのですが、具体的にわかるのが漢の時代のものです。中国文化として日本にたくさん伝わってきたのは、どうやら正倉院の時代で6世紀に入ってからと言われています。さらに、技術が盛んになったのは7世紀後半ですね。
私も十数年前から中国に行って、向こうの資料をたくさん見てきました。そうしたら、紋織物というのは日本では名物裂として伝わっていることがわかったのです。名物裂の由来というのは、掛け物や巻物の額飾ですね。とにかく紋織物の難しさは大変なもので、金銀珊瑚綾錦と言われる、綾錦のことです。
当時は、非常に高価なもので、貴族階級だけに伝わっていたものですが、大名内に茶道が広まる中で、名物裂としてだんだんと広がっていきました。しかしその段階では、布としての正しい評価はされていなかったようです。後に小堀遠州が名物裂の分類をしています。そこで初めて名物裂という言葉が出てくるのです。
当然、大陸から伝わったものが尊ばれていたようです。その後、日本でも製造されるようになります。はっきりとはわかりませんが、唐織りの能衣装ですよね、そこから紋織りが出てきています。紋織りは当然庶民には許されないものだったようですが、安土桃山時代になると商人を中心に庶民の力が非常に強くなってきて、お金さえあれば権威に触れない範囲で着ることもできたようです。そのような背景で、紋織りがあったわけです。
恥ずかしい話ですが、私がこの道に入ったばかりの時には、そういうことは知りませんでしたね(笑)。
また、紋織りには空引という簡単なものがあったと思います。それは厚手の西洋風の装飾織物です。本式な紋織物ですね。1933年のシカゴ博覧会でも出品されているものですけど、やは闊ネ前に何か技術的なものがなければできませんからね。
――空引は壁掛けですから、着物などの世界ではないですよね。
保倉 でも歴史的な紋織りの流れを考えれば、あれのほうがずっと正当な流れでしょうね。だから海外でも高く評価されたんですね。
――今ある辻ヶ花というのはしぼりと刺繍ですよね?あの中に紋織りが入っていた記憶が私にはありませんでした。
保倉 辻ヶ花は、当時平民一般に許されていなかった紋織りを白生地に内緒で入れたものです。それには相当古い伝統があり、今の言葉で言うと綸子というものに相当します。ひし形などの簡単な紋が入っています。だから紋織りの文化とそれが結びついたことに大きな意味があると思います。ただ結び付き方については主流の文化と関係なく、庶民の持っていた技術が中心になったようです。私も後になって龍村織物の専属になってから知って、それで驚いて研究することになったのです。
――…龍村平蔵さんですか?
保倉 平蔵さんの息子、晋さんと親しくなりまして、龍村織物の専属になりました。数年前に晋さんが亡くなられてしまい、それがきっかけで、私も思い切って商売を辞めることにしました。けど、「できているものを売る」ということで続けられておられるので、毎年開かれている龍村展のお土産として振舞われる品だけは手伝っているんです。
…これがその紋図です。
コンピュータで読み取ったものを手で描き起こします。この作業もかなり細かいので目も疲れるから嫌なので、アシスタントに頼もうと思っているんですけど、やっぱり一番の問題はセンスでしょうね。
――写真のものを織るということは通常の作業とは違うのですか?
保倉 (復元する柄の写真の中から、図柄が消えかかっている部分を指して)こういうところにも、何かオブジェクトが入るのです。ですから、そのオブジェクトをちゃんと復元できなかったら駄目ですね
――専門の人達にはわかるんだろうけど我々は見たことがないですからね。
保倉 それが専門の人もみんなわからないんですよ。これだけの価値を。正倉院で残っている宝の意味は分析してみるとやっぱり凄いものですよ。
――しかし、これだけのものを昔の人はどうやって作ったんでしょう。一番最初の人はどうやって作ったんでしょうね。
保倉 我々と違って秀才がやったんでしょうね。やはり暗記してやっていたんでしょう。有名な話ですが、ムンクという画家が、自分の描いた絵を見ずに、その絵を版画で再現したというエピソードがあります。自分の絵だから覚えているでしょうけれど、再現するとなると、版画ですから左右が反転になるわけです。それをそっくり再現したそうなんです。難しいことですが、やはり人間の能力ならそれができるんです。
――図案の状態を知っているのは紋紙屋さんまでですか?
保倉 そうですね、そこまでですね。
例えば、この図についても拡大しながら下絵を起こすわけですが、先程のお話したように、昔のものなので、よく絵の中に欠けている部分があるんです。この絵で言えば、写真をみると鳥の足がありません。ですから、その当時のほかの絵などから欠けた部分を推察して描くわけです。 大昔のものを実際に復元してみると非常に難しいものですね。復元という作業をしたのが龍村平蔵なんです。それ以前は誰も行っていないんです。平蔵さんが糸にしてちゃんとやっていたというのは大きな業績ですね。
――創造ではなくて復元が大切なんですね。
保倉 そうですね。それをやらないと駄目なんです。
(写真の下の方の柄を指しながら)
これも、この部分だけを見ているとわからないですが、別のものと合わせることでだんだんとわかってきます。というのは、こういった絵は思わぬ計算がしてあって、描き起こすにしても絵の流れやオブジェクトも想像では動かせないんです。やはり比例上の調和を求めたんでしょうね。ある種これは幾何学ですね。それが見抜けないと駄目なんです。そうでないと価値もわかりませんしね。
日本の浮世絵などのデッサンも格段に良いものです。実はゴッホもあれをよく勉強しています。向こうに行かないとわかりませんが、ものすごい量の浮世絵を真似た作品を描いていますね。浮世絵をたくさん持っていたんです。実際には、ゴッホは物語にあるような貧乏絵描きじゃなくて、絵の具についてもほかの人の絵の具の4倍ぐらいの値段のものを使っていたのです。恵まれていて絵なんか売る必要はなかったのでしょうね。
写真のように描くことが上手のように言われますが、徹底した二次元でこういった絵を描く、つまり遠近を作らないで描くというのはものすごく難しいんですよ。意味を強調したりして、意味で強弱をつけていますからね。そういった心理分析もしっかりしていますし、何よりも繋がりや流れを、どうしてこんなに巧妙にハメ絵の中に入れていけるのかなと思います。これを描いたのは、相当な構想力を持った描き手だったと思います。
森秀さんも含め、当時は、全国どこでも、次から次へと新しいものを製品にしていったものですが、龍村さんの場合だとこのような手順で、伝統の柄に基づいてそれを復元したり、あるいは創作した場合でも一つテーマとして決めた柄を大事にしながら繰り返して使用しました。
――そうなると描き手は、アーティストではなくて、完全なるデザイナーとしての能力が必要になってきますね。
保倉 まさにそうですよね。今の我々みたいに流行に乗って一応描けるから描いてみるというのじゃ駄目なんです。こういうものを手掛ける場合は、ちゃんと現物を調べたりしなくていけません。そういったことができた私は運が良かったのだと思います。 |