――この仕事を始めたのは戦後、中学生の頃ということでしたね。
保倉 始めたと言っても最初は父を手伝っていただけです。その頃から仕事がぽつぽつ始まってきたんです。うちはもう大変貧乏でしたからね。学校になんか行けないんで、働きながらうちで勉強していました。
吉田 やっぱり一緒に生活している親がやっていて、それで手伝うってのが多かったですよね。機屋さんなんかもほとんどがそうですよ。終戦後、闇織物を作って、闇で儲けて商売始めた人もいるけれど、昔からやっているのはやっぱり二代、三代とやっているというのが多かったですよ。
――じゃあ、何の抵抗もなくこの仕事に入って行きました?
保倉 抵抗も何もありゃしないんだよね。私も三代目です。私の叔父が始めて、父が継いで、それを私がやった。うちが始まったのが大正の初めぐらいですね。
で、昭和16年から戦争になるから、13、4年ぐらいに終わっているんです。戦争中は仕事はしていませんから。で、戦後になって始まって、そうすると前と合わせても大正時代の15年間と戦前の15年間で30年でしょ。戦後、昭和20年からは始まってなくて、軌道にのったのは30年頃からですからね。昔は、30年間一つのところに勤めたなんて、おいしくなかったんだそうですね。今はざらでしょ?
吉田 30年勤めたら一生だよね。人生50年なんていっていた頃なんだから。今から見たら、平均寿命が30年も40年も少ない時代なんだからね。
――戦時中の織物産業はどうなっていたんでしょうか?
吉田 戦時中は全部止め。これは政府の方針でね。織機も全部供出して軍艦になったんだか、鉄砲の弾になったのか。
保倉 皆さん、戦後の生まれだからわからないですよね。戦争やってるんですもん。織物なんか織れないですよ。
吉田 だから、着るもの1枚が貴重だったんですよ。世の中で作っていないから、ないんですよ。今まで持っていたものを着るだけという時期でした。それで、戦争が終わって、そしたら、あちこちで、闇で織物作って。
――その頃の織機というのは?
吉田 実は森秀はね、お召しの技術保存というので、今で言う経済産業省から特に許可があって、最低限のものが確保できたんですよ。
糸や材料を国から支給されるわけではなくて、許可書によって買い付けるわけ。でも、世の中に物資がなかったから元々は二束三文のものも当時は高くなったわけです。で、織機も何台かは残っていた。
保倉 戦争の時は補償もなかったでしょうけど、ほとんどの織機は武器にするなどの理由で供出したので壊したんです。私は終戦の時、小学校の4年生でしたけど、織機は壊してそこら辺に積んであったのを覚えています。あれは鋳物ですからね、鉄砲にはならないんですよ。結局、その時は戦争だったから、形だけその様にしていましたが、どの分野の産業も戦後のことを考えて、最低限のものは取っておいたんですよね。 当時はね、織物とか何でも持っていって、お芋に変えて持って帰ってきたんですよ。金なんか払っても農家は売ってくれないですから。
吉田 竹の子が外側から皮がむけていくでしょ?あれみたに、着るものでも何でも体に巻きつけて、次から次へと脱いでいって、そういう事を『竹の子生活』って呼んでいたんです。
(一同笑)
保倉 最初の1年はそういう風には感じなくて、何にもしないでプラプラものを売っていたんですよ。そのうちに、売るものもなくなってくる、持って行くものもなくなる、買ってくるものもなくなる、今の北朝鮮みたいになっちゃたんですよ。
吉田 最もね、当時織機を供出するとね、いくらか補償はあったんですよね。何十台だか出せば一生食って行けるという計算だった。当時としては何十円か何百円とかっていう金額だったかな。「こんだけ有れば一生食うには困らない」と言っていたのが、どっこい、戦争が終わったらインフレで、戦争中は300円なんて大した金額でしたけど、終戦後は3日もすればなくなっちゃったんですよ。
保倉 それは世界的なことですからね。
吉田 農業だってそうだったんだよね。土地を登録して、自分が食べる分は許可を取って置いておけたけど、そのほかの分は配給で日本の国民が食べていたんだからね。
――そういう時期を経て、もう一度織物をやっていこうとなった時にちょうど保倉さんも家業を手伝うようになったわけですね。
保倉 そうですね。けど、昔は小学生だってなんだって自分ちの仕事を手伝っていましたからね。今みたいにアルバイトがどうのという時代じゃないですから。
吉田 ましてや戦争中の一般の生活なんてものは話にはなるけれども、皆さんには信じられないでしょうね。
保倉 図案屋のうちはひどい目にあったんですよ。図案なんて百姓とは関係ないし、物を売り買いするもんでもないでしょ?
――それじゃぁ芋はもらえないですもんねぇ…。
保倉 ほかに働きに出ると言っても、つぶしがきかないでしょ?何かを作っていたんだったらそりゃ、八百屋にでも化けられたでしょうけど。
――絵を描いていたんですもんね。
保倉 どうしよもないですよ。一番、草を舐めたってとこでしょうね。だから、私なんか高等学校になんか行けるはずがないんですよね。
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