保倉 これが図案です。紋図になることを想定しながら図案を作ってゆくんです。この図案を描いているのが図案屋という事になるんですけど。
――これは型か何かで描くんですか?
保倉 色々利用しますね。(模様を指して)この辺なんかは手で思いついて描いていますね。で、オリジナルをまず作って、でも、この段階では上下の絵柄が繋がらないと織物として使えないんでね。この絵に問題がなければ、繋がるように描き直すんです。そういうものはデザインとしての仕事ですよね。
この辺なんかは全部手で描いちゃいますけどね。細い筆を使って描いちゃいますよ。
吉田 この頃は全てが手。
――黒い紙に描くというのは地を黒と想定して描いているわけですか?
保倉 そうです。まぁ、黒でなくても暗めのものという事ですよね。でも、この段階ではただのイメージなんですよね。織物にするといってもその通りにできるわけではないですからね。お召しで狙っているのはこういうものではなくて、図柄としてこういうものを使いたいという事なんです。実際イメージ通りにしてもお召しにした時に良かったり悪かったりするんですよ。イメージでは線なんですが、実際その模様の出方は点で出た方が良かったとか。そこはみんなで協議したりするんです。
――デザインが布に描かれているものは、何か特別な意味があるんですか?
保倉 何か面白い感じになるかなぁと思ってやったんですね。ドロッピングという方法で絵具をポタポタ垂らしたり、色んな面白さを出してみたんですよ。
――筆だけで描くわけじゃないんですね?
保倉 濡れたところに絵の具を垂らしてみればこの様にぼやけたりして面白いですしね。これも木目みたいに描いてみたんですよ。これはちょっと難しいですけどね。線で描いているんですけどね。
――面白いなぁ。ところで図中に書き込んである「2」とか、こういう数字は何を意味しているんですか?
保倉 これは印です。2というのは2番というやり方でやるという意味です。1についてはどっかにメモあったんでしょう。今はないですけど。横なんてのも「?」が付いていますけど、何かその時に考えて書いたんでしょうね。
この図案は実際にお召しをやった時の品物です。これが最初のイメージで、最終的にこういう風に修正を加えていったわけですよね。
それで、これがいわゆる紋織りお召しの紋図ですよね。森秀さんが一番盛んにやっていた頃の、昭和40年代頃のものですね。だいたい私のところには残らないんですよ。基本的には機屋さんに収めちゃうんでね。で、機屋さんも今度は邪魔だから整理しちゃって。
――自分で描いたものが全然残らないんですか?
保倉 描いたものといっても紋図は設計図ですからね。図案なんかはアイディアですけどね。
――それ(布の切れ端)見せていただいてもいいですか?こういうのを何点ぐらいお持ちなんですか?
保倉 いっぱいあって困っているんですけどね。放って置くわけにもいかないのでこうやってとってあるんですよ。これ、茶箱なんですけど、これが二つあってその中にいっぱい入っているんですよ。どなたかがこれ全部引き取って保管していただけるのなら一番良い。骨董価値だってあるんですよ。
――フレームに入れて飾ってもかっこいいですよね?
保倉 そういう意味で皆さんにあげてしまうとパーッとなくなってしまいますけど、資料としてね。そういう参考資料と成るものだけを取っておいたわけですから。
――これは戦前ですか?戦後ですか?
保倉 これはどっちですかね?(吉田さんに)専門家。
吉田 戦前ですね。
保倉 ですよね。そう思って出しておいたんですけど。
――何が何だか全然わからないな。触るだけでわかるって。
保倉 そりゃ、わからないと駄目ですよ。
――この「240」という数字はなんですか?
保倉 これは緯糸の本数と思っていただければ結構です。1本の緯糸の動き方を、これが横線、横軸1本に書いてあるわけですよ。ですからここで、糸が1本なんですよ。
みんなが工夫してね、工夫ができる知恵、そこまでが、土地の技術だったんですよね。さっきも言ったように、あちこちのみんなが真似してどうのこうのって、真似ができる、真似される、というのは実力がなければできないんですよね。だから、これも色んなこと考えてやったんですよ。
――保倉さんと森秀さんとの取引はいつくらいからなんですか?
吉田 先代の時からやってもらっていましたね。私が覚えてからは全て保倉さんでした。
――となると、森秀さんは図案に関してはずっと保倉さんのところだったんですね。
吉田 ええ、それは全部お任せしていました。
保倉 それはありがたいことで。
吉田 たまにはぶつぶつ言ったこともあったけどね(笑)。
うちの会社はずっと一軒の問屋と専属の取り引きをしていたんです。したがって色でも柄でも自分の思い通りの商品を作らせたいわけです。時々受注に参上するんですが、いろいろな図案を示して「ここはああしろ」「ここはこうしろ」と柄の指定、地色はこの見本通りに織り上げろ等々……厳しい注文を承ってきて、その意向を保倉さんに説明するんですけど、一を聞いて十を知る保倉さん、問屋が思っていた以上の柄ができたんです。ですから色、柄ともに群を抜いていた訳です。そうするとある機屋なんかは「じゃぁうちのも保倉さんにやってもらえ」と割り込んで来ましてね。だから、問屋のうるさい注文を全部聞いてきて、保倉さんに説明したんですよ。
保倉 (照れ笑い)
――では、保倉さんはいくつくらいの機屋と取引があったんですか?
保倉 同じ問屋の仕事をやってる、森秀さんともう一軒の計二軒です。まぁ問屋さんの命令ですからね。ずっと私を育ててもらったし、恩義もあるしね。
森秀さんとしてはほかでやって欲しくないんですよね。でも、問屋とその2軒がしっかりとくっついていたわけですよ。森秀さんの一番のお得意先の問屋なわけです。そこの命令だからどうにもならないんですよね。まあ2年やりましたけどね。
吉田 正直な話はね、もう一軒の機屋にもちゃんといいものを作る図案屋がいたんですよ。でも、「そっちよりも保倉さんの方が良いからこっちに頼め」という事になったんですよ。
保倉 私はセンスの問題で買われたとは思うんですけどね。技量という問題であれば誰だって努力すればね。ありがたい話です。けど、実際には森秀さん一軒をやっているのが私にはちょうどいい状態だったんですよ。
そりゃ、労力から言ったって、二軒するというのはかなり大変ですよ。
けど、正直私ぐらい働いた人間も少ないんじゃないですかね。実働時間。
吉田 そうかもしんないね。細かい仕事だったしな。
保倉 だいたい私は人の2倍以上のスピードで仕事ができるんですよ。
吉田 こういう仕事ってのは、例えば、そのほかの職人がデザインを描いても、保倉さんはそれの後始末をしなきゃなんないんですよ。
保倉 朝早くから夜遅くまでやっていました。おかげさまで、それなりの収入はいただけたんでね。
吉田 それはやっぱりお互いにね、やってもらわないといけないところがあったからね。それが商売だったんだろうね。
保倉 私もそれだけ努力していましたからね。
私は特定のところとだけ仕事をしていましたから、変な話、桐生全体の事で言えばほとんど知らないんですよ。知らないと言うのはだいぶ薄情なんですけど、同業者の顔と名前が一致しなかったりなんかして、大変失礼をしましてね。向こうは知ってらっしゃるんですけど、私が知らないって状態でね。だから、本当に失礼しちゃうんですよ。
大勢の人を使っていましたけど、結局最後は一人ですからね。そうそう数をできるもんではないんですよ。途中ぐらいから龍村さんの方で専属になってしまったものですから。その後にごくわずかですが、桐生の仕事を頼まれたことがありましたけど、ほとんどやっていませんでしたね。だから、私は桐生の人間じゃないと言われてもそれまでなんですよ。
――保倉さんが龍村織物の専属になられた時は森秀さんとしてはどうでしたか?
吉田 うちの仕事に差し障りはなかったですね。
保倉 ちょうど仕事が下火になってきていてね、仕事がそんなになくなってきていたんですよ。この間、調べたら、龍村さんは47年から本格的に始めていますね。だから、ちょうどお召しが終わる時期ですよ。
吉田 私らなんかも龍村さんの仕事をしようとしたよね。
保倉 一緒にやろうと言っていましたね。
吉田 龍村さんの帯は少し織ったことがあるんですよね。けどやっぱり、二束のわらじを履くことは難しかったね。
保倉 早く辞めたのも程良かったんですよ。ああいうものはこだわると“明日を失う”と言いますけどあれは本当ですね。
吉田 汐が引けるというのは難しいよね。
保倉 最後まで頑張った人はすってんてんになっちゃいましたよね。
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