保倉 前提として、織物は文化として見る視点が必要です。もとは生活の文化なんです。
群大の前身の織物学校では工業的なものとして入ってきたでしょ?見かけの作り方、製法、そういう分析だけ。文化系じゃなくて理工系から入ってきたために歴史や文化としての流れがないんですよね。具体的には、(一冊の本を取り出す)こういうもので示されているんです。日本の染色に関する本の中の一冊ですけどね。織物の性質として見た分類というものがあるんです。
例えば、これは正倉院に伝わっている織物です。その後も飛び飛びには中国から伝わったものですとか、日本で作ったものとか品物はあるんですけど、製法という事になると全くわからないんです。NHKで以前、西陣の方で研究した唐織をやっていました。けど、実は唐織の詳細な記録はないんですよ。だから、唐織も高機を使えば織れるという勝手な想像なんです。
じゃあ、本当はどうかと言ったら証拠がないんだからわからないわけですよね。だけど、品物がありますんで、それを分類するんです。で、こういうものを名物裂と呼んでいます。
(写真を指先ながら)
こういうのは天皇陛下が着るやつで特別なものですね。
――いつぐらいのものなんですかね?
保倉 江戸時代後期。実際のものはこういう絵柄です。ものによっては変わったものもありますね。それと、しわしわがよったのがありますが、これはお茶の世界や掛け軸の世界なんかで一番尊ばれた代表的な名物裂の部類なんです。金襴錦というやつですね。
ずっと見てゆくとお召しなんかも結構流行っていたことがわかります。「昔はお召しをフォーマルなものとして着てはいけなかった」という話もいい加減なんですけどね、何がフォーマルかってのは時代によって極端に変わりますしね。
(年表を見ながら)
こういうところをずっと読んでいただくと桐生が出てきますよ。たとえば、ここに『桐生』って出てきますよね?
――…年表を見ると、『桐生』と出てくるのが1825年。で1832年に今度は西陣にも迫る勢いだったというのがわかりますね。
吉田 桐生の織物というのは赤城山を中心にしてこの周辺で栄えたんです。今では、いくらでもできるけど、昔は、田んぼがなくてね。その代わりに、桑畑がいっぱいあってお蚕を飼って繭を取っていたんです。
保倉 そういう背景があってはっきりとわかってきますね。
それでやっぱり紋織物というのが一番尊ばれたんですよ。この本はそこまで書いてはいませんが、これ絣ですね?絣の系統にも色々あるんです。綸子系統の中の縮み織りの中の一つの種類になります。で、それらの流れを正しく汲んで分類することから始めないといけないですね。
――凄い大胆なデザインですね、色使いとか。
保倉 これなどはどっかで見ているものだと思うんですけど、桐生で織られたものなんです。シカゴの博物展に出したもので、森正織物で織ったものです。だから、非常に高い技術を持っていたし、その当時、西陣は荒れていたんですよ。
――その時に桐生がめきめき力を付けてきたわけですか?
保倉 いや、それ以前から織物の技術的な母体があったんですよ。桐生はその時、運良く花咲いたわけです。
これはあの龍村織物ですね。書いてないですけどね。明治、大正とそれは龍村平蔵ですね。ここにあるのは『川島』は初代の川島織物ですね。これ有名なものですね。
現在、川島織物だって龍村織物だって一番売っているものはなんだと思います?これは吉田さんだって当たらないかもしれないですけど。ベルトですよ。自動車の安全ベルトです。
――え!?シートベルト?
吉田 確かに、あれも織物だからな。
保倉 あれは実はかなり高級な織物です。簡単に織れるものではないんですよ。だって、精密でなければならないし、均一でなければならないし、安くて量産ができなければなりませんしね。
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