桐生お召しに関わる職人たち
桐生お召しと職人の系譜
桐生市老人クラブ連合会/NPO法人桐生地域情報ネットワーク

――では第二部の自由討論に入らせていただきたいと思います。皆様、ご着席願います。

長田 今回、お召しを提供して頂いた方や織物関係の方など色々な方がおられます。
 桐生の織物や水車についてお話を伺いたいのですが、いきなり話を振られても戸惑ってしまうと思いますので、その前にひとつ。
 そこにかかっている大きな布をコスモさんより頂きましたが、それについてNPO法人桐生地域情報ネットワークの理事長、塩崎さんよりお話を聞きたいと思います。

塩崎 この布は株式会社コスモさんに提供して頂きました。写真をコンピュータに取り込み、それを布に転写して、3枚半の布を繋いで4メートル50センチの大きな布を作って頂きました。これは最新技術でこれから大いに売り出すものらしいです。社長の久保田さんもいらしているので、せっかくなのでその辺のお話を伺いたいと思います。

久保田 私どもは暖簾をたくさん作らせて頂いていますが、暖簾というと大きな一枚絵柄で、柄を作るのに型代が結構掛かるものです。そこで色々な方々に協力して頂いて、数年前にインクジェットプリントを布に行えるようになりました。
 皆様のお役に立てればと思い、この技術を役立てております。これから何かございましたら、是非とも私どもに協力させてください。よろしくお願いします。

長田 ありがとうございました。
 さて、今回、色々な方にお召しをたくさん提供して頂きました。その方たちにお話を伺いたいと思います。

――ではまず、お召しをお貸し頂きました小堀さん、お願いします。

小堀 菱町に住んでおります小堀と申します。本日このような企画がなされたことに感激しております。
 私は昭和40年代に菱町にありました和田寅織物有限会社に勤めておりました。勤めていたのは機織りではなく営業の関係だったんですけど、先輩たちはお召しの和田寅織物をとても誇りにしていました。というのは社長が女性でして、結婚など何かことあるごとにお召しを従業員にくださったんですね。今回提供したものも社長から頂いたものです。社長からドテラを作って頂きました。
 今回こういう企画があることを知り、当時働いていた人に連絡を取り10点ほどお召しを集めて参りました。皆様感激していた様子でした。
 是非このような企画を身近に見られるように、資料館のようなものを作って常に見られるようにして頂きたいと思います。むしろ皆さんで作っていけたらと思います。ありがとうございました。

――次に水車の復元模型を作っていただいた須田さんにお話を伺いたいと思います。

須田 須田でございます。私の本業は鉄工所なもので木のほうは不慣れなものであまりよく出来ていませんけども、亀田光三さんの指導のもと、桐生独特の上げ下げ水車を作ってみました。
 前回の前橋での展示のときはただ展示していただけで、動かせるものではなかったので、どうも上げ下げの様子がわかりにくいものでした。そこで今回は動力を付けて水車を回せるようにしました。これは上げ下げの様子がわかりやすくなって成功したと思います。
 いつかもっと大きいな水車を作りたいと思います。

――ありがとうございます。先程の休憩時間にわかったのですが、お召しの工程一覧の写真に写っている張り屋さんの山中さんの息子さんが会場にいらしているのでお話を伺いたいと思います。よろしくお願いします。

山中 初めまして。私のところは現在はお雛様の生地だとか、掛け軸だとかそういったものの生地を手掛けています。
 ここにある写真に写っているのは私の父親と祖父らしいんですね。子供の頃でうる覚えではあるんですけれども。
 私自身は湯のしなどについて話を聞いたことがあって、大変な仕事だったそうです。蒸気の中を通すため、毎日やっていて火ぶくれができたり、その繰り返しだったので「今の若いものにはこれができるのかなぁ」なんて言っておりました。機械でなく手作業で、大変な仕事だとは常日頃から聞かされておりました。

長田 ありがとうございました。上岡さん、湯のしの話が出ましたが、湯のしというのは布に糊が付いてるわけですよね。熱い蒸気を当てるわけですけども、糊が溶けるというようなことはないんですか?

上岡 それはちゃんと布が乾いていれば平気なんです。濡れていると糊が煮えたっちゃって、その生地は駄目になっちゃうんですね。そうなるともう元には戻せないので神経を使いました。

長田 ありがとうございました。

――今回のこぎり屋根の写真を提供して下さった吉田さんにもお話を伺いたいと思います。

吉田 吉田敬子と申します。私は、今日はもう感激しっぱなしでございます。私は前橋の出身なんですが6年ぐらい前からのこぎり屋根、その工場の建物自体に惚れ込みまして、全国を回ってずっと撮り続けています。
 8月の1、2、3日に新宿の岩越さんという元織物工場だったところを借りて、その本物ののこぎり屋根工場の中で、桐生工業高校の学生たちと写真展を開催しました。
 今秋も秋バージョンということで開催を計画しています。今回そこで閃いたことがありまして、それがお召しなんです。実際にお召しを見て頂いて、こんなに綺麗なものなんだと知って頂くことはとても大事だし、私自身も今現在残っている、のこぎり屋根の中で単純に写真を並べるよりも、地元の物、つまりお召しを置いて、こういう場所でこういうものが織られていたというのを知って頂きたいわけです。
 個人的なことですが、今日はそういった意味で収穫大でした(笑)。
 水車のことにしても、こちらのコスモさんの新しい印刷技術にしても、東京で仕事をしているよりも桐生にいるほうが吸収することが多いぐらいなので、どうかこういった会をこの先も続けてくださるように頑張って頂きたいと思います。そのときは是非私も協力させてください。

――ありがとうございました。次に本事業の編集委員でもある高橋和夫さん、お話をお願いします。

高橋 高橋と申します。私は桐生の繊維産業に再び元気を取り戻して欲しいと思っています。どの部分でというと、それは歴史的に見て、やはりシルクだと思っています。
 つまり文化でも歴史でもアートでもなく、あくまでも産業振興という立場で、ボランティアですが、皆さんの商品開発のお手伝いをしております。
 分野としては、私がやっているのは洋装です。こういうものをシルクで展開していきたいと考えています。そのためにはシルクの新しい素材を開発したいと思っています。
 先程、糸の太さの話が出ましたが、どうして14中の糸がなくなってしまったかというと、生産効率第一主義という、やはり効率を第一に考えた結果によるものです。昔の蚕は繭が小さかったんですね。それだと取れる糸の量が少ないので、品質の改良によって蚕を大きくしてしまったんです。そうすると繭が大きくなりますから必然的に吐く糸も太くなるんです。そのせいで今は21中というより27中が中心になってきています。
 いずれにしても、製品を作る場合は素材が大事ですから、新しいシルクの開発、これをやっております。
 それから、それらの糸を使った商品の開発です。服地や服飾品などです。関係する業者の方々と商品開発をしております。商品開発と一口に言っても難しく、そのときの流行や、デザイン、織り方などを考えていかないと、商品ができても売れないわけです。桐生には長い歴史の中で培われてきた繊維技術がありますが、残念ながら絹だけで言えば糸を撚ることができません。
 どういうことかというと、糸屋さんから糸を買うと、すでに撚りあがって染めてある糸で、それを織機にかければすぐに織れるからです。当然、その工程が桐生から失われていっているわけですけど、一度失われた技術というのは回復するのが難しくて、そこはもう諦めて、今ある技術と、無くなった技術がまだあるところと共同でやるという形でものづくりをするしか方法がないのかなと思っています。
 八丁撚糸機というのは私も昔から言葉を聞いてるし、実物も見てきたんですが、実は動いているのを見たのは初めてでして、非常に感動しております。しかも撚りの品質レベルが非常に高いものであるということに、そこに何かありそうな気がして、今、何かできないかと考えています。これを大事にすることで、桐生で何かできるのではないかと思います。
 究極的にはお召しの再現ですが、お召しだけでなくこの撚糸を使うことによって色々な製品ができてくるのではないかと思いまして、私としても夢が広がってきているところです。この技術は大事にしていくべきだと思いますが、ただ懐かしむだけでなく、きちんと活かして産業振興に使うことが決め手になると思います。
 お召しを再現しても売れないんじゃないかとおっしゃる人がいましたが、これはやはり売れないと思います。しかしお召しの再現から別の方向で新しい、違った部分が花開くと思っています。私自身も積極的に進めていきたいと思っています。今日は非常にいい体験をさせていただきました。ありがとうございました。

――八丁撚糸機はその昔上げ下げ水車で動いていたわけですが、その上げ下げ水車を実際に作った大澤木工の社長さんがいらしているのでお話を伺いたいと思います。よろしくお願いします。

大澤 新聞でこの催しがあると知りまして、はせ参じたわけです。
 かつて桐生がこれだけ織物で栄えたというのは、約200年前の佐羽淡斎先生の時代だったと思います。この方は詩人であり、実業家でもあったと考えております。その方の詩の中でも色々と伺えますが、その当時の人々が多く利用していたようです。
 電力がまだ普及していないときに、動力として利用する、また桐生という地形から見ても山あり川ありという中で、自然を動力とするという一つの文化の象徴であったと思います。そんな中で水車を動力として織物を織るというのは極めて自然な形だと思います。
 私は梅田で生まれました。梅田から人工の水路が流れており、そこに水車がいくつか廻っていたのを子供心に見たことがございます。それを思い出して、水車を作ったら心のふるさととしての街づくりができるのではないかと思い、「生涯学習桐生市民の会」というのを立ち上げました。
 当時は賛同する方が少なく、その後10年経ちましたが、昨年、水車を作りました。多くの人に見て頂きまして、この水車をどうするんだということになりました。観光用に使うのも良いのですが、実用的なことに使えればなお良いなと思っています。水が回りにある仕事などで使っていただければ幸いですが、やはり撚糸に使っていただけることが本望でございます。
 是非皆さんのご支援をいただきまして、これから水車で撚糸機が回せるように出来ればと思い、ご協力をお願いするとともに挨拶とさせていただきます。よろしくお願いします。

――次に、今回お召しを提供して頂いた方が他にもいらっしゃいますので、鹿沼さんにお話を伺いたいと思います。

鹿沼 私は今、前橋に住んでいますが、以前は菱町の和田寅織物で昭和38年ぐらいまで働いていました。
 事務所に3年勤めまして、現場の方が楽しそうだなということで、糸繰りから初めてあらゆる細かい仕事を覚えて働いておりました。
 毎年、会社でできた新しい製品を、お正月になると着てましたが、だんだん着物も着なくなりまして、これはどうしようかと言っていたところこういった催しがあったので、何点か出展させて頂きました。
 話は変わりますが、絹の里でもこのような絹製品の展示があるんですね。今は桐生のものが展示されていて行ったのですが、昭和20年より前のものしか展示されてないんです。ですから縫い取りなどの華やかなものが一点もありませんでした。
 桐生市の織物として展示するのであれば、今日あるような華やかなものも展示して頂ければと思いました。

――さらに、現在取材に同行して頂いている小路さんから、取材の感想などを伺いたいと思います。

小路 工程等色々とありますが、私はデザインの面白さに惹かれました。工程を聞くうちにこれは再現するのは難しいなと思いまして、デザインの方を広げていったら面白いんじゃないかと思いました。
 今の着物には、昔の着物が普段着として着られていた頃のデザインの面白さが無いと思います。八丁撚糸も着物として考えるのではなく、糸として考えた方が、この後の展開にも幅が広がると思います。着物というのは洋服よりも手が出しづらい値段で、更に雨に濡れたら駄目になってしまうので、着物で括らずに糸の方が色々な部分に使えるのではと考えました。

――では、現在も図案作家として活動している石川さんにお話を伺いたいと思います。

石川 境野の石川と申します。今回縁がありまして、この催しに関わることとなりました(参照)。今回、このような立派な催しができたことを今後に繋げていきたいと考えております。
 私は当時、29歳で独立しまして、2年ぐらい銘仙の図案を描いていました。しかし、桐生出身ですし、桐生の仕事をという思いからお召しに転向いたしました。銘仙の頃は芽が出なかったのですが、お召しに転向してからは全国大会にも出品して入選する機会も得ることができました。本日は当時の図案を展示させて頂いておりますが、今あれを描けといわれましてもとても無理です。当時はあれぐらいのものだったら、一日に10枚でも描くことができました。それくらい描かないと間に合わなかったんです。描いているそばから機屋さんが来て、「俺の方が先だ、俺によこせ」あるいは「押入れに隠してあるんじゃないか」などと押入れを開けたお客さんまでいました。当時はそれくらい流行ったものでした。
 その後、桐生お召しも年々衰退して、織物産業が減少してしまいました。当時図案作家をしていた方も皆亡くなられて、今は私一人になってしまいましたが、なんとしても桐生の伝統を残そうと熱意を燃やしております。
 今回の展示で来場された方から色々とお話を聞きましたが、一番多い意見は、やはり桐生にこれだけのものがあるのに、それを残す施設がどうして無いのかということでした。私もどうにかしてこれを残していかなければと思います。織物関係の方や役員の方には是非とも頑張って頂いて、そういうものを作っていければと思います。私も協力させて頂きますし、皆さんにもどんどん呼びかけて頂きたいと思います。どうもありがとうございました。

――皆様ありがとうございました。最後にお聞きしたい方がおります。桐生タイムスの蓑崎さん、お願いします。

蓑崎 蓑崎と申します。本日は雨が降っているので、実は着物を着ていくのは嫌だなと思っていたのですが、いざ着物を着てみるとシャキっとするなと感じました。
 着るものというは人を変える力を持っていると思います。今日は着物を着ている方が多いので良かったと思いました。東京の方では着物が若干流行りだしていて、着物姿を見ることもあるのですが、こちらでは見ることも少なく、もっと着る人が増えればと思っております。

――ありがとうございました。約3時間に渡って、皆さんに貴重なお話しを伺う機会ができました。それでは、以上でシンポジウムを閉会したいと思います。長時間にわたりありがとうございました。

イベント概要
『新・あすへの遺産 桐生織物と燃糸用水車の記憶』出版記念展示
【開催期間】平成15年9月17日〜21日

新・あすへの遺産 シンポジウム
「職人が語る桐生お召しの系譜」
【日時】2003年9月21日 午後1時〜午後4時
【場所】桐生市地場産業振興センター
【進行】長田克比古
【パネリスト】吉田邦雄、藤井義雄、上岡健城、橋本廣一、岩倉カツ
【司会】小保方貴之

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はじめに
桐生お召しから龍村織物専属デザイナーへ
“柄”を生み出す演奏家
桐生で唯一の絹専門の染め屋
今もなお現役で筆を握る図案作家
2人の整経屋からみた現実と未来
高速化に対応して世界屈指の職人へ
桐生織物の職人たち
機械直しから紗織の名人へ
全盛期を支えたお召し織物の稼ぎ頭
経糸と共に繋いだ夫婦の絆
商品の価値を決める最終段階
桐生の織物産業を陰で支える
あの光景を再び。桐生で八丁撚糸機を動かした立役者
シンポジウム 職人が語る桐生お召しの系譜
職人が語る桐生お召しの系譜
桐生お召しの製作工程
お召しを製品にする最終工程
森秀織物ナンバーワンの機織り
精練から染色、絹専門の染め屋
八丁撚糸機を動かした立役者
戦前と戦後のお召しの違い
シンポジウムに参加して

ちょっと一息/コラム
お召しチャート
編集後記

 

株式会社コスモの久保田さん。大きな布に転写された写真は会場でも一際目を引いた。

小堀さんは会場を華やかに飾ったお召しをご提供頂いた。

須田さんが作られた水車の模型は多くの方から「仕組みがわかりやすい」と評判であった。

巻頭のお召し製作工程に山中さんのお父様とお爺様の姿が写っている。

のこぎり屋根を撮影し続ける写真家の吉田さん。普段は東京で活躍している。

群馬のシルクを再生しようと活躍されている高橋さん。

八丁撚糸機は水車を動力とする以前は写真のように手回だった。

大澤木工の大澤さんは実物大の上げ下げ水車を再現された。

会場を華やかに彩ったお召しをお貸し頂いた鹿沼さん。

小路さん(写真右)にはご友人と共に着物姿でご来場頂いた。

市老連の石川仙祥さんは今でも筆を握る現役の図案作家だ(参照)。

桐生タイムスの蓑崎記者にも着物を着てご来場頂いた。